誰もいない朝
扉が開いた。顔を上げた俺の視界に入ったのは、装備のベルトを腰で鳴らす男の冒険者だった。受付の方へ体を向ける。俺はまた書類に目を戻した。
三日目だ。
レナは来ない。
事務所の空気は厚い。ハルトの所長室の扉は閉まったままで、革椅子の軋む音だけが、朝から何度も聞こえている。扉が開くたびに俺の指が一拍止まるのも、三日目になると身体が覚えていた。期待するな、と内側で言っても、耳と目は勝手にそちらへ向く。
机の上には、昨日までの書類と、今日の分と、その前の分が、順番を間違えない程度に重なっている。手が進まない。八階分の集計の途中で、数字が数字の形をしていない気がする瞬間がある。
「こっちの分は俺がやる」
通りすがりのダリオが、俺の机から帳簿を一冊抜き取った。
「いや、あの」
「自分の分に集中しろ。そっちに手がついてない」
ダリオは俺の顔を見なかった。書類を抱え直しながら、窓際の自分の机に戻っていく。俺は返す言葉を探して、途中でやめた。
「ダリオさん」
背中が止まる。
「すみません」
ダリオは振り返らずに、ペン立てから万年筆を引き抜いた。それから一度だけ、書類の上に指を置いて、何かを言いかけて、やめた。
「深く聞くな」
そう言った。
「俺は今日、お前の姉を思い出しただけだ」
それだけ言って、ダリオは書類に沈んだ。背中の線が、普段より少しだけ丸かった。俺は胸の中で、姉さんがこの人の隣で笑った日があったのだろうか、と考えた。答えは出なかった。
昼を過ぎても、扉は期待した扉の開き方をしなかった。
俺は机の引き出しを、下から上へ、順に開けた。一番上の奥、書類の下敷きにしてきた一枚に手が止まる。姉さんの字だ。
これまでも見ていた。見ていたのに、見ていなかった、が正しい。表面にはよく整理された集計の下書き。裏面に、見覚えのない記号列が一列、走り書きされている。
壁文字じゃない。階層地図でもない。壁の文字なら、素数列か順序表のどちらかで鍵が噛み合ってくれた。この記号はどちらにも当たらない。だが見慣れていた。筆跡のせいだ。姉さんの字で、姉さんの指の力で、押し付けるように書かれている。
指が机を叩いた。トン、トン。
「これ、姉さんが、自分で作った」
独り言だった。口に出して、はじめて、それが姉さんの字であると同時に姉さんの創ったものであることを認めた。
記号の固まりを数えると、冒頭が四文字分ある。手紙の冒頭で、四文字。
俺はペン先を紙の脇に置いて、仮の対応を書き始めた。
「拝啓」
宛ててみる。紙の上で一文字ずつ照らす。二文字目で軌道がずれた。合わない。
「姉より」
書き手側だ。冒頭に置く型ではない。置いても合わない。
「カイへ」
言ってみて、息が詰まった。
一文字目は拾える。だが二文字目の記号が、さっき仮置きした「イ」と噛まない。三文字目で完全にずれる。
俺はペンの尻を唇に当てた。姉さんは俺を「カイ」とは呼ばなかった。紙の上の話ではなく、家の中の話だ。
流しの前で皿を洗う姉さんの背中が浮かんだ。振り返らずに、短くこちらへ投げる呼び方。家の中でしか使わない名前だった。父も、その呼び方だけは一度も咎めなかった。
ペン先を紙の上に戻す。だが字は書けない。ペン先が紙に触れたまま、俺の手だけが止まっている。
視線を紙から外した。窓の外が赤い。日没に向かう赤は、あの冬の夕方の、台所の窓の色と同じだ。姉さんがそこで皿を洗っていた時の、窓の色。
喉が、動かない。言葉を出す前に、身体の方が先に止まる。
口を開いた。音にならなかった。
もう一度、開く。
「……シノ」
紙の上で、四文字を当てる。
一文字目、合う。二文字目、合う。三文字目、合う。四文字目は「へ」の形をしている。
合った。
呼吸が浅くなった。指が机から離れられない。
これは、俺宛の手紙だ。
姉さんは、消える前に、俺にだけ読める鍵で、俺に宛てて、何かを書き残した。
俺は椅子の背に一度もたれかかった。木が軋む。その軋みの向こうから、所長室の革椅子の軋みが重なって聞こえた気がして、俺はまっすぐに座り直した。
窓が赤くなり始めている。日没まで、時間はあまりない。
冒頭は読めた。だが続く記号列は長い。「シノへ」の四文字で鍵を組み立てても、五文字目でまた外れた。六文字目で完全に噛み合わなくなる。姉さんは、冒頭だけ読めるようにして、その先で鍵を変えている。続きを読むには、別の鍵が要る。
俺が冒頭に辿り着けたら、次の鍵が置いてある。そういう書き方だ。たぶん、俺たちしか知らないもう一つの言葉が、どこかに差してある。姉さんは、俺がここまで辿り着けることを前提に設計していた。
それは、恐ろしく楽観的な信頼だった。
俺は紙を畳んだ。胸の内ポケットに滑り込ませる。服越しに、姉さんの指の圧が心臓の側に当たる。初出勤の日のメモと、同じ場所。
「カイ」
所長室の扉が開いた。ハルトの声が低い。
「今日はもう上がれ」
俺は顔を上げた。ハルトはこちらを見ていない。視線は俺の胸の内ポケットの高さにぴたりと当たって、それからわざとらしく外された。
「はい」
俺は荷物をまとめた。ダリオは、俺が立ち上がるのに合わせて、帳簿を一冊閉じた。何も言わなかった。
レナの椅子は、初めからなかった。けれど、なかったはずの場所に、レナがいないと思ってしまう自分がいる。
扉を押した。
続きは、明日の朝だ。




