足場が崩れる
朝、所長室の扉が開いた。ハルトが俺の机の前に立つ。
「これ、お前宛じゃないが、見ておけ」
封筒を一つ、机の上に滑らせる。茶色い紙、管理局の刻印。様式番号は右上の角。俺が手を伸ばすより早く、ハルトは続けた。
「明日来るぞ」
それだけ言って所長室に戻る。扉が閉じる。
俺は封筒を開けた。中に通知書が一枚、入っていた。表題は「監査員派遣通知」と印字されている。日付、署名、派遣理由欄。理由欄は「定例事務監査」と書かれていた。
指が紙の上で止まったのは、その一行の真下だった。
「定例事務監査」の文字列の真下に、ハイフンが一本、印字されている。短い、横線。空欄を埋める用の線ではない。最初から印刷されている線だ。続けて読むなら無視できる程度の細さ。けれど、ある。
封筒の差出元を見直す。様式番号、日付。間違いなく管理局。
「監査が来るぞ」
ダリオの声が事務室の真ん中で響いた。朝礼のような声量だが、誰の方も向いていない。
「明日。書類は整えておけ」
それだけ。ダリオは自分の机に戻る。俺の方を見ない。
俺は通知書を引き出しの一番上に伏せて入れた。指の腹がハイフンの上に残っていた感触だけ、しばらく消えなかった。
昼までは普通の集計をした。手は動くが、頭は別のことを考えている。
昼休みに入って、事務室から人が消えたのを見計らってから、引き出しを下から開けた。一番下の段、過去控えの綴り。姉さんが整理した分だ。背表紙の年号は六年前から去年まで。
三冊抜き出す。机に並べる。それぞれの中から「監査員派遣通知」の控えを探す。手を止める速度が、紙が紙にあたる音より、少し早い。
三件、見つかる。
第七管理事務所、四年前。
北辺管理事務所、三年前。
第三管理事務所、二年前。
三枚を並べる。三枚とも様式番号が揃っている。理由欄は全て「定例事務監査」。
三枚とも、定例の文字列の真下に、ハイフンが一本ある。
俺はさらにもう一冊、去年の定例監査控えを綴じた薄いファイルを抜いた。第五管理事務所、去年。理由欄は同じ「定例事務監査」。
こちらは、空白だ。
四枚を並べる。ハイフン三件、空白一件。
俺は事務所一覧の綴りを開いた。第七管理事務所、四年前の監査翌週に閉鎖。北辺管理事務所、三年前、人員総入れ替え。第三管理事務所、二年前、閉鎖。第五管理事務所だけは、何も書かれていない。
閉鎖事務所の所在地リストを引き出す。第七管理事務所、北辺、第三。三件すべて、装置に関連する報告を上げた直後に消えている。第五管理事務所の欄だけ、備考が空白のままだ。
通知書のハイフンは、最初から印刷されているもの。手書きで足したものではない。書式そのものに二種類ある。
俺は今朝の通知書を引き出しから出して、四枚目として並べた。
ハイフンが、ある。
夕方、事務室の窓が赤く染まる頃、ダリオが帰り際に一度だけ俺の机を見た。並んだ四枚の通知書の上で視線が止まる。一拍。ダリオは何も言わずに事務所を出た。
俺は四枚を伏せて綴りに戻した。今朝の通知書だけ、胸の内ポケットに入れた。姉さんの紙の隣で、新しい紙の角が当たる。
帰った。自宅の戸を閉めて、ランプに火を入れる前に、戸が叩かれた。
ダリオが立っていた。外套の襟を立てている。
「事務所の倉庫まで来い。三十分後」
それだけ言って背を向ける。俺が「はい」と返す前に、もう歩き出していた。
俺はランプに火を入れずに、もう一度外套を羽織った。胸の紙はそのままにしておく。
冬の夜だった。事務所裏の倉庫まで、十五分。途中の道で、息が白い。
倉庫の戸を引いた。中はランプ一つの暗さで、奥に積まれた段ボールの山が黒い影のまま並んでいる。ダリオは手前の段ボールに腰かけていた。ランプは床に置かれている。
「閉めろ」
俺は戸を閉めた。
ダリオは俺を見ない。ランプの炎を見ている。手元に空き缶の蓋が一つある。蓋を炎の上に一瞬かざして、また外す。炎が細くなって、また戻る。倉庫の壁が暗くなって、また戻る。
「姉さんに、同じ通知が来た日があった」
俺は段ボールの山の手前で立ったままでいる。
「ミオは、今日のお前と同じ顔で、引き出しから過去の控えを掘っていた」
ダリオの声は普段より低い。事務所の朝礼の声量ではない。ランプの炎の高さに合わせるような声だ。
「俺は、やめろ、と言った。一度じゃない。何度かだ」
「……」
「ミオは、分かった、と答えた」
ダリオは缶の蓋をもう一度、炎の上にかざす。今度は長い。
「翌週、地下に行った」
炎が細くなり切る前に、蓋を外す。
「俺が、やめろ、と言ったのは、間違いだった」
ダリオは初めて俺の方を見た。
「言うべきだったのは、明日の朝、机を空にしておけ、だった」
俺は段ボールの手前から動けない。
「お前のだ。明日の朝、お前の机を空にしておけ」
「……」
「私物は持ち帰れ。書類は俺が引き継いだ体にする」
「ダリオさんに、引き継がせるのは……」
俺は、続きを言えなかった。
「俺は読まん」
ダリオは缶の蓋を床に置く。
「読まなければ、消されない」
倉庫の中が、缶の蓋を置く音以外、しばらく無音だった。ランプの炎は同じ高さで揺れている。俺の呼気だけ、目の前で白く一度立って、消える。
ダリオが立ち上がる。ランプを拾う。倉庫の戸の方へ歩く。戸の前で、振り返らずに止まった。
「お前の姉は、お前しか読めない書き方をした」
心臓の側で、紙が一度だけ動いた気がした。
「お前はそれを読んだ」
「……」
「それが何を意味するか、もう分かってるな」
俺は答えられなかった。ダリオは答えを待たずに戸を引いた。冷気が入って、ランプの炎が一度大きく揺れて、戻った。
ダリオが先に出る。
ランプは床に置いていかれた。俺はその脇に、しばらく立っていた。
胸の内ポケットに、二枚ある。姉さんの紙と、今朝の通知書。姉さんの指の圧と、ハイフン一本の印字。重さが、二重になって、心臓の側に乗っている。
明日、机を空にする。
ダリオに引き継いだ体にする。
姉さんのメモと暗号の控えは、自分で持ち帰る。手元から離さない。
ランプを拾って、火を消した。倉庫の戸を引く。外に出る。
事務所の二階、所長室の窓に、明かりが点いている。
ハルトも、知っている。




