装置の前で
俺の足は、扉の前で止まったままだった。
男は、扉のそばで動かない。
俺は一歩、踏み入れた。靴の底が、石の床で短く鳴る。一段下がる感覚はない。床は同じ高さで続いている。
ランプの光の中、ハルトの背中の輪郭が、近くで揺れていた。
胸の内ポケットの解読の紙が、布越しに角を立てる。
* * *
部屋は広かった。
中央に、装置の本体が据えられている。全体は見えない。手前にある制御部だけが、視界に入った。
制御部は、金属の卓のような形をしていた。表面に、複数の盤面と、歯車が並ぶ。
一つ目は、日付を示す円盤だった。数字が円周に並び、針が一本だけ立っている。歯車は卓の側面に組み込まれていて、外から指で回せる位置にあった。
二つ目は、名簿の紙の束だった。卓の右側に重ねて置かれている。脇に、ペンが一本と、インク瓶が一つ。インクの瓶蓋が斜めに開いていた。
三つ目は、時計に似た盤面だった。針が二本動いている。盤の外側の目盛りに、「日没から十二時間」を示す印が刻まれていた。針の先は、その印の中に入りかけている。
歯車の油の匂いと、金属の冷たさが、地下の湿気と混じっていた。
* * *
ハルトの右手が、日付盤の歯車に触れた。
親指と人差し指で、歯車を一目盛りだけ、逆方向に回す。
小さな音がして、針が一拍動き、戻り、止まった。
日付盤の数字の位置は、一つだけ後ろにずれた。前に進んでいた時間が、その分だけ後ろに引き戻された格好になる。
ハルトは、振り返らない。
* * *
ハルトの左手が、名簿の頁を一枚めくった。
卓の上のペンを取り、インク瓶に短く浸す。
名簿の上から数行目、一つの行に、短い線を引いた。線は短い。一行を消した、と分かる長さだけだった。
ペンを動かす。消した行のすぐ上に、別の名前を書き込んだ。
ハルトの手の節が、ランプの光で浮かび上がる。手の動きは、慣れた指の運びだった。同じ動作を何度も繰り返してきた手の、ためらいのなさだった。
書き終わってから、ペンを卓の脇に戻す。
ペンの先のインクは、卓の表面に一滴も落ちなかった。
* * *
ハルトの両手が、起動窓の盤面に近づいた。
盤面の針が、ゆっくり動こうとしている。「日没から十二時間」の目盛りの中、針の先は、もうすぐ目盛りに触れる位置にあった。
ハルトの右手の指先が、盤面の縁に触れる。
針受けの位置(針が動く前に止まる、機構の一点)に、ハルトの指の腹が押し当てられた。
針が動かなくなる。
針受けに押し当てた指は、動かない。動かないまま、しばらく続く。
ハルトの肩は、上下していないように見えた。呼吸が浅くなっているように思える。止めているのかもしれない、とも思える。後ろからは、判らない。
* * *
ハルトが、指を針受けに押し当てたまま、左手で何かを書いた。
制御部の側面に、盤面がもう一枚ある。文字を書き込む欄が並んでいた。短い文字列が縦に流れていた。
俺は二歩、制御部の側面に近づいた。
文字列は、暗号の書式に近かった。記号と、二音の単語が、交互に並んでいる。
並びの中ほどに、二音だけ、別の文字で書かれていた。
ハハ。
俺は胸の内ポケットから、解読の紙を取り出した。折り畳んだまま、盤面の脇に置く。
紙の畳んだ縁の文字と、盤面の二音が、同じ位置で重なる。
* * *
部屋の片側の壁際に、寝台が一つあった。
寝台の上に、人が一人、横たわっている。毛布が胸まで掛けられていた。
顔が、ランプの光の縁に置かれていた。
姉さんだった。
目は閉じている。
呼吸はあった。毛布の胸の位置が、ゆっくり上下する。
俺は、寝台の側に数歩、歩いた。
* * *
寝台の縁に、片手を置いた。木の縁が冷たい。
姉さんの手首に、指を当てた。脈はあった。遅い。指先の下で、遠い場所の音みたいに打つ。
額に手を当てた。体温は低い。冷えた布の下に、かすかな熱だけが残っていた。
髪に指が触れた。家にいた頃と、同じ手触り。
姉さんは、目を開けない。
俺は声を出さなかった。出してはいけない、と思ったわけではない。声が、喉の奥で止まっていた。
* * *
姉さんの瞼が、一瞬、開いた気がした。
虹彩の色が、ランプの光で見えた、ような気もする。家にいた頃と、同じ色。
動いた、と断言できるほどの長さでは、なかった。
一瞬で、瞼は閉じた。
視線が俺に向いていたかどうか、それも判らない。
* * *
姉さんの手、毛布の縁から少し出ていた手から、何かが滑った。
服の縁、毛布の縁、寝台の縁、その三つの縁を、順に伝う。
紙が一枚、床に落ちた。
紙は薄い。落ちる時に、紙の音が一度だけ立った。
俺の足が、寝台の脇で止まった。
紙は、床の上に、文字の面を上にして、止まっている。紙の縁は、寝台の脚から指一本分の距離。
文字は、見えない。光の角度が、紙の表面に影を作っていた。




