三つの壁
レナが事務所の扉を開けたとき、左肩の革鎧に灰色の粉がこびりついていた。
「区画67。あった」
短い報告だった。装備を解く前に、折り畳まれた紙を俺の机に置いた。炭の匂いがする。七階のときと同じ、粗い紙に写し取られた古代文字の列。
「85%が当たったな」
レナの声に笑いはなかった。目が赤い。粉塵が入ったのか、それとも別の理由か。
「圧迫感は?」
「七階の比じゃない。胸が詰まって、視界が狭くなる。十五分が限界だ」
「……十五分」
「写し取れたのは壁の半分」
首筋の古傷を無意識に触っている。七階で三十分だったのが、九階では十五分に縮んだ。階層が深くなるほど、人間が耐えられる時間が削られていく。
「ありがとうございます」
「礼はいい。使え」
レナが背を向けた。事務所を出ていく足取りに乱れはなかったが、扉を閉める手が一瞬震えていた。気づかないふりをした。
◇
三枚の紙を、机に横一列に並べた。
左に三階の隠し部屋の文字を置き、真ん中が七階の写し、右が今朝レナが持ち帰った九階の写しだ。ランプの光が三枚の紙を均等に照らしている。ダリオが奥の机で書類を捌く音が、かすかに聞こえる。
三枚が並んだ瞬間、手が止まった。胸の底が熱くなる。三階で一枚目を見つけてから、ここまで何日かかった。レナが七階の圧迫感に耐えて持ち帰り、九階でさらに身を削って写し取ってくれた。その二枚が今、俺の机に並んでいる。
指が三枚の紙の上を滑った。まず文字の形を見る。
角ばった書体。直線と鋭角で構成された文字が、横書きで並んでいる。三階の文字も、七階の文字も、九階の文字も、同じ書体だ。筆跡は異なる。だが、使われている文字そのものは同じだった。
次に構造を見る。
三階の文字列は短い。五つの数と、その前後に記号の列がある。七階は長い。八つの数が二段に並び、その上に一行、記号だけの列がある。九階はさらに長い。十二の数が三段に並び、その上に二行分の記号列がある。
三枚を見比べたとき、視界の端で何かが揃った。
記号列の先頭。三枚とも、同じ三つの記号で始まっている。
指が机を叩いた。トン。一度だけ。
三階の先頭三記号と、七階の先頭三記号と、九階の先頭三記号。同じだ。完全に一致している。
「見出し、数字、本文」
声に出ていた。意味は分からない。だがこの三つの記号は、壁文字の「表題」だ。報告書で言えばフォーマットの冒頭。日付やパーティ名を書く欄の前に印刷されている、あの決まり文句と同じ構造。
数字を拾い出した。三階には5つの数がある。3、7、13、29、41。七階は8つに増え、上段が13、17、29、37で下段が7、23、31、41。九階はさらに多く、12の数が三段に並んでいた。上段が5、11、19、31、中段が13、23、37、43、下段が7、17、29、41。
全て素数だ。階層が深くなるほど素数の数が増える。
目が泳がなくなった。視界が三枚の紙だけに固定される。
「同じ言語だ」
声が大きくなっていた。
「これ全部、同じ言語で書かれてる。三階も七階も九階も。同じフォーマットで、同じ——」
「カイ」
ダリオの声が遮った。
◇
ダリオが立ち上がっていた。腕を組んで、俺の机を見下ろしている。目が三枚の紙の上を一通り見て、その奥に積み上がった未処理の報告書の束に移った。
「三階の報告書、午前中に整理するって言っただろ」
「すみません、もう少しだけ」
「もう少し、じゃない。何回言わせるんだ」
「ダリオさん」
「お前の仕事は報告書の整理だ。壁に書いてある文字を読むことじゃない」
ダリオの声は苛立っていたが、怒鳴るほどではなかった。いつもの小言。事務員として当然の指摘だ。俺が通常業務を放り出して、机を壁文字の紙で埋めている。文句を言わない方がおかしい。
「……すみません」
三枚の紙を重ねて端に寄せようとしたとき、ダリオの目が止まった。
紙の上の文字列を見ている。一瞬だけ。だがその一瞬に、何かを思い出したような顔が過ぎった。
「……ミオも、そうだった」
声のトーンが変わっていた。苛立ちではない。
「え」
「仕事そっちのけで、同じような紙を広げて。似たような記号の羅列を、ずっと睨んでた」
手が止まった。紙を掴んだまま動けなくなる。
「姉さんのこと、知ってるんですか」
「同僚だった。それだけだ」
ダリオが目を逸らした。腕を組み直す。言葉を探しているのか、言うべきでないことを飲み込んでいるのか。
「あいつがいなくなる前、机の上にこういう紙が広がっていた。記号と数字の並びだ」
「それで」
「俺は何も聞かなかった。仕事に関係ないと思った」
事務室の空気が重くなった。窓の外で荷馬車が通る音が、遠くで鳴っている。
「聞いてれば、何か変わったんですか」
「分からない。聞かなかったからな」
ダリオが背を向けた。自分の机に戻り、ペンを取る。それ以上は何も言わなかった。
俺はダリオの背中を見ていた。姉さんの同僚。同じ事務室で、同じ空気を吸っていた人間。姉さんが消える前に、同じ紙を見ていた。聞かなかった、とダリオは言った。その声の底に沈んでいるものが、後悔なのか自責なのか、俺には分からなかった。
◇
通常業務を片付けた。三階の報告書を二十件転記し、棚に収める。手が機械的に動く。だが頭の中では三枚の紙の構造がぐるぐると回っていた。見出し、数字、本文。同じフォーマットで同じ言語だ。ペンが紙の上を走る間も、脳の奥で記号列が重なり続けている。
ダリオが退勤したのは夕方の鐘が鳴る少し前だった。書類を揃えて鞄に入れ、上着を羽織る。扉に向かいかけて、足を止めた。
「報告書、あと十件残ってるからな」
「はい」
「……あと」
「はい」
「無理すんな」
「え」
ダリオはもう俺を見ていなかった。扉を開けて出ていく。振り返らない。短い一言が事務室に残った。姉さんのときに言えなかった言葉を、今、俺に言っているのかもしれない。
事務室に一人になった。
◇
ランプの芯を上げて、机の上を照らす。三枚の紙を再び広げる。だがその前に、引き出しを開けた。
姉さんのメモを取り出した。角ばった筆跡に右上がりの癖がある。03、07、15、22、31、そして区画41への矢印。何度も見た表面だ。
メモを裏返した。
いつもは表面の数字だけを見ていた。裏面に何かあるとは思っていなかった。だが三枚の壁文字を並べた今、姉さんが同じことをしていたとダリオが言った今、もう一度見るべきだった。
薄い鉛筆の線が走っていた。
消しかけの、細い線。ランプに近づけないと見えないほど薄い。だが間違いなく姉さんの字だ。
図が描いてあった。
壁文字の構成を分解した図だった。上から「見出し」「数列」「本文」と書かれた三つの括弧が矢印で区切られ、壁文字の構造を図解している。
息を飲んだ。
「……姉さん」
声が掠れていた。メモを持つ手が震えている。俺がたった今やったことを、姉さんはとうに済ませていた。壁文字に見出しがあること、数字の部分と本文の部分が分かれていること、同じ体系の言語で書かれていること。全部、姉さんは知っていた。
表面の数字の羅列は始まりに過ぎなかった。裏面に、姉さんの本当の仕事があった。
図の下に、小さな表が描かれていた。「順序表」と題された、記号と数字の対応リスト。見出しの三つの記号それぞれに番号が振られている。姉さんは壁文字の記号に順序を割り当てていた。壁文字を読み解くための、最初の一歩。
順序表を壁文字の見出しに当てはめてみた。姉さんが振った番号通りに記号を並べると、三枚の見出しは全て同じ順序になる。
「合ってる……」
声に出ていた。姉さんの分析は正しかった。俺より半年以上前に、姉さんはここまで来ていた。
そしてスケッチの端に、別の記号列があった。
姉さんが独自に書き込んだ注釈のようだった。壁文字の記号とも違う。数字でもない。三つの記号が、括弧の外に小さく書かれている。何かの略語か。何かの印か。
読めなかった。
姉さんの字であることは分かる。だが何を意味しているのか、まるで分からない。壁文字の構造を解き明かした姉さんが、その先に見つけた何か。俺より先に、姉さんは次の段階に進んでいた。
メモを机に置いた。三枚の壁文字と、姉さんの順序表と、読めない記号列。紙片がランプの光に浮かんでいる。
順序表は見出しの三記号にしか対応していない。本文の記号には番号が振られていなかった。姉さんは見出しまで解いて、そこで止まっている。止まったのか、止められたのか。
読めない記号列に目を戻した。三つの記号。壁文字の体系にもない。順序表にもない。姉さんだけが知っている何かの印。
窓の外が暗い。ランプの油が減っている。そろそろ帰らないと、朝の業務に差し支える。だが立ち上がる気になれなかった。
姉さんは、この記号の先に、何を見たのか。




