客
男は座ったまま、動かなかった。
ペンとインク壺の位置を整え終わってから、男の指は机の縁に一本だけ置かれている。指は動かない。視線だけが、壁、扉、窓、机、と四角を確かめるように動いた。
俺は椅子に座らない。立ったまま、椅子の脚に手を添えている。ダリオの手は机の上で止まっている。ペンを握ったまま、書類には触れない。
事務所の柱時計が秒を刻む。男の靴音は、来た時から聞こえていない。
男の呼吸の音も、聞こえない。胸の上下の動きが小さい。座っているのに、座っていない人間のような静けさがあった。インクの匂いと、革の匂いと、そこにもう一つ、何の匂いか分からない冷たいものが混じっている。男の外套から流れているのか、男の体から流れているのか、判別がつかない。
ダリオの椅子が、一度だけ、軋んだ。それきり鳴らない。
男の外套の襟元に、小さな金属片が一つある。
管理局の徽章ではない。冒険者ギルドの認可印でもない。形が珍しかった。五角形、その縁の一本に、縦線が一本。
俺は机の下で、自分の指で文様の形を描いた。五角形の枠を一周、縁の縦線まで指でなぞる。
もう一度なぞる。三度目で、形が指の腹に残った。
三階の隠し部屋を思い出した。報告書の数字、03、07、15、22、31。その五点を地図の上で結んだ五角形。中心に空白があった。隠し部屋は中心にあった。レナと初めて目を合わせる前の、最初の的中だ。
徽章の縦線は、中心ではない。縁にある。位置が違う。
五角形だけは同じだ。だが、これは隠し部屋の印じゃない。
別の何かを指している。
窓の外で、足音が一度立った。
雪で湿った地面を、軽い体重で踏む音。レナの歩き方だ。
もう一つ、別の足音。乾いた、軽い、口笛を吹きそうな歩幅。ゼノの歩幅だ。
二人の足音は同期していない。レナの歩幅で四歩進んで、ゼノが二歩遅れて追いつく。同じ場所から来たのではない。別の道で合流したばかりだ。
窓の下で、二人の足音が止まる。一拍。また動く。事務所には入らない。窓の外側を、ゆっくり一周してから、離れていった。
男の視線は、窓の方に動かなかった。
男が口を開いた。喉の奥で、息を一度整える音だけがした。
「ハルト所長は、戻ってこない」
短かった。事実だけを伝える声。所長、と呼んだ間が普通より少し長い。敬意の置き方を知っている人間が、敬意を抜いて呼んでいる。
ダリオの肩が、一拍揺れた。それきり、もう動かない。
俺は何も言わない。
「お前の机の上に置いていったものは、お前のものだ」
男の視線が、机の上の所長室の鍵を一瞥した。視線は鍵の上に二拍置かれてから、外れた。指は触らない。触らないことを、俺に見せている。
「お前と組んでいた男は、地下でもう一つ見ていた」
俺の指が止まった。
「だが、それは女には言わなかった。お前の女には」
お前の女、で喉が鳴った。鳴ったのを男に見られないように、俺は顔を上げられない。
「あいつは、女が動くと困ると判断した。あの判断は、正しい」
判断は、正しい。男はそう言った。男がゼノの判断に評価を与える資格を、どこから得たのか、俺には分からない。
地下の床に文書束があった。点検路の脇に姉の荷物があった。それ以外に、まだ一つある。
俺は男の指の縁を見ている。
男が立ち上がった。椅子は引かなかった。立ち上がる動作だけ。両手は外套の脇に下ろされ、机に手を置かない。
ペンとインク壺の位置は、男が来た時のままだ。
男が扉に向かう。歩き方は来た時と同じ、靴音を聞かせない。扉の前で振り返らない。手は扉の取っ手にかかる前に、一度だけ宙で止まった。
「今日は届けに来ただけだ」
短い間。
「管理局より先に、こちらが先に届いた」
扉が閉まった。閉まる音も、来た時と同じ大きさだった。
ダリオが息を一度、長く吐いた。吐ききるまでに、たぶん五秒。
ダリオの手のペンが、ようやく動いた。だが書類には触らない。ペン先は宙で円を描き、また机の上に戻った。
俺は机の前にまだ立っている。椅子に座らない。座る動作の途中で、足が止まった。
胸の内ポケットに、外側からそっと手を当てた。いちばん上の手帳の角が、布越しに当たる。手帳の下に紙が三枚、その下に印鑑、いちばん下に櫛。順番が、男の来訪の前と一つも変わっていない。
窓の外で、雪が一段強くなっていた。




