白い橋とその家族
俺の足は、その場で止まったままだった。
ダリオも動かない。雪が肩の上で重みを足していく。帽子の縁の雪が、内側に溶け始めて、額の縁が冷たい。胸の内ポケットの軽さは、家を出る前のままだった。
街灯は半分だけ点いている。道の先は雪で滲んで、街の輪郭が一段遠い。
雪の街路の角から、人影が現れた。
黒い外套。歩幅は軽い。雪の上で音を立てない。外套の縁に、雪と泥と、五日分の重みがついている。
レナだった。
レナは俺の三歩前で止まった。
「資料、持ってきた」
短く、それだけだった。
* * *
ダリオが先に動いた。上がり口に向き直る、靴のままで。家の中に戻る順序が、来た時と入れ替わった。
俺が続いた。レナが最後に入る。
玄関の戸を閉めた。雪の音が遠くなる。廊下のランプは、まだ点いていた。
ダリオが上がり口に座り直した。書斎には入らない。
俺は廊下の中ほどで、父の書斎の戸の前で立ち止まった。レナが廊下の床にしゃがんだ。外套は脱がない。膝の下で板が一度きしむ。
* * *
レナが外套の内側から包みを取り出した。油紙で巻かれている。雪と泥で汚れている。
包みを開く。中から厚い紙の束が出てきた。写しの紙、公文書の書式。
レナが床の板の上に紙を広げた。三枚重ね。
一枚目は、王都ギルド本部の通達文書の写し。処分名簿。
二枚目は、申請者控え。レナの判が押されていた。
三枚目は、北辺管理事務所跡地の地下調査メモ。レナの手書きだった。
「閲覧申請、王都ギルドの通達。北辺の地下、一日歩いて確認」
短く、それだけ。
* * *
俺は胸の内ポケットから姉さんの手帳を出した。革の表紙は冷たい。姉さんの手の体温は、もう残っていない。
通達文書の脇に、レナの手が触れない位置に、手帳を置く。
最後の頁ではなく、中ほどの頁を開いた。
姉さんの私製注釈が並んでいた。日付と、短い記号と、名前。
指で頁を撫でた。古い紙のざらつきが、指の腹に残る。
* * *
俺は通達文書の処分名簿に指を置いた。一番上から、順に下りる。
一。読めない名。
二。読めない名。
三。
指が止まった。
三の行に、姉さんの手帳の私製注釈と一致する記号があった。三角と、横棒と、点が二つ。姉さんの頁の同じ位置に、同じ三つの形が、同じ順序で書かれている。
通達文書側の正式表記には、こう並んでいる。
『三 / ハルト・ヒナ / 妻 / 申請消失』
ハルト所長の名と並ぶ、二音。
姉さんの頁の注釈には、その二音はない。記号だけがある。
指が、紙の上で動かない。
* * *
玄関の方から、ダリオの息が止まった気配が伝わった。
廊下の床の板を、玄関側の重さが伝ってくる。座っているダリオの方の板が、一瞬だけ、別の重さに変わったような気がした。
ダリオは何も言わなかった。
俺は振り返らなかった。レナも振り返らなかった。
* * *
俺は指を四に下ろした。
四から十二までは、紙の上を指が下りる動作だけだった。日付と記号と読めない名が並んでいる。
十三で、指が止まった。
十三の行に、姉さんの頁にだけある線が引かれていた。
『十三 / 白い橋 / 五名 / 十二月十二日 / 消失』
以前、姉さんのノートで引いた指の跡と、紙の上で重なった。
* * *
俺は指を十四に下ろした。
十四から十八までも、紙の上を下りる動作だけだった。
十九で、指が紙から離れた。
『十九 / ミオ / 申請消失 / 三月七日』
姉さんの頁の中ほどの注釈の、最後の一行と、日付が一致した。三月七日。姉さんが消えた日だ。
指の腹が紙の冷たさを離した時、冷えているのが紙なのか指なのか、一瞬分からなかった。
* * *
俺は胸の内ポケットの一番上から、解読の紙を取り出した。
折り畳んだまま、開かない。
三と十九の間に、置いた。
紙の畳んだ縁が、見えていた。最後の一行が、リストの中央あたりで止まっている。
レナが解読の紙を一瞥した。手で触らない。姉さんの手帳、開いた頁、折り畳んだ紙を順に見た。
「これ、手帳の続きで読んだ?」
「ああ」
短く、それだけだった。
* * *
レナの手が、俺の手の上に置かれた。手のひらの体温が、紙越しに来た。
手のひらが触れている時間は、短い。
「明日だけだ、の続き、いる?」
「いる」
レナの手が離れた。
* * *
玄関の方から、戸口の外で雪を踏む音がした。
一人分。歩幅は重い。
ダリオの肩が一拍揺れた。
レナが立ち上がった。手が外套の内側に動く。
俺は解読の紙をリストの間からそっと抜いた。胸の内ポケットに戻す。
戸口の音が、玄関の戸の前で止まった。
戸が、外側から押される音がした。
* * *
玄関の戸が開いた。
屋根の三角に積もっていた雪が、肩の脇に音を立てて落ちた。
戸口に立つのは、外套の男だった。歩き方は、廊下から事務室まで靴音を聞かせなかった、あの男のものとは違う。重さがある。
「迎えに来た」
短く、それだけ。
男の靴は、外で雪を払わなかった。
戸も、閉めなかった。
外の雪が、開いた戸口から廊下の床に三角の影を落とす。男の足は、まだ上がり口を踏まない。




