姉への手紙
出勤は一番だった。事務室はまだ冷えていて、窓の桟に昨日の埃が薄く乗っている。ダリオは別館の書類整理で離席しており、ハルトもまだ姿がない。
机に着いて、胸の内ポケットから紙を取り出す。昨日折り畳んだ線が、紙の上で一度だけ浮いていた。
広げる。「シノへ」の四文字の先に、記号列がまだ眠っている。
俺は紙を指で撫でた。端から真ん中へ、三度。走り書きの圧が、指の腹に戻ってくる。強い場所がある。弱い場所もある。姉さんは途中でペンを持ち直していた、ということだ。「シノへ」の直後、強く押された痕がある。そこが鍵の切替点だ。
「シノ」を使った置き換え表を脇に書き出す。第二の鍵は、切替点から後ろに適用する。
最初の五文字を試す。合わない。
次の五文字を試す。やはり合わない。
ペンの尻を唇に当てる。「シノ」の次に、姉さんと俺だけが共有していた言葉が必要だ。
鍵は探さなくても、近くにあった。父の書斎で俺が本を読んでいる時に、姉さんが扉の外から短く投げてきた合図。父が通る音が聞こえる、の意味でもあり、本を閉じて教科書のふりをしろ、の意味でもあった。家の中だけで使った、二音の単語。
口の中で一度だけ転がす。ペンが紙の脇で止まる。
「……ユキ」
置き換え表を書き直す。「シノ」の置き換えを外し、「ユキ」に入れ替える。切替点以降の記号列に当てていく。
五文字目、合う。
七文字目、合う。
十文字目、合う。
最後まで、通った。
長い文章ではない。走り書きで、四行。
『シノへ。壁の文字はあなたも気づいたと思う』
『もう一歩踏み込む。管理局の地下に、装置の本体があるはず』
『戻ってこなかったら、これを読んでいる』
『あなたは、読むだけにしておいて』
指が机から離れない。
姉さんは、消されたのではなかった。
自分の足で、歩いて行った。
扉が開いた。ハルトが入ってくる。
靴音だけで分かる。俺は椅子を引かずに、紙を机の上に広げたままにしておく。
「おはようございます」
「おう」
ハルトが俺の机の横を通って所長室へ向かう。通り過ぎる直前、視線が紙の上に落ちる。止まる。
「……それか」
ハルトが俺の机の脇に立った。身を屈めはしない。立ったまま紙を見下ろして、手は机に置かない。視線が四行を一度、もう一度、辿る。俺は待った。四行は短い。三度目の視線で読み終わっているはずだ。
「姉さんは、自分で行ったんです」
声が早かった。俺の方が先に言い切った。
ハルトは答えない。紙の上の走り書きを、四度目に辿っている。指は紙の上で止まったままで、紙の角に触れる直前で、一度だけ引き返した。
「見なかったことにしろ」
低い声だった、ではなく、低い声だ。
「戻らないつもりで書いていました」
言葉が勝手に出た。姉さんの四行の、最後の一行がまだ頭の中で動いている。『あなたは、読むだけにしておいて』。止めるための文だ。それでも、俺には止まれない。
「帰ってこなかった事実は変わらん」
ハルトが紙の脇から指を抜く。触れないまま、抜いた。俺は初めて、ハルトと目を合わせる。四十代半ばの、面倒くさそうな顔。その奥に、俺が今まで見たことのない色がある。疲労よりは深く、怒りより静かで、諦めではない色。
「所長」
「だから何だ」
「姉さんが行った場所に、俺が行かないと、姉さんが残した文が宙に浮きます」
声が揺れた。最後まで言いきる前に、喉が詰まる。それでも押し出した。最後の一行だけが、まだ頭の中で止まらない。
ハルトは息を一度、鼻から抜く。
「……それはお前の解釈だ」
ハルトが所長室に向かう。扉を開けて、半分入ったところで、振り向かずに呼んだ。
「カイ」
「はい」
「お前も地下に行くな」
扉が閉まる。革椅子の軋む音が、向こうから一度だけ聞こえる。それから、静かになった。
俺は机の上の紙を、畳まなかった。畳めば、畳んだ紙の厚みがまた胸の側に戻ってくる。それはまだ、したくない。
四行の走り書きが、事務室の薄い朝の光の中で、そのままの形で置かれている。姉さんの字は、ここにいる。姉さんは、ここにはいない。
昼に、ダリオが一度だけ事務室に戻ってきて、自分の机の上のペン立てだけを確認して、別館に戻った。俺の机は見なかった。見ないように見なかった、と分かる見方だった。
日が傾き始めて、窓の色が昨日と同じ赤に変わる頃、ダリオが戻ってきて席につく。俺の机を一瞥する。何も言わない。
姉さんの「読むだけにしておいて」。ハルトの「地下に行くな」。二つの命令は、同じ方角を向いている。
俺の中では、違う方向を向いている。
紙を畳む。胸の内ポケットに戻す。昨日と同じ場所。姉さんの指の圧が、また服越しに心臓の側へ乗る。
管理局地下への入口は、どこにある。




