第二節:痕跡調査 ―― 残された足跡と空白
前方に広がるシダ植物の群生を、槍の穂先の十字部分で器用にかき分ける。足元が開けたら地面を注視しつつ、槍を釣り竿状態にして左右に振り、紐に括り付けた一万円札のオクタグラム(八芒星)を地面スレスレにかざしていく。前方を丁寧にクリアリングしていき、安全が確認できたら一歩前に進み、また同じことを繰り返す。その姿は、森の中で虚空に向かって釣りをしているかのようである。
「よし、異常なし」
正直、傍から見れば「一体何やってんだろう」と思われかねない滑稽なことをしている自覚はあるし、かなり悠長なことをしているのは間違いない。これも、周りにまだ獣や鳥の音が戻っていない、<黒い泥>以外の危険がおそらくない今だからこそできることだろう。
(念には念を、だ。一瞬の気の緩みが命取りになる)
そんな地道な作業を繰り返していると、やがて昨日見下ろしていた戦場の跡地へとたどり着く。
(ここで間違いないな)
道中、一万円札に何かが飛びついてくることはなかった。残滓がないのか、人工物に反応しないだけなのかは不明だが、とりあえず周辺の安全は確認できたと言える。地面には、ものすごい数の足跡や乱闘の跡が残されている。だが、木の上から観察した通り、足跡と草が乱された跡以外の痕跡は一切見つからない。
(武器や防具の欠片くらい、落ちていてもいいはずなんだが)
乱戦の中で、ゴブリンの持ち物がひょっとして落ちているかもと少し期待もしたが、本当に何もない。やはり<黒い泥>は人工物を対象にしているのだろう。そう確信を得ると、次にゴブリンや黒狼がどの方角に向かって逃げたかを調査する。
昨日撮っていたスマホの動画でも逃亡の行方を確認しようとしたのだ。しかし、ゴブリンどもが逃げ惑う様は相当動揺していたためか、映像がブレていてほとんどわからなかった。だからこそ、こうして現場の痕跡を直接確認しているのだ。新たにできた足跡、特に外側に向かって逃げている足跡を注意深く観察する。
すると、ゴブリンらしき小さい足跡と、黒狼らしき獣のような大きい足跡は、それぞれ全く逆の特定の方角へ逃げていったことがわかる。手作りのコンパスを取り出して方位を確認する。
(ゴブリンは西、黒狼は東に逃げているのか……?)
西に逃げたゴブリンの足跡を追っていくと、相当の数が途中でプツリと途切れている。
(間違いない。あの泥に飲み込まれた跡だ)
槍の十字で草をひっかけ脇に避けながら、より慎重にクリアリングしていく。やがて、一番外側で最後に飲み込まれた跡までたどり着く。影響範囲の端だったため一瞬で飲み込まれなかったのか、そこには地面を強く搔き毟って抵抗した痕跡がある。だが、その抵抗もほとんど意味をなさなかったのだろう。痕跡はわずかしか残っていない。
落下地点と思われる中心部のクレーター跡からの自分の歩数を数えると、約七十歩ほどである。
「つまり、<黒い泥>の影響範囲の半径は、約七十メートルほどか」
今度は反対方向、東に逃げた黒狼の足跡を追っていく。基準とした落下点からそろそろ七十歩ほどというところで、一体の足跡が不自然に途切れている。
「これも飲み込まれた跡だ。前が詰まっていたのか?」
泥の範囲から逃れるまで、あと一歩といったところで無慈悲に途切れている。地面の様子から、わずかに抵抗した痕跡が確認できる。
ここまでの観察で、気づいたことがある。足跡には共通の傾向があるのだ。通常、群れを作らない動物が危険から逃げる場合、足跡は四方八方へと放射状に広がるはずだ。
(だが、ゴブリンも黒狼も、その足跡はほとんど東西に固まって逃げていっている。この方角に、互いの拠点があるってことか)
黒狼の方はほぼ真東に逃げているのに対し、ゴブリンの足並みは全くそろっていないものの、おおむね西に向かっている。もう一つ気になる点として、南側にそれている足跡はちらほらあっても、北側にそれている足跡は一つもないのである。
「これを単なる偶然ととらえるべきか」
それとも、あれほど命の危機に瀕した状況にあっても、北には「絶対に近づきたくない何か」があるのか。
(――逆に言えば、敵に追い込まれたとしても、北に逃げれば向こうは追ってこないかもしれないな)
もっとも、それはより致命的な化け物の口の中に飛び込むのと同義かもしれないのだが。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
改めて、<黒い泥>の影響圏を見渡してみる。戦場を中心にして、東西に約百四十メートルほど広がっている計算になる。昨日自分が身を隠していたあの巨大な木など、余裕で飲み込む範囲である。
その規格外のスケールに改めて脅威を感じるとともに、なおさらこの場にはもう「本体」はいないことを確信する。これほどの巨大な質量を維持するのに、一体どれほどのエネルギーを消費するのだろうか。わざわざ自分一人のために、獲物もいないこの場所に一日も待ち構えているはずがない。
(安全の確認はとれた。あとは、もう一つの目的も達成できるといいけど)
そうして、<黒い泥>の影響圏外と思われる外周付近を、釣り竿を振りながらしらみつぶしに見て回る。少し勢いをつけすぎたのか、ツタの先端は、生い茂る草葉の陰に隠れて視界から外れる。ふと、手元の紐に対して「グッ」と強めの引っ掛かりを感じる。
(ん? またどこかの枝に引っ掛かったか)
そう思い、手首を返して少し強めに引っ張るが、抜けない。
(ええい、鬱陶しいな)
下手に複雑な折り紙を作ったせいで、ちょっとした茂みにもすぐに引っ掛かる。先端が草に隠れて直接見えないこともあり、先ほどからもう数十回は同じように引っ掛かっており、そのたびに立ち止まることに苛立ちが募っていた。
「くそっ、抜けてくれ」
一気に抜けるべく、思いきり力を入れて紐を引っ張る。すると、引っ掛かっていた草葉がちぎれたのか、反動で紐の先のオクタグラムが一気にこちらへすっ飛んできて、腕にピシャリと当たる。
「おっと……」
腕に弾かれたオクタグラムは、そのまま力なく足元へとぶら下がる。すこし、ひんやりと冷たい感覚が肌に走る。
(草の朝露でも触れたのだろうか?)
様子を確認すべく、足元に垂れた糸をつかみ、手元に手繰り寄せる。ただの癖だったのか、あまりにも慎重に動いたせいで進みが遅いことにイラついていたのか、あまりに迂闊な行動だったといえる。
「ひんやり?」
腕に触れた感触に強烈な違和感を感じる。だが、目の前に手繰り寄せたオクタグラムを見て、あらゆる思考が一瞬で吹き飛ぶ。
<漆黒のオクタグラムが、視界を占める>
一万円札の柄など微塵も残っていない。黒の中の黒、周囲の光をすべて飲み込むような絶対的な漆黒。世界からそこだけ切り取られたような、強烈な違和感。空間の欠落。底知れぬ、深淵。
昨日見たあの<黒い泥>そのものが、自分の目と鼻の先に存在するのであった。
明日は18時の更新を予定しています。
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