換字
朝、机に座る前から手が動いていた。
三枚の壁文字の写しと、姉さんのメモを並べる。昨晩も頭の中で記号が回り続けて、ほとんど眠れなかった。見出し、数列、本文。構造は見えている。姉さんの順序表で見出しの三記号に番号が振れることも、昨夜確かめた。
本文が、読めない。
扉が開いた。ダリオが入ってきて、紙で埋まった俺の机を見る。
「朝一番からか」
溜め息が続いた。
返事をする代わりに、三階の写しを手に取った。本文部分だけを見る。角ばった記号が横一列に並んでいる。数にして二十ほど。その中に、同じ形の記号が何度も繰り返し現れていた。昨夜から喉に引っかかっていたものだ。
ペンを握り、余白に出現回数を書き出し始めた。
最初の記号、本文に三回。次の記号、一回だけ。三つ目、五回。指先で一つずつ数えていく。ペン先が紙を押す感触が、だんだん強くなっていく。
七階の写しに移った。本文が長い。記号の数は五十を超える。同じ作業を繰り返す。出現回数を記号ごとに、正の字で数えていった。腕が痛くなるまで数え続けた。
九階。本文はさらに長く、七十近い記号。もう一度、同じ作業。
三枚分の頻度を並べた。
偏っていた。どの壁文字でも、頻繁に出てくる記号と、一度か二度しか出ない記号がある。報告書のゴブリンの出現区画と同じだ。偏りがある。ということは、法則がある。
ペンが止まった。
「言語だ」
声が漏れた。ダリオのペンが一拍止まったのが、気配で分かった。構わなかった。
よく使う記号と、使わない記号。ランダムな模様じゃない。文を組み立てる道具として、使い分けられている。
三枚の壁文字に出てくる記号を、重複を除いて全部書き出した。種類を数える。
28種類。
俺たちの文字体系と同じくらいだ。28種類を組み合わせて文を作る。それぞれに固有の音か意味があり、並べる順序で言葉になる。
指が机を叩いた。トン。一度だけ。
姉さんのメモを裏返した。
昨夜、ここまでは辿り着いていた。順序表。見出しの三記号に姉さんが番号を振った、小さな表。見出しだけだ。28種類全部に順序を振らなければ、本文は読めない。
目がスケッチの端に滑った。昨夜、読めなかった記号列。壁文字の体系にもない、順序表にもない、三つの記号——いや。
違う。
朝の光で見える。昨夜は薄暗かったから見落としていた。三つではなかった。記号列はもっと長い。消しかけの鉛筆線が、紙の縁ぎりぎりまで続いている。折り目に隠れていた部分を、指で慎重に広げた。
記号が一列に並んでいた。下に、小さな数字。1、2、3、4、と各記号の下に振ってある。列は途中で途切れていた。22番まで振って、そこで筆が止まっている。残りには番号がなく、疑問符が添えられているものもあった。
手が震えた。
「姉さん、ここまで……」
声が掠れた。姉さんは見出しだけ解いて止まったのではなかった。28種類の古代文字の並び順を推定しようとしていた。22種類まで番号を確定させ、残り6種類は確信が持てないまま止まっている。
俺は指先で机の縁を握った。木目の節が、爪の下に食い込む。
姉さんの順序表を、壁文字の本文に当てはめてみた。記号を番号に置き換えていく。三階の本文、最初の記号は姉さんの表で15番、次は9番、その次は21番。
数字の列が紙の上に並んだ。15、9、21、3、18、7。
意味が通らない。数字に変換しただけでは、言葉にならない。まだ仕掛けが残っている。
見出しの素数に目が戻った。三階の素数は5と7だ。姉さんの図に「鍵?」と走り書きがある。読み解くための鍵。素数が鍵なら、この数字の列に、何をする。
足すか、掛けるか、割るか。
——ずらす。
ゴブリンの区画が三週連続で同じだった。同じ値が、同じ間隔で繰り返す。同じ間隔でずらして読み解く、その手の暗号があったはずだ。
本文の記号を、素数の分だけ順序表の中でずらしたら。
最初の記号は15番。素数は5。足して20番。次は9番、7ずらして16番。交互。
ずらした先を並べた。20、16、26、10、23、14。対応する記号を姉さんの表から拾う。
読めない。意味を成さない羅列だ。
指先がペンの尻を噛んだ。
足すのではなく、引く。15から5で10番、9から7で2番、21から5で16番。
ここで手が止まった。検証する方法がある。
壁文字の本文には、古代文字に混じって数字記号が入っている。縦棒の繰り返しで数を示す、あの記号だ。三階の隠し部屋で初めて見つけたとき、あれだけは読めた。既知の情報。
「ダリオさん、すみません」
「何だ」
「三階の壁で、数字の棒三本は、数の『三』ですよね」
「数字は万国共通だ。縦棒一本で一、三本で三、俺が言うまでもない」
ダリオは顔を上げない。だがペン先が一瞬、紙の上で止まったのを俺は見ていた。
息を吸う。本文の8番目、縦棒三本の記号。3を表している。
もし「引く」方向で正しいなら、記号をずらしたあと、この8番目の記号は順序表で数字記号の位置に来るはずだ。
8番目の記号、順序表で12番。鍵は5と7を交互に使う。奇数番目は7、偶数番目は5。8番目だから5を使う。12から5を引いて、7番。
姉さんの順序表で、7番に当たる記号を見た。
——数字記号。
息が、止まった。
合っている。ずらしたあと、数字の位置がぴたりと収まる。引く方向、交互適用。
ペンの軸を握り直した。手汗で滑る。確定した鍵で、数字以外の記号を一つずつずらしていく。指が震える。ずらした番号が紙の上に落ちていく。
最初の四記号をずらし終えた。対応する記号を、姉さんの表から拾い出す。
——装——置。
次の二記号。
——接——続。
呼吸を忘れていた。ペンを握る手が止まらない。三階の本文は短い。二十記号足らずの文が、断片的に意味を結び始めていた。
「装置は、接続する」
声が震えた。
ダリオが顔を上げた。何か言いかけて、閉じた。ペンを置く音がした。
「……カイ」
「はい」
「昼飯、買ってきてやる。今日はここから動くな」
「え」
「動くなと言った」
ダリオが上着を羽織って出ていった。扉が閉まる。その音の余韻が、机の紙の上で一度、震えた。
◇
七階の壁文字に移った。
鍵の素数は四つ。13、17、29、37。四つを順に循環させながらずらしていく。構造は三階と同じ。ただし鍵が長い分、計算が煩雑になる。
ペンが走る。記号を番号に変換し、素数を引き、記号を拾い出す。本文は五十記号を超える。時間が溶けていく。指の皮が擦れて、ペンの軸に赤い跡が移った。
断片が浮かんだ。「報告」。「階層」。「状態」。
三つの階層で、同じ方法で暗号化されている。見出しの素数が鍵、順序表で引く方向にずらす。誰かが意図的に設計した。鍵を知っていれば読める。知らなければ、28種類を一つずつ全部試すしかない。
九階。
鍵は12個。素数を12個循環させながら、七十近い記号をずらしていく。三階の何倍もの計算量。それだけではない。
姉さんの順序表で、確信が持てない記号。23番以降の6種類。九階の本文には、その不確定な記号が何度も現れる。ずらした先が二通りに読める箇所が、次々に出てくる。
「装」か「層」か。「接」か「報」か。
一箇所の誤りが、後続の全てに波及する。鍵が12個と長いせいで、誤差が累積する。
ペンを、置いた。
三階と七階の断片だけでも、十分な意味がある。壁文字は暗号化された文章で、素数が鍵で、順序表でずらせば読める。だが九階の全文は、まだ読めない。
「もっとデータが……」
声が低くなった。同じ記号が別の文脈で出てくる壁文字があれば、順序表の穴を埋められるかもしれない。十階か十一階の写しがあれば。
指は机を叩かなかった。動かない。目が三枚の紙の上に据わったまま、泳がなくなっていた。
「壁が、喋っている」
声に出た。
◇
「カイ。所長室に来い」
ハルトの声が事務室に落ちたのは、昼を過ぎた頃だった。ダリオはまだ戻っていない。
紙を裏返して机に伏せた。立ち上がる。所長室の扉を開けると、ハルトは窓の外を向いて立っていた。いつもの椅子に座っていない。
「管理局から問い合わせがあった」
背中のまま言った。
「三階の隠し部屋の件だ」
胸の底が冷えた。
「……問い合わせ」
「お前が報告書から座標を出したこと。冒険者の間で噂になって、管理局の耳に入った。事務員が報告書からダンジョンの構造を予測している、とな」
ハルトが振り返った。硬い目。姉さんの話をしたときの目だ。
「俺が報告書を書いた。新人が偶然気づいた、再現性はない、と」
息を飲んだ。
「お前の発見は握り潰した」
「……」
「感謝しろとは言わん。ただ、理解しろ。管理局が興味を持つと、何が起こるか」
「……姉さんのときも」
ハルトの表情が、固まった。一瞬。戻す。
「それ以上言うな」
声が変わった。低く、短く、何かを堪えている。
「俺にできるのはここまでだ。お前が何をしているか、いずれバレる。そのときに、もう一度庇えるとは限らん」
ハルトが目を逸らした。窓の外。
「下がれ。報告書は期限通りに出せ」
「ハルトさん」
「下がれ」
出た。扉を閉める。廊下の空気が重い。掌が汗で濡れている。ハルトが書いてくれた報告書。姉さんのときも、同じことをしたのか。あのときは、握り潰しきれなかったのか。
俺は胸のポケットに手を当てた。紙の厚みが、一拍遅れて胸に戻ってきた。
◇
事務室に戻ると、ダリオが机に紙包みを置いていた。パンの匂いがした。
「……ありがとうございます」
「食え」
ダリオは俺と目を合わせなかった。自分の机に戻り、ペンを取る。だがペン先は紙の上で動かない。
俺は机に座った。伏せていた紙を、戻さなかった。伏せたまま、その上にパンを置く。
「ダリオさん」
「なんだ」
「所長は、姉のこと」
「知らん」
答えが早かった。ペン先が、紙の一点に食い込んでいた。
「俺は、何も知らん。聞くな」
それきり、ダリオは口を開かなかった。
ペンの音が、いつもの事務室の音に戻っていく。だが空気の温度が、違っていた。
伏せた紙の下で、装置、接続、報告、階層。四つの言葉が、紙の裏から俺を見ている。
引き出しから白紙を一枚出した。解読結果を二つに書き写す。三階の断片を一枚、七階の断片をもう一枚。元の紙は、引き出しの奥。一枚を机の引き出しに、もう一枚を服の内ポケットに。
姉さんと同じだった。引き出しに半分、胸ポケットに半分。あのとき意味が分からなかった行動が、指先で再現されている。一箇所に置けば、まとめて消される。
ダリオのペンの音、窓の外の荷馬車、インクの匂い。いつもの事務室だ。だが、壁が喋り始めていた。
十階と十一階が要る。順序表の穴を埋めなければ、九階の全文は読めない。そのためにはレナに、もう一度深い階層に潜ってもらう。そして俺が壁文字を調べていることが、管理局の目にもっと強く触れる。
ペンを握り直した。指が震えている。それでも、止まらない。
胸ポケットの中で、紙が一拍、遅れて動いた。




