読み手の手紙
俺は屈んだ。膝が、寝台の縁に近づいた。
寝台の脚から指一本分の距離で、紙が止まっている。床は石、目地に細かい砂がある。砂の粒の上で、紙の縁が一拍だけ揺れた。
指で紙の縁を持ち上げる。紙は薄い。指の腹の下で、たわんで折れた。紙の重さは、姉さんの手帳の頁一枚分よりも軽い。
屈んだ姿勢で、ランプの光の角度が変わった。紙の表面の影が消える。
文字が、見えた。
* * *
文字は短かった。手書き。ペンの圧が一定ではない。書く速度が、途中で変わった跡がある。
『読んだ者へ』
『あなたで何人目かは、こちらにも分からない』
『紙は、これまで何度か渡された』
『次に渡す相手を、あなたが決める』
俺は紙を手に持ったまま、立ち上がらなかった。
二度、読んだ。文字を一つずつ、指で追う。
最後の一文の途中で、ペンの圧が一度だけ深くなっていた。「あなたが」と「決める」の間だった。
二度目で、最後の一文だけ、もう一度指で撫でた。
* * *
立ち上がった。膝の節が、鈍い音を一度立てた。
装置の制御部の方を、少しだけ見た。
ハルトの背中の輪郭は、まだ光の縁にあった。起動窓の針受けに、ハルトの指は押し当てられたまま。肩の高さは、俺が部屋に入った時から、変わっていなかった。
ハルトは振り返らない。
俺は何も言わなかった。
姉さんの寝台の方を見た。
目は閉じていた。呼吸はあった。毛布の胸の位置が、ゆっくり上下する。
紙を持つ手の指先に、さっき触れた手首の冷たさがまだ残っていた。
* * *
扉の方へ歩いた。
男は扉のそばに立っていた。男の足は、上がり口の位置から動いていなかった。
男が扉を開けた。
俺が部屋を出た。
扉が閉まる音は、後ろで聞こえた。低く、一度だけ。
* * *
廊下の壁の高い位置に、ランプが等間隔で吊るされている。湿気と古い金属の匂い。
階段を昇った。段の数は、十二段。
昇るたびに、地下の冷たさが抜けて、雪の冷気に変わっていく。
搬入口の木の扉が、開いていた。外に、雪が一段、薄かった。
* * *
搬入口の前に、馬車が止まっていた。来た時と、同じ位置。
御者席に、運転手の姿はなかった。
馬の背中に積もっていた雪は、薄く溶けかけていた。
俺は馬車に乗らなかった。雪の街路を歩いた。
男が後ろから出てきたかどうかは、振り返らないので、判らない。
* * *
雪は、止みかけていた。
空の縁が、灰色から白に近づいている。街灯は、消えかけていた。半分が消え、残りも光が薄い。
街路は静かだった。馬車も、人影も、雪の上に動く影はない。来た時に通った西大路の方向と、自宅の方角の間で、街の音が一段下がっていた。
街路の角に、雪の上に、三本の線が薄く残っていた。
以前見た位置とは、違う角だった。線の向きは、馬車の進行方向ではなく、自宅の方角に向いている。等間隔ではない。最初の二本は近く、三本目だけが少し離れている。
前に見た三本線と、歩幅の開き方が似ていた。
* * *
自宅の戸口の前で、立ち止まった。戸の建付けは湿気で重い。
鍵は、出る時に閉めなかった。
戸を押した。屋根の三角に積もっていた雪は、止んだ後の重さで、肩の脇には落ちなかった。戸の上の雪が、軒の縁で止まっている。
廊下のランプの光が、玄関の上がり口にまだ届いていた。油の匂いは、出る前と同じ濃さ。
ダリオが上がり口に座っている。来た時と、同じ位置。
レナが廊下の中ほどにしゃがんでいる。来た時と、同じ位置。
二人とも、何も言わなかった。俺も言わなかった。
* * *
俺は廊下の床に紙を広げた。レナとダリオの間の位置に。
紙の四隅は、屋根の雪解けの湿気で、わずかに反っていた。床の板の上で、紙が一度だけ位置を直す。
レナが紙を見た。外套の内側に手を入れたまま。視線が、紙の上を四行ぶん下りる。
ダリオが上がり口から首を伸ばして見た。指は、上がり口の縁の板に置かれたままだ。
文字を、三人で読んだ。
言葉は、出なかった。
レナが、外套の内側から姉さんの手帳を取り出した。紙の脇に置く。手帳の革の表紙が、紙の縁に触れた。手帳の角が、紙の最後の一文の真上で止まる。
三人の沈黙が、廊下に少しだけ続いた。
* * *
俺は紙を畳んだ。胸の内ポケットに入れた。解読の紙のあった位置に。
ダリオが、初めて口を開いた。
「次は、誰だ」
短く、それだけだった。
俺は答えなかった。
レナも答えなかった。
自宅の戸の外で、雪が止んだ。
街路に、雪を踏む音は、まだ立たなかった。




