連行
男は、玄関の上がり口を踏まなかった。
胸の内ポケットの一番上に、解読の紙が戻されたばかりだった。廊下の床に、姉さんの手帳が開いた頁のまま残っていた。
俺は男に向き直った。
「行く」
男が、それだけ言った。
* * *
俺は廊下の靴を履いた。靴ひもの先が雪で湿って、革が指の腹で冷たい。
ダリオが俺を見ていた。ダリオの口は、開かなかった。上がり口の縁の板に、ダリオの片手が置かれたままだ。指先が一度だけ、板の上で動こうとして、止まった。
レナが廊下の床にしゃがんだまま、片手を伸ばした。手のひらが、姉さんの手帳の上で一拍止まる。
手帳が、レナの外套の内側に滑り込んだ。
ランプの陰だった。男の方からは、レナの片手の動きは見えない位置だった。
俺は立ち上がった。胸の内ポケットの一番上の解読の紙だけが、俺と一緒に動く。
* * *
雪の街路に、馬車が一台、止まっていた。
黒い、屋根付き、二頭立て。馬の背中に、雪が積もり始めている。
御者席に、運転手が一人。帽子を深く被っている。顔は見えない。
男が先に馬車の戸を開けた。俺が乗った。男が続いた。
戸が閉まった。雪の音が、また一段遠くなった。
俺は自宅の方を、振り返らなかった。
* * *
座席は硬い革だった。毛布が一枚、座席の上に折り畳まれている。毛布の縁に、別の誰かが座った跡の凹みが薄く残る。
俺は毛布を取らなかった。座席の硬さが、背中に直に来る。
男は向かいに座った。男の足は、馬車の床の板の上で動かない。男の外套の裾は、座席の縁よりも下に落ちていない。膝の角度が、座る前から決まっていたみたいだった。
馬車が動き出した。車輪が雪を踏む音が、最初の周期を作る。馬の蹄の音が、車輪の半拍前に入る。
窓の枠から、雪の冷気が入ってくる。窓のガラスは、内側から曇り始めていた。
* * *
俺は車窓のガラスを、掌で一度拭いた。
街灯の光が、流れた。
街路標が、車窓を通り過ぎる。
一つ目。「西大路三番」。
二つ目。「中央広場 南入口」。
三つ目。「管理通り」。
頭の中で、街の地図が並んだ。西大路の北側に、俺の家がある。中央広場を抜けて、管理通りに入る。管理通りの先は、王都管理局本部の正面だ。
馬車は本部の正面で速度を緩めなかった。脇道に折れた。
脇道の石壁に、鉄の荷印が打たれていた。雪に半分埋もれた矢印が、下を向いている。
本部地下の、搬入口だ。
* * *
馬車の中から、御者席の運転手の背中と、手の一部が見える。前の窓のガラス越しに。
手綱を握る左手の、薬指の付け根に、古い擦り傷がある。傷は線が短く、二本に分かれて治っていた。重い金属を持ち上げる時に、指の付け根を一度挟んだ形だ。
御者席の足元で、靴が時折動いた。靴の縁に、泥がついている。
泥の色が、街路の雪解けのものではなかった。湿った、繊維の混じった泥。下水とも違う、地下の通路の泥だ。
運転手の腰の脇に、工具袋が一つ吊るされていた。袋の縁に、金属の擦れた跡が二筋。蓋を持ち上げる時に縁が当たる位置だ。
北辺の側溝の蓋を持ち上げるなら、あの縁はああ擦れる。
* * *
馬車が、中央広場を抜けた。管理通りに折れる前の角。
角の街路標の根元、雪の上に、薄く三本の線が引かれていた。
線は、馬車の進行方向と同じ向きに引かれている。等間隔ではない。最初の二本は近く、三本目だけが少し離れている。
一瞬、車窓を通り過ぎた。
俺は窓の外で雪を見ている顔のまま、視線だけが線を追った。
男は気付かなかった。運転手も気付かなかった。
ゼノが残した、とは言わない。同じ歩幅だ、とまで言う。
* * *
馬車が管理通りに入り、本部の脇道へ折れた。
男が、初めて口を開いた。
「お前の姉は、まだ届いていない」
短く、それだけだった。
俺は男の方を見なかった。窓の外を見続ける。
届いていない。
その四文字だけが、馬車の中に残った。
胸の内ポケットを外側から押さえる。解読の紙の角が、布越しに当たる。手帳のあった位置だけが軽い。
* * *
馬車が止まった。
男が先に降りた。俺が続いた。
降りる時、運転手の靴の泥が、踏み板の縁に薄く落ちる。落ちた泥の繊維が、雪の上で湿った筋を作った。
搬入口の中に、地下への階段があった。木の扉が開いていて、奥の暗がりに、ランプの光が薄く上がってくる。階段の段は、石。古い、表面の角が削れている。
* * *
階段を降りた。段の数は、十二段。降りるたびに、雪の冷気が抜けて、別の冷たさに変わっていく。
長い廊下があった。石造り。湿気と、古い金属の匂い。廊下の壁の高い位置に、ランプが等間隔で吊るされている。光は、足元までしっかりとは届かない。
廊下の奥に、扉が一つあった。鉄の重い扉。蝶番が大きい。
男が扉を開けた。蝶番が低く鳴る。
扉の向こうは、広い部屋だった。
部屋の中央に、ランプの光が落ちていた。光の中に、輪郭が一つ。
立っている人の、背中の輪郭だ。
ハルトのものだった。
ハルトは、振り返らなかった。背中だけが、光の縁で動かないでいる。
俺の足が、扉の前で止まった。




