外套の縁
毛布の縁に置かれていたレナの手が、一度、離れた。
姉さんの瞼は、閉じたまま。寝台の縁の毛布の位置は、もう動かなかった。
俺は、ハルトの隣を離れた。背中の輪郭と装置の制御部の形の境目には、手も視線も置かなかった。
視線を、廊下の方角へ移す。
* * *
二人で、部屋の出口へ歩いた。
部屋の中の音は、もう鳴らない。
鉄の扉の手前で、一度だけ振り返った。部屋の中の物理は、止まっていた位置のままだった。
鉄の扉が、閉まる。扉の重さで、空気が一段、押されたように感じた。
* * *
廊下の空気は、部屋より、一段、冷たい。
湿気と古い金属の匂いの中に、足音が落ちた。
ダリオが、廊下の鉄の扉の手前で立っていた。外套は、脱がない。壁にも、まだもたれない。視線は、廊下の奥の搬入口の方角に向いていた。
三人が、廊下に立った。声は、誰も出さない。合図もない。
* * *
搬入口の方角の廊下の奥から、人影が一つ、現れた。
黒い外套の裾が、長い。腰のあたりまで届く丈。街の冒険者の外套でも、管理局の制服の外套でもない裁ち方だった。
ある夜に見た外套と、裾の長さだけが同じだった。
だが、足の運びが違う。歩幅が広い。一定。壁にもたれず、廊下の中ほどで、止まった。
顔は、外套の縁の影で見えない。
* * *
裾の縁が、一段、擦れている。糸が短く起き、布の毛羽が朝の光を薄く返した。
腕の位置は、外套の前で重なる。
だが、肩の角度が、違った。一段、低い。ある夜の人物の肩の角度ではない。
搬入口の方角の階段の上の朝の光だけが、廊下の奥に、薄く落ちている。
* * *
レナが、外套の内側に片手を入れた。武器を抜く動作には、入らない。
ダリオが、半歩、廊下の壁際に動いた。俺と人物の間には、立たない。少し外れた位置で、視線だけを向けていた。
俺は、廊下の中ほどに立ったまま。
人物との距離は、数歩。
* * *
人物が、外套の内側に片手を入れた。
手の動きは、速くない。指の腹で、紙の縁を一度だけ確かめてから、外套の外側に取り出した。
人物が、俺の方へ、半歩、近づいた。距離は、まだ数歩、残っている。
人物が、片手を伸ばした。紙の縁が、俺の胸の位置に向く。
紙が、俺の手の届く距離で、止まった。
* * *
俺は、片手を上げた。
指の腹が、紙の縁に触れた。
紙の縁は、薄い。湿気の跡はない。一晩、屋内に置かれていた紙の触感だった。
俺は、紙を受け取った。声はかけない。うなずきも返さない。
人物の視線が、俺の方を一度だけ通った気がした。だが、外套の縁の影の奥で、目の輪郭は、確認できない。
* * *
紙の表面に、文字が薄く書かれていた。
数字の並びがある。
筆運びの傾きは、姉さんの手のものではなかった。ハルトの紙の癖でもない。
別の手の癖だった。
数字の切れ目だけが、胸の内ポケットのどの紙とも違っていた。
母さんの名の箱の蓋を開けた、あの一枚の数字の並びだけが、そこで噛み合った。
* * *
人物が、廊下の搬入口の方角へ、踵を返す。
足音が、廊下の壁の角度に吸われていく。反響しない。
一歩、二歩、三歩で、姿は廊下の角の向こうに消えた。
ある夜、街路で一度だけ姿を見せた人物の消え方の物理と、似ているように思えた。
だが、ある朝、街路の別の角に姿を見せた人物の足音の消え方とは、違っていた。
* * *
廊下に、三人が、立っている。
俺は、受け取った紙を、胸の内ポケットの一番上に滑り込ませた。
胸の中で、紙の重なりが、一段、増した。
装置の音は、鳴らない。
部屋の中の静寂は、扉の内側に止まったまま。
搬入口の方角の階段の上から、朝の光が、廊下の床に、薄く落ちていた。




