第二の読み手
三系統の紙は、机に並んだままだった。
ダリオは机の前で、過去の通達整理を続けている。引き出しから、まだ別の束が出ていた。
俺は外套を着た。胸の内ポケットの紙の重さは、家を出た時のままだ。
レナが扉のそばで、外套の縁に新しい雪のついていない位置を指で確認した。
「家、知ってる」
短く、それだけだった。
ダリオは見送るだけで、何も言わなかった。
* * *
雪の街路は、固まり始めていた。足の裏で踏むと、薄く割れる音がする。
来た方向ではない方へ歩いた。事務所の扉から、東の通り。街灯はもう全て消えている。
街路に、他の人影は少なかった。朝の早い時間に動く者の足音が、遠くで一度立ち、消える。
レナが先に歩く。俺は半歩遅れる。
道は、曲がり角を四つ。街路標はどれも普通の住所表示で、紙の貼られた跡は見えなかった。
* * *
二階建ての小さな家の前で、レナが立ち止まった。
玄関の戸は木製で、塗装が剥げている。
表札に、二つの名前が並んでいた。男の名と、女の名。
男の名の方は、彫りの線が薄く擦れていた。女の名の方は、新しく書き直された跡がある。
レナが戸を叩いた。二回。
家の奥で、椅子の脚が床を擦る音がした。
戸が開いた。
年配の女が立っていた。白髪が混じり、目尻に皺が深い。
女は、レナを見て、俺を見て、二人を交互に見た。
* * *
「上がって」
短く、それだけ。
玄関を上がった。木の床が一段、軋んだ。
家の中は古かった。台所の方から、茶の煮える匂いと、煮物の匂いが混じっていた。
居間に通された。机が一つ、椅子が二つと、長椅子が一つ。
俺とレナは長椅子に座った。女は机の向かいの椅子に座った。
卓の上に、湯飲みが二つ置かれていた。茶の表面はもう揺れていない。
* * *
「夫が、白い橋の」
女が、それだけ言った。
女はそこで一度、息を継いだ。
「もう、四ヶ月になる」
俺もレナも、答えなかった。
「息子はもう仕事に出てる。今は、私一人」
居間の窓から、雪の固まった庭が見えた。庭の足跡は、ない。
* * *
「あんたの姉さんは、消える二週間前に、ここに来た」
俺は答えなかった。
「机の前に、しばらく座ってた。何かを書いてた」
女の手が、机の引き出しに近づいた。
引き出しが開く。中に、古い箱が一つあった。木の箱、蓋の塗装が剥げている。
女が箱を、机の上に出した。
* * *
蓋を開けた。
中に、紙の束が一つあった。
紙の表面に、姉さんの手の癖で書かれた数字が並んでいる。
俺は手を出さなかった。目だけで、紙を見た。
見覚えのある三枚のどれとも、数字の並びが噛まない。
紙の縁に、地名の略号らしい文字が並んでいた。場所に結びついた数字の紙だった。
* * *
女の手が、箱の蓋を閉めた。
女は、俺の目を見た。
「あんたが何人目かは知らないけど」
短く、それだけ。
閉じた箱の蓋に、女の指先がしばらく触れていた。
「これを読める人は、たぶん最後じゃない」
俺は答えなかった。
レナも答えなかった。
* * *
茶を、レナが先に一口飲んだ。
俺は飲まなかった。
女が席を立った。玄関まで、送りに来た。
別れの言葉は、なかった。
戸が開いた。雪の冷気が、家の中に流れ込んだ。
俺たちは家を出た。
戸が閉まる音は、軽く乾いていた。事務所の戸とも、自宅の戸とも、違う音だった。
* * *
雪の街路、戻り方向。
街路標を、逆順に辿った。曲がり角を四つ、来た時と同じ数だけ。雪の上に、来た時の俺たちの足跡が二人分、まだ残っている。新しい足跡は、そこから半歩ずれて続いた。
俺は胸の内ポケットの、外側からの返信の紙を、布越しに押さえた。紙の角が、布越しに指の腹に当たる。女の家の紙は、置いてきた。
戻る道は、来た道より短く感じた。
事務所が見える街路の手前で、立ち止まった。
レナが、俺の脇で足を止めた。外套の縁が、俺の外套の縁に触れない位置で、半歩離れている。
俺は、女の家の方角を、振り返らなかった。
事務所の中で、ダリオの机の側面の時計の針が、まだ進み続けているはずだった。明日の十時までの目盛りが、その分だけ短くなっている。




