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戦えない事務員の俺がダンジョンの報告書を整理してたら、古代文明の暗号で世界の秘密に辿り着いてしまった  作者: どみさん


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19/35

家の中で読んで

 男が出ていった後、ダリオの息が長く吐かれた。吐き切るまでに、たぶん五秒。


 俺は胸の内ポケットの上に、外側からそっと手を当てた。手帳の角、紙三枚、印鑑、櫛。順番が、男の来訪の前と一つも変わっていない。


 窓の外で、雪が一段強くなっていた。


 俺は机の前から動いた。立っていた足を、外へ向けて動かす。


 ダリオが時計を見た。俺を見た。外套を取った。


「俺も行く」


 短く、それだけ。


 ダリオが事務室のランプを消す。所長室の鍵は、男が触らなかった通り、俺の机の上に置かれたままだ。


* * *


 街路は雪が積もり始めていた。事務所の前に、足跡が一つ残っている。男の靴。一人分。


 俺は男の足跡を踏まなかった。避けもしなかった。脇を一歩外して通り過ぎる。


 ダリオが俺の一歩遅れて歩く。雪の上でも、いつもの狭い歩幅だった。


 外套の肩に雪の重みが乗る。帽子の縁が冷たい。街灯は半分だけ点いていて、残りは雪で滲んでいる。


 曲がり角を二つ。橋の上で雪が一段深い。家までの道を、俺は数えなかった。ただ、足の裏で雪を分けて歩いた。


 ダリオの靴音が、俺の靴音より半拍遅れて続く。途中で一度だけ、ダリオが小さく咳き込む音がした。雪の冷気が喉に当たったのかもしれない。それも、振り返らない。


* * *


 戸口の前で立ち止まった。戸の建付けは湿気で重い。


 鍵を回した。戸を押す。屋根に三角に積もっていた雪が、肩の脇に音を立てて落ちた。


 玄関に靴が二足ある。古い靴、もう一足の古い靴。三足目は、ない。


 廊下の冷たさが足の裏に来た。


 ダリオが玄関の上がり口で立ち止まった。外套を脱がない。靴も脱がない。ただ、上がり口の縁に座る。


「ここで待つ」


 俺は廊下のランプに油を足した。火が小さく立ち上がる。


* * *


 書斎の戸を開けた。


 机の上にランプ、椅子、本棚が三本。父の机の上は片付いていた。ペンとインク壺の位置が、揃っていた。


 机のランプを点けた。光が本棚に当たる。


 左から二段目の中ほど、一冊の背が他より少し前に出ていた。姉さんが最後に動かした本だ。


 俺は胸の内ポケットから母の櫛を出した。木の手触り。手の中で軽い。歯の冷たさが指の腹に当たる。


 歯を数えた。指で左から右へ、ゆっくり。


 母さんの後ろに姉さんと並んで立っていた頃、櫛は十九本あるのだと聞いた。


 今は十八本。左から数えて八番目が、短く折れている。


 俺は本棚の一冊を抜いた。表紙は赤茶の革。背に、姉さんのペン痕が小さく残っている。


 ページを開いた。十九見開き目を開く。指の腹で紙を送る。


 右下に、姉さんの印があった。小さな黒点が一つ。特定の単語の上。


 その単語の二文字を、俺は読んだ。


* * *


 書斎の机の引き出しから白紙を出した。広げる。


 姉さんの手帳の最後の頁を開いた。記号列が、未解読のまま残っている。「シノへ」と「ユキ」で読めた範囲の、その先。


 白紙に「シノ」「ユキ」と書いた。その下に、三音目を書き込む。


 二文字を口の中で一度だけ転がした。声には出さない。


 ハハ。


 母さんを呼ぶ時だけの二音だった。家の外では呼ばない。父さんの前でも口にしない。書斎の戸の内側で、姉さんが俺の耳元にだけ落とす音だった。


 俺は鍵を当て始めた。


 一文字目に「シノ」。合う。


 切替点で「ユキ」に切り替える。合う。


 第二の切替点で、「ハハ」に切り替える。


 一文字、合う。


 二文字、合う。


 三文字、合う。


 手が止まった。


* * *


 一文目が立ち上がった。


『私は逃げる側にいる』


 俺は紙から目を離さなかった。


 以前読んだ姉さんの文と、ずれる。眠ったまま運ばれた、と地下の文書にはあった。逃げる側にいる、と手帳にはある。


 どちらが先か、俺には判断できない。


 判断しないまま、紙の脇に手を置いた。


 二文目を続ける。鍵を当てる手は、最初の一文目より遅い。指の腹が紙に触れる時間が、長い。


 二文目が立ち上がった。


『あの人にだけは渡すな』


 あの人。


 俺は紙から指を離した。


* * *


 廊下から、ダリオの声が届いた。


「お前の姉さん、最後の頃、家のことばかり気にしてた」


 短く、一度だけ。


 俺は返事をしなかった。


 廊下の沈黙。雪の音だけが窓の外で続いている。


 ダリオの声がもう一度届いた。


「所長も、最近、家のことで何度か言葉を切ってた」


 短く、一度だけ。


 俺は返事をしなかった。


 その後、廊下から音はしなかった。


* * *


 俺は姉さんの手帳を閉じた。解読の紙を畳む。胸の内ポケットの一番上に、姉さんの手帳と重ねて滑り込ませた。


 母の櫛を、机の脇に置いた。持って出ない。家の中に、置く。


 書斎のランプを消す前に、解読の紙の畳んだ縁が見えていた最後の一行を、もう一度見た。


『あの人にだけは渡すな』


 文字の上で、指の腹が一拍止まった。


 ランプを消した。


* * *


 廊下を戻る。廊下のランプはまだ点いていた。


 玄関でダリオが立ち上がった。


 俺たちは何も言わない。


 戸を開けた。雪が一段、また強くなっていた。


 俺が先に外に出る。ダリオが後ろを閉めた。


 雪の街路に、男の足跡は埋もれかけていた。新しい足跡が、二人分。


 俺の足は、その場で止まった。事務所の方へは向かなかった。


 胸の内ポケットが、家を出る前より軽い。母の櫛の分だけ、軽い。


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