取引
石の鑑定結果を取りに行かなければと思いながら、三日が過ぎていた。
机の上には三階と七階の解読メモが広げてある。装置、接続、報告、階層。四つの言葉は読めた。九階は止まっている。不確定な6種類の記号が、紙の上で疑問符をつけたまま黙っている。
ペンを置いた。指の腹がインクで黒い。三日間、同じ紙の上で同じ記号を見続けている。
扉が開いた。
「よっ。石の鑑定、まだ?」
ゼノだった。派手な上着のまま、カウンターに肘をつく。ダリオが顔を上げて、露骨に嫌な顔をした。
「……まだです」
嘘だった。鑑定には出してある。結果を確認しに行く余裕がなかっただけだ。
「ふーん。じゃあさ、一つ聞きたいんだけど」
ゼノが俺の机の端に腰を下ろした。ダリオの眉が跳ねたが、ゼノは気にしない。机の上の紙に目を落とし、すぐに俺の顔に戻した。
「あの壁の文字、読めた?」
手が止まった。ペンが紙の上で動かなくなる。
「その顔は読めたな。すげえじゃん」
「……一部だけです」
「へえ。で、中身は?」
答えるべきか迷った。ゼノは壁を壊す人間だ。八階の壁文字を瓦礫にした男。解読結果を渡したら、次の壁を壊しに行く理由になる。
ただ、九階と十階にも似た区画があると、この男は言っていた。来週壊しに行くとも。あれから——
「先に聞いていいですか」
「どうぞ」
「九階と十階、もう壊しましたか」
ゼノが首を傾げた。
「まだ。十階は明後日行く予定」
明後日。猶予は二日。
「壊さないでください」
「なんで?」
「壁文字にメッセージが刻まれています。壊したら、二度と読めない」
ゼノの口角がわずかに動いた。面白がっている。
「でもさ、中に装置があるかもしれないじゃん。前も金になるやつが出たし」
「……取引しませんか」
口に出した瞬間、腹の底が冷えた。
ゼノの目が光った。口角がさらに上がる。
「取引。早いねぇ、事務員くん」
「壁文字の解読結果を教えます。壊さなくても、中身が分かる。壊す手間が省ける」
「ふうん。で、俺は何を出す?」
「十一階の情報です。あなたが見つけた区画の位置と、壁の状態。壊す前に」
ゼノが指で顎を叩いた。一度、二度。考える素振りだが、目が笑ったままだ。
「面白いけどさ。俺が壁壊さなかったら、中の装置は取れないじゃん」
「壊さずに取り出せるかもしれません。壁文字を読めば、正しい開け方が分かるかも」
「"かもしれない"ばっかりだね」
「……」
「まあ、壊して空だったことも何回かあるからな」
ゼノが立ち上がった。大きく伸びをする。ダリオは書類に目を落としているが、ペンは動いていない。聞いている。
「いいよ。やってみようか。面白そうだし」
扉の方へ歩きかけて、振り返らずに言った。
「言っとくけど、事務員くん。俺、"かもしれない"で三日以上待つほど気長じゃないから」
扉が閉まった。足音が廊下を遠ざかる。軽い足音。俺にとっては姉の手がかりがかかった取引で、ゼノにとっては暇つぶしの延長だ。その足音の軽さが、喉に引っかかった。
◇
扉がすぐにまた開いた。
レナだった。軽装。装備を解いた後だ。事務室に入って、床の上の泥の跡——ゼノの靴の跡——を、一瞥した。足が止まる。
「あいつ、いたのか」
声のトーンが下がっている。目が据わっていた。判断モードだ。
「……はい」
「何しに」
答えに詰まった。ダリオが席を外している。二人きりだ。
レナの視線が、机の上の紙に落ちた。解読メモ。装置、接続、報告、階層。レナが九階で圧迫感に耐えながら写した、その成果物だ。
「何か言ったか、あの男に」
「……取引を、しました」
レナの指先が、止まった。腕を組む途中の姿勢のまま、動かなくなる。
「取引」
「十一階のデータをもらう代わりに、壁文字の解読結果を共有する、と」
「……正気か」
「レナさん」
「答えになってない」
レナの右手が首筋に伸びた。古傷を触る仕草だ。だが指先が傷に届く前に、止まる。手が宙に浮いたまま、下りない。
「あいつは壁を壊す人間だ」
声は低い。怒鳴っていない。だから余計にきつい。
「データを渡したら、解読できる部分だけ奪って、残りを壊す」
「でも十一階がないと、解読が」
「七階と九階」
声が遮った。
「誰が持ち帰ったと思ってる」
息が詰まった。
「……レナさんが」
「そうだ。あの圧迫感の中を、三十分かけて写しを取った。それを、あの男に渡すのか」
「写しは渡しません。解読結果だけ——」
「中身が分かったら、あいつは次を壊しに行く」
レナが一歩、近づいた。俺は椅子の背もたれに押し付けられる。
「十二階、十三階。永遠に壊し続ける。お前が読んで、あいつが壊す。その繰り返しだ」
「……」
「お前はそれでいいのか」
レナの目を、見られなかった。
机の上の紙に、目が落ちる。四つの言葉。姉さんが辿り着いた場所の、一歩手前。
「……姉さんの手がかりが、欲しいんです」
声が小さかった。自分で聞き取れないくらい。
「十一階にもっと先のデータがあれば、姉さんがどこまで辿り着いたのか、分かるかもしれない」
沈黙が長かった。窓の外で荷馬車が通り、消えた。
レナが小さく息を吐いた。笑いでも溜め息でもない。何かを飲み込む音だった。
「……お前さ」
「はい」
「私のこと、何だと思ってる」
「え」
「姉の代わりに危ない場所を歩かせて、集めたデータをよく分からない奴に渡す」
レナの声が、変わっていた。怒りではない。もっと手前の、冷たいものだ。
「私を、姉の代わりに、使ってるだけだろ」
凍りついた。
反射的に口が開いた。否定の言葉が、喉の途中で止まる。レナの目を見て、止まった。怒っていない目。確認している目。俺の反応で、自分の読みを検証している。斥候の目。答えはもう分かっている、という目。
「そんな……」
「……」
「そんなつもり、じゃ」
「つもり、じゃなくても」
レナが、扉に向かった。
俺は椅子の肘掛けを握った。木の割れ目が指の腹に刺さる。
レナの歩き方が、違った。いつものレナは背中を見せて歩く。斥候が背を向けるのは、信頼の証だと聞いたことがある。レナはこれまで、俺に背中を見せていた。
今日は違う。半身。体の正面を完全には俺から外さないまま、扉に手をかけた。
胸の底に、鉛を飲んだような重さが落ちた。
「レナさん」
「……」
「待って」
「私が待つ意味が、あるか」
扉に手をかけたまま、レナは振り返らなかった。
「ゼノに渡すって、決めたんだろ」
「それは」
「決めたんだろ」
答えられなかった。
扉が開いた。レナが出る前に、一度だけ、こちらを見た。半身のまま。首だけがこちらを向いている。
「次に同じことやったら、組まないぞ、カイ」
扉が閉まった。足音が廊下を遠ざかる。階段を下り、消えた。
椅子の肘掛けを握る指が、剥がれなかった。しばらく、そのままだった。
◇
事務室に、一人だった。
ダリオがいつ戻ったのか、覚えていない。気づくと、ダリオが自分の机でペンを走らせていた。こちらを見ない。見ないでいてくれる、という意味だと分かった。
「……ダリオさん」
「なんだ」
「パン、買ってきます」
「いらん」
「ダリオさん」
「昼は食った。お前が食え」
ペン先は一度も上がらない。俺は立たなかった。
机の上の紙に、目を戻した。姉さんの順序表。22番まで確定した記号の列。その横に、三階と七階の解読結果。装置、接続、報告、階層。
指先でメモの縁をなぞった。角ばった筆跡。右上がりの癖。俺の字と同じ方向に起き上がる。
姉さんも誰かに、壁文字の写しを頼んだのだろうか。
引き出しを開けた。メモの裏に、小さなスケッチ。壁文字の記号をなぞった跡。丁寧な筆致で、角ばった文字を一画ずつ写している。
これを誰が書いたのか、俺は知らない。姉さん自身が七階まで行ったのか、それとも。
メモを裏返した。折り目を指でなぞる。折り目は三本ある。三回、畳み直した跡だ。一本目は几帳面に中央。二本目は少しずれ、三本目は折り目が崩れて、端まで届いていない。
姉さんが、迷った跡だった。
折り目の三本目の指先が、震えて止まる。
「……姉さん」
呼んだ。返事はない。
メモを畳み、胸ポケットに戻す。手が震えて、折り目が一本増えた。畳み直す。また増えた。
手を止めた。そのままポケットに滑り込ませる。
◇
ゼノは明日来る。十一階の情報を持って。取引は、撤回できる。撤回すれば、ゼノは予定通り壁を壊す。十階の壁文字は明後日には瓦礫になる。
レナは今日から、背中を見せてくれない。
ペンを握り直した。指が震えている。それでも、紙の上に目を戻した。九階の壁文字。不確定な6種類の記号。十一階のデータが手に入れば、穴が埋まる、かもしれない。
窓の外が暗くなっていた。ランプの灯りだけが、机の上を照らしている。四つの言葉が、橙色の光の中に浮かんでいた。
引き出しから、石の回路模様の破片を出した。掌に乗せる。冷たい。溝の形が、ダンジョンの通路配置と同じだった、あの石だ。
指先が、石の冷たさで少しだけ落ち着いた。
明日、ゼノが来る。
俺は石を、引き出しに戻さなかった。掌の中で握り込んだまま、壁に目をやった。灯りの影が、壁の石目に揺れている。
指の関節が、白くなっていた。




