装置
翌朝、ゼノが約束通り来た。
事務室の扉を片手で押し開け、折り畳んだ紙をひらひらと振ってみせる。
「はい、十一階の地図。お約束の品」
ダリオが露骨に顔をしかめた。ゼノは気にもしない。俺の机の端に紙を広げる。手書きの地図。区画番号が走り書きで、右端に「壁の色が違う」と矢印の注釈。
「ここが変な区画。壁の色が他と違くてさ、叩くと空洞っぽい音がする。隣に文字がある壁。三行くらい」
「写しは」
「取れなかった」
ゼノは笑った。
「あの階の圧迫感、半端じゃないんだよね。長居できない。でも形は覚えてる。書いた」
地図を裏返した。記号が並んでいた。角ばった古代文字。筆致は荒いが、形は判別できる。三行。
十一階の壁文字。これが、ゼノとの取引で手に入れたものだ。
「……ありがとう、ございます」
声が、小さかった。自分で分かった。
「で? 壁に何て書いてあったの」
「まだ全部は読めていません」
「今読んでる範囲で言うと?」
「装置、接続、報告という言葉が」
ゼノの眉が上がった。
「装置? あの崩れた石みたいなやつ? ダンジョンの中に装置が埋まってるってこと?」
「……たぶん」
「たぶん」
「ダンジョンそのものが、装置かもしれません」
ゼノの笑みが、消えた。一瞬。戻す。だが目の奥が動いたのが、分かった。
「面白いじゃん」
「……」
「で? 壁の奥に何がある?」
「分かり次第、伝えます」
「期待してるよ。壊さずに待ってるからさ」
指を振って出ていった。軽い足音が廊下を遠ざかる。ダリオはペンを置いたまま、紙の同じ一行を見続けていた。
◇
事務室に静けさが戻った。
机の上に、全てを広げた。三階の写し、七階、九階、ゼノの十一階メモ、姉さんの順序表、八階の石の回路模様。紙で机が埋まっている。
九階の壁文字に目を戻した。七十近い記号。素数鍵は12個。順序表に当てはめてずらせば読めるはずだ。だが22番までしか確定していない順序表では、23番以降の6種類が引っかかる。ずらした先が二通り以上に読める箇所が、次々に出てくる。
三日間、俺を止めていた壁だ。
ゼノの十一階メモに目を移した。
一行目。知らない記号の組み合わせが多い。二行目。
指が、止まった。
見覚えのある組み合わせだった。三つの記号が並んでいる。角の跳ね方、線の交差の仕方。何十回と見た形だ。この並びは、九階にも出てくる。
九階の写しを引き寄せた。本文の中盤、42番目から44番目。同じ三つの並び。九階では前後の記号が不確定で読めなかった箇所だ。だが十一階では、この三つの前後に順序表で確定済みの記号がある。
指が机を叩いた。トン。
十一階の素数鍵は分からない。ゼノのメモには見出しが書かれていない。だが同じ単語が九階にも出ているなら——九階側の鍵で逆算できる。九階の鍵は分かっている。42番目に使う鍵は12個の循環の6番目、素数は31。
42番目の記号を順序表で番号に変換し、31を引いた。出てきた番号を、順序表に戻す。
23番。
不確定記号の、一つ。
同じ手順を43番、44番にも適用した。鍵は37と41。ずらした先は25番、26番。どちらも不確定だった記号だ。
十一階側の同じ三つを、仮にこの番号で順序表に入れる。九階と十一階で同じ単語なら、同じ番号でなければならない。整合する位置は、一つしかなかった。
23番、25番、26番。
三つの記号の順序が、確定した。
ペンを握り直した。手が、震え始めていた。残り3種類のうち、文中に出現する位置と前後の文脈から、もう1つは絞れた。最後の2つはまだ不確定だが、九階で使われている箇所は少ない。文意が通る配置は、一つしかなかった。
順序表の穴が、埋まった。
姉さんが22番まで確定し、残りを埋められないまま、消えた。その先を、ゼノの走り書きが埋めた。
掌の中で、ペンが滑った。インクが紙の端に飛んだ。拾わなかった。
◇
確定した順序表で、九階の壁文字を頭から通して解読した。
記号を番号に変換し、12個の素数を循環させて引いていく。一つずつ。指先がペンを滑らせるたびに、番号が紙の上に落ちる。対応する記号を拾い出し、音に変換していく。
最初の四記号。
此、ノ、装、置。
息を止めた。続ける。
ハ。
次の記号。番号に変換し、鍵で引く。順序表に戻す。
——記号がない。
順序表の問題ではなかった。壁の写しを見直した。九階の5番目から8番目にかけて、記号の角が欠けている。丸い窪みが石を侵食して、文字の一部を消していた。レナが写しを取ったときに「読めない」と注記した箇所だ。
レナの、注記だった。
ペン先が紙の上で止まる。指先の感覚が、一拍、遠ざかる。
四文字分の欠損を、飛ばした。
ノ、状、態、ヲ、監、視、シ。
——監視。
手が、止まった。
椅子の背もたれに体が押し付けられる。動けない。目が紙の上から離れない。
続きに進む。また欠損がある。三文字分。壁の同じ高さに走る亀裂の痕。
欠損の先。
ヘ、報、告、ス、ル。
ペンを、置いた。
紙の上に、文が並んでいた。
此ノ装置ハ(欠損)ノ状態ヲ監視シ(欠損)ヘ報告スル。
ダリオのペンの音が、止まっている。いつから止まっていたのか、分からない。
俺は顔を上げなかった。
ダリオも、俺を見なかった。
事務室に、窓の外の荷馬車の音だけが落ちた。
「……ダリオさん」
「なんだ」
「水、一杯だけ、もらっていいですか」
「……ああ」
ダリオが立った。水差しの音。紙の杯。机の端に置かれる。ダリオは何も言わない。自分の机に戻る。ペンは握ったまま、動かさない。
水を、飲まなかった。杯を握った。冷たい。指先の感覚が、少しだけ戻ってきた。
◇
三階の解読結果を、並べた。装置は接続する。七階。階層間の状態を報告する。九階。此ノ装置ハ〇〇ノ状態ヲ監視シ〇〇ヘ報告スル。
回路模様の石を、引き出しから取り出した。掌に乗せる。冷たい。溝が、ダンジョンの通路配置と一致していた石だ。
机の縁に、石を置いた。
紙の端に、指を置いた。
「ダンジョンは……」
声が、途中で止まった。喉が、続きを出さない。
ダリオが、顔を上げた。見えた。目が合いかけて、俺が先に下ろした。
紙の上に、目を戻す。
「……装置だ」
小さかった。自分でも聞き取れないくらい。
ダリオは、何も言わなかった。ペンの音も、戻らなかった。
俺は石を、掌の中で握った。溝の輪郭が、皮膚に刻まれる。
続きを、言わなかった。言わずに済ませた。
◇
夕方。ダリオが退勤した。
「カイ」
「はい」
「鍵、閉めて帰れ」
「はい」
「それと」
「はい」
「……いや。なんでもない」
ダリオは扉を、少しだけ力を入れて閉めた。
事務室に、俺だけが残った。窓の外が橙色に染まっている。紙の上の文字が、夕陽で影を引いていた。
レナは、今日も来なかった。
扉が、開いた。
ハルトだった。事務室に入り、扉を閉めた。鍵はかけない。だが二人きりだ。
「管理局から、もう一件」
声は低かった。いつもの面倒くさそうなトーンではない。
「今度は、壁文字についてだ」
血の気が引いた。
「冒険者の間で噂になっている。事務員が壁の文字を集めている、と。お前だな」
「……はい」
「握り潰せるのは一度だけだ。二度目は、ない」
沈黙が落ちた。窓の外で、荷馬車が遠ざかる。
「お前の姉も」
ハルトの声が、途中で止まった。
「……」
「お前の姉も、そこまで辿り着いた」
顔を上げた。ハルトが俺を見ていた。いつもの硬い目ではない。もっと深い、何かを堪える目。
「壁の文字を集めて、読もうとしていた。報告書のパターン、壁の記号、階層間の関係。お前と、同じだ」
「姉さんは、何を」
「知らん」
「……」
「知る前に、消えた」
「消えた」。ハルトは「消された」と言わなかった。
だがその声の底に、ただの失踪では済まない何かが、沈んでいた。
「止めても無駄だとは、分かっていた。あいつの弟だからな」
あいつ。ハルトが姉さんを「あいつ」と呼んだのは、初めてだった。
ハルトが一歩、近づいた。机越しではない。机の横に立つ。初めてだった。所長として事務室を見回すのではなく、俺の目を見ている。
「だがこれだけは聞け」
「はい」
「ここから先は、知ってしまったら戻れない場所だ」
「……」
「お前の姉は、戻れなかった」
「……姉さんは」
「それが分かれば、俺も、眠れている」
ハルトの声が、掠れた。一瞬。戻す。
ハルトが扉に向かった。ノブに手をかける。振り返らずに言った。
「報告書は、期限通りに出せ」
扉が閉まった。足音が廊下を遠ざかり、消えた。
◇
夕焼けの最後の光が、窓から差していた。
机の上に、紙が散らばっている。壁文字の写し、解読結果、姉さんのメモ、ゼノの地図、石の破片。
レナは、今日も来なかった。背中を見せてくれなくなった日から、一度も。
窓の外を見た。ダンジョンの入口がある広場。冒険者たちが行き交っている。帰還する者、これから潜る者。
机の上の紙を、集めた。解読結果を二つに分ける。半分を引き出しの奥に入れ、残りを折り畳んだ。
服の内ポケットに入れた。姉さんと、同じ場所に。
ランプの芯が、じりりと音を立てた。
俺は引き出しを開けて、もう一度、姉さんの順序表を取り出した。22番までの、几帳面な筆跡。その下に、昨日までなかった23、25、26番の文字を、俺が書き込んでいた。姉さんの字と、俺の字が、同じ紙の上で並んでいる。
指の腹で、境界をなぞった。
姉さんの右上がりの癖と、俺の右上がりの癖。
線の角度が、ほとんど揃っていた。
紙を、畳んだ。折り目が、三本。引き出しの奥に戻そうとして、手が止まった。
畳み直して、胸ポケットに、入れた。
窓の外で、ダンジョンの入口が夕闇に沈んでいく。
俺はランプの芯を、少しだけ引き上げた。




