第二節:降地偵察 ―― 深淵の残滓
木の上から地上に降りる前に、まずは近くにあの<黒い泥>が潜んでいないことを念入りに確認する必要がある。
(だが、そもそもあの怪異が飲み込む対象の基準は何なんだ?)
ゴブリンと黒狼が飲み込まれていたことから『生物』が対象であることは確定だ。一方で、周りの植物はおそらく飲み込まれていない。もし植物まで飲み込まれていれば、地面に不自然に抉れた穴が開くはずだ。だが、戦場となった落下地点には化け物どもに踏み荒らされた跡が無数にあるものの、<黒い泥>が草木をこそぎ落としたような跡は一切見当たらない。
(植物には反応しないってことか……?)
また昨日、真下でゴブリンの隊長が黒狼に噛み殺された際、大量の血が飛び散ったはずだ。だが、残っているのはひしゃげた草の痕跡だけで、肝心の血の跡は一滴たりとも残っていない。さらに、<黒い泥>が現れる直前にゴブリンどもは武器をかなぐり捨てて逃げていたが、その武器すらも跡形もなく飲み込んでいる。
(モノについた『匂い』や『生命の痕跡』も対象ということだろうか。それなら匂いが付いた木も草も土も飲み込まれていないと辻褄があわない)
つまり明確に人工物を対象にしているのである。そう考えると明確に見えることがある。あれが飲み込む対象は『ただの生物』ではなく『知的生命体』を対象にしているのだろう。<黒い泥>がもし何らかの意思を持っていると仮定するなら、知的生命体と、それが生み出した被造物を優先して収集しているということなのだろうか。
(もしそうなら、これで試す価値はあるな)
この推論に基づいて、昨日から準備していたものをポケットから取り出す。千円札である。お札は偽造防止の技術が詰まった、高度な人工物だ。この異世界の技術基準からすれば、相当上位の造形物に位置するのではないだろうか。
さらに、財布の中で最もボロボロの紙幣を選んでいる。これまでに多くの人間が触っており、皮脂や匂いも相当染み込んでいるはずだ。それを真っ直ぐ下に向かって投げるため、紙飛行機の形に折っている。ただ普通に落とせば風の影響を直に受けてどこへ飛ぶかわからないため、紙飛行機にしたうえで、さらに翼の形を補正して軌道を安定させているのだ。かなり丁寧に折り目をつけたので、自分の指の匂いも十分に擦り込まれているだろう。
「めちゃくちゃ罰当たりなことをしている気がするが……背に腹は代えられないか」
罪悪感とわずかな背徳感を覚えつつ、眼下の地面に向かって千円札の紙飛行機を放つ。紙飛行機は重力に任せて真っ直ぐに落下し、目標の地面に命中する。続けてもう一枚取り出して地面に投げると、わずかにずれた場所へ静かに落下する。
(もしすぐ近くに潜んでいれば、この『匂いのついた高度な人工物』に飛びつかないはずがない)
だが、お札では小さすぎて気がつかないかもしれない。もしくは、吸収する人工物は武器や金属だけという可能性もある。ダメ押しとして、自作の槍を取り出して地面に向けて投げ落とす。ドスッと鈍い音を立てて地面に突き刺さる。
これは昼の間に、T字型の短い棒を先端の少し下に縛り付けて作った『十字槍』である。後で自分が降りた際に回収する前提のため、九メートルの高さからの落下で地面に深く突き刺さりすぎて抜けなくなるのを防ぐ、ストッパーの役割を持たせているのだ。そしてこれは、今の自分の手持ちの中で、手垢や匂いが最も染み付いた最大の『人工物』でもある。
(これで反応がなければ、少なくとも今の真下は安全だと言えるはずだ)
日時計の影の進みから見て、それから二十分ほど待っただろうか。眼下の地面には特に変化はない。<黒い泥>が湧き出る気配も皆無だ。
「よし、降りるか」
自らに言い聞かせるように呟き、覚悟を決める。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
慎重にツルを伝い、地上に降り立つ。思い切り背伸びをして体をほぐしてみるが、相変わらず感覚は麻痺しているようで、筋肉の張りや疲労をほとんど感じない。とりあえず、周りを警戒しながら先ほど投げ落としたお札と槍を回収する。
(よし、なんとか地上に降りられたな)
上空から投げ落とした槍は、想定よりもずっと地面が柔らかかったためか十字の横棒の根元まで深く突き刺さっていた。だが、横棒を持って少し引っ張るとすぐに抜ける。もともと戦闘時の足払い用の牽制としてつけたオプション装備だったが、ストッパーとして完璧に機能したようだ。横棒がなかったら、深く埋まりすぎて回収に手間がかかったかもしれない。
(予想以上に地面が柔らかかった。ストッパーがうまく働いてくれて助かったぞ)
あたりは不気味なほど、完全な静寂に包まれている。風に草が揺れる音以外、鳥の鳴き声すらしない。<黒い泥>の影響で、周りの動物が完全に逃げ去っているのは確実だ。危険な獣も寄りつかない空白地帯となっており、実行の好機である。
(不気味なくらい静かだ。だが、今はそれが都合いい)
もちろん<黒い泥>がまだ地上に残っている可能性もあるだろう。だが少なくともあの時見た本体はすでにいないと思っている。獲物が何も訪れない場所に、丸一日も待機し続けるだろうか。すでに新たな狩り場に向かって移動したと考えるほうが自然だ。
残っているとすれば、本体から取り残された分体だろう。それでも十分脅威である可能性は高い。
(油断はできない。本体はなくても、泥の欠片が落ちているかもしれないからな)
そうして、回収した槍の先端に一メートルほどの天然のツルをくくりつけ、釣り竿のような道具を作る。結んだツルの先へ紐の片端を結び、もう片端に『一万円札』で作った折り紙をくくりつける。折り紙の形は八芒星の花である。前の世界では、ファミレスなどで紙ナプキンやレシートが目の前にあって手持ち無沙汰なときに、よく作っていた形だ。
昨日の夜に作っているときはひどくもったいないことをしている気分になったが、お札は今の異世界で最も役に立たないモノの一つだろう。正直、森で何かに使えるとは到底思えない。ならばいっそ、生き残るための願掛けも兼ねて、財布の中で最も価値のある一万円、しかもピン札をあえて使うことにした。
(一万円札の折り紙か……。前の世界なら、こんなバカな使い方は絶対にしないだろうな)
囮として機能するよう、生物の痕跡を深く染み込ませるべく何度も指で擦りながら折り目をつけ、端をきっちりと合わせて作った折り紙である。丁寧に作ったためか、妙に渾身の出来になっていた。
「さあ、即席の地雷探知機の出番だ」
目で地面の安全を確認しつつ、万一の見落としを避けるため、一万円札を吊るした槍の釣り竿を前方へ伸ばす。そして、左右に揺らしながら丁寧にクリアリングしていくという寸法だ。さながら即席の地雷探知機だが、欠片ほどであっても見落とせばどうなるかはわからない。<黒い泥>がすべてを飲み込む様子を見るに、決してロクなことにはならないだろう。
(見落としたら終わりだ。慎重に、確実に進むしかない)
意を決して、槍もとい釣り竿を構える。そして、<黒い泥>が現れた中心地と思われる、戦場の跡地へと向かって歩みを進めるのであった。




