壁の声
朝、事務所の扉を開けた瞬間、空気の質が違った。
昨日まで俺の存在に気づいてすらいなかった冒険者たちが、受付カウンター越しにこちらを見ていた。二人、三人。廊下にまで人が溢れている。汗と革鎧の匂いが、昨日より一段濃い。
「あれだろ。報告書だけで隠し部屋を当てたって新人」
声がざわめきの奥から飛んできた。肩が縮んだ。俺は視線を床に落として、姉さんの机に向かう。
「おい、新人。三階の件、お前が見つけたんだって? どうやった」
Cランクの剣士が身を乗り出した。腕は俺の太ももくらいある。口を開いたが、声が喉の途中で止まった。
「調子に乗るなよ」
ダリオが書類の束で俺の机を叩いた。乾いた音が、冒険者たちの声を切った。
「たまたまだ。報告書の数字が偶然並んだだけだ。三ヶ月も整理を溜め込んでた奴が、初日で何か見つけたってのは――つまり、今までの俺たちが無能だったって言いたいのか」
「そうは」
「そうは、何だ」
ダリオのペンを握る指が白かった。昨日の舌打ちのときより、関節が強く浮いている。冒険者たちが気まずそうに目を逸らして、一人、また一人と廊下に引いていった。
偶然じゃない。喉まで出かかって、飲んだ。ここでそう言い返しても、ダリオの指の白さが消えないことだけは分かった。
「カイ。来い」
所長室から、ハルトの声が落ちてきた。
◇
所長室のドアを三回叩いて、開ける。
ハルトは椅子の背にもたれたまま、窓の外を見ていた。朝の光がランプの金具に当たって、机の木目の疵を昨日より浅く見せている。
「昨日の件は俺が管理局に報告する。お前は今日から、いつも通り報告書を整理しろ」
「……はい」
「聞こえなかったか」
ハルトの目がこちらを向いた。
「いつも通りだ。余計な分析はするな」
昨日の面倒くさそうな声じゃない。低くて、硬い。視線が俺の顔で止まって、一呼吸、動かなかった。姉さんの失踪を知らされた日、父さんが仏壇の前で振り向いた時の目と、同じ形をしていた。
「はい」
所長室を出て、廊下で息を吐く。手のひらが湿っていた。
余計な分析はするな、と言った同じ口で、昨日は冒険者に調査を依頼した。言葉と行動が、噛み合っていない。噛み合わせないようにしている。ハルトは、知っている。
事務室に戻ると、机の上に新しい報告書の束が積まれていた。一番上を捲った瞬間、指が止まる。
区画41の内部報告だった。
◇
「隠し部屋、南側の岩壁を破った先。広さは通常の半分ほど。中に三つ」
冒険者の走り書きが、そう始まっていた。
一つ目――東側の壁一面に、見たことのない文字。
二つ目――床に古い装置の残骸。歯車と管の組み合わせ。用途不明。
三つ目――壁の亀裂から覗く青みがかった半透明の鉱石。鑑定はギルドに依頼中。
紙の端に、不器用な手つきで模写された壁面の文字列があった。丸と線と点の組み合わせ。俺はその列を、指でなぞった。規則性がありそうで、掴めない。インクが一箇所だけ濃い。冒険者が書き直した跡だ。
胸ポケットに手を入れた。姉さんのメモを、机の下で広げる。
指が止まった。
メモの端に、姉さんの几帳面な字で、小さく三つ。丸と線の組み合わせ。壁面に刻まれた記号と、一致していた。
息を吸った。喉の奥で音が鳴った気がした。
姉さんは、この文字を、どこかで見ていた。あの部屋の存在を知る前に。
「隠し部屋を見つけたのは、どの事務員だ」
顔を上げた。事務所の入り口に、女が立っていた。
短い髪。首筋から鎖骨にかけて白い線が何本か走っていた。古傷。軽装。腰に短剣を二本。装備の革が擦れた匂いが、距離を置いていても届いた。朝の連中とは空気が違う。値踏みの目じゃない。もっと奥まで覗こうとする目だ。
ダリオが俺を見た。俺が視線を返すより先に、女は机の前に来ていた。
「あんたか」
「……はい」
「レナだ。Cランク。で、あの座標、どうやって出した」
椅子に座ったまま見上げる形になった。レナの目が俺の顔を、次に机の上の報告書を、次にまた俺の顔を、順番に通り過ぎていく。
「報告書の数字を整理しただけです。三階のゴブリン出現区画が、三週連続で同じ五つ。地図に結ぶと五角形で、中心の区画41だけ報告が一件もなかった」
レナの呼吸が、一つ分だけ長くなった。
「それだけか」
「いえ」
報告書の模写を指した。レナが机に手をつく。首筋の古傷が、俺の視界の端で動いた。
「壁文字に、他と形が違う箇所があります。ここ」
指先で示す。丸と線の組み合わせの中に、縦線の繰り返しが混ざっていた。前後から少し離れて、縦棒だけがまとまって並んでいる。
「これ、文字じゃない」
「何だ」
「数字です」
指で縦棒を一本ずつ数えた。レナの目がその指先を追う。
一、二、三、四、五、六、七。
指が机を叩いた。トン。
「縦棒の数がそのまま数を表してる。ここに書かれてるのは、七」
レナが体を起こした。腕を組みかけて、やめた。組みかけた手が、古傷のある首筋の横で宙に浮いた。
「七。七階か」
「……たぶん」
「〝たぶん〟は許さない。根拠を出せ」
声が低い。机に手をついたまま、覗き込むように俺を見ている。首筋の汗が、古傷の上で一本光った。
姉さんのメモを、もう一度、机に置いた。最後の行を見せる。走り書きで、文字の角が崩れている一行。
「7階――南東――ここに」
レナの目がメモに落ちた。数秒、動かなかった。瞬きもなかった。
「この字は」
「姉のです」
声が詰まった。
「半年前にこの事務所で働いていて、失踪しました。このメモだけが、引き出しに」
言うつもりはなかった。だがレナの目が、嘘を許さない目をしていた。
レナがゆっくり体を起こした。古傷のある首筋に手が伸びかけて、止まる。腕を、組んだ。
「壁文字に七。姉のメモに七階南東。二つだな。他にあるか」
ある。
椅子から立った。棚に走った、と言えるほど堂々とは歩けなかった。ハルトの声が耳の裏で鳴っている。余計な分析はするな。足は止まらなかった。棚の前で七階の束を抜く。三ヶ月分。重い。
レナは動かなかった。腕を組んだまま、俺が束を運ぶのを、目だけで追っている。
机に広げた。七階のスケルトン種の出現区画を、別紙に書き出す。先月の第一週、12、19、26、38、45。第二週、12、19、26、38、45。
「……同じだ」
声が漏れた。
第三週。第四週。並びが動かない。ゴブリンとスケルトンで種が違う。区画番号も違う。だが構造が同じだ。五つの区画が固定されて、週を跨いでも動かない。
七階の地図を広げた。五つの区画を結ぶ。五角形。中心の区画30には、報告が一件もない。
「区画30。七階の、南東」
姉さんのメモの座標と、一致していた。背中に冷たいものが走る。指が机を叩いた。トン、トン。
レナが地図を覗き込んだ。指で五角形をなぞり、中心の空白を押さえた。その指が、止まった。
「三つだな」
レナの声は平坦だった。だが、目の色が変わっていた。
「壁文字の数字、姉のメモ、出現パターン。全部が七階の南東を指してる」
「はい」
「確度は」
「え」
「七階にも隠し部屋がある確率だ。何パーセント」
言葉に詰まった。パターンは出ている。だが壁文字は一つの数字しか読めていない。
「……正確には、出せません。でも三つの独立したデータが、同じ場所を指してます。偶然の範囲は超えてる」
「〝はず〟じゃ動けない」
レナの目が、こちらを射抜いた。
「あるのか、ないのか」
指が机を叩いた。トン、トン。出現パターン。壁文字の数字。姉さんのメモ。三つの根拠が、頭の中で同時に並ぶ。
「あります」
声が出ていた。確率を計算したわけじゃない。だが三つの独立したデータが同じ場所を指すなら、それはもう、偶然の範囲の外だ。
「おい……お前ら、何やってんだ」
ダリオの声が掠れていた。
ダリオは、俺の机の上を見ていた。七階の報告書の束。三階と同じパターンの出現データ。姉さんのメモ。
「まさか、七階にも」
ダリオは最後まで言わなかった。唇を引き結んで、自分の席に戻っていく。椅子を引く音が、事務室の高さに響いた。
レナが背を向けた。扉に手をかける。
「明日、七階に入る。結果は報告書で返す」
扉が閉まった。
事務室に、インクと紙の匂いと、ダリオの息だけが残った。
机の上には、七階の報告書と、姉さんのメモが広げたままだ。畳む気にならなかった。
姉さんが書き残した七階南東に、明日、別の誰かが行く。
それが正しいのか分からない。ただ、一つだけ確かなことがある。
俺が読めたのは、縦棒が七本、それだけだ。あの壁に刻まれた残りの文字が何を伝えようとしているのか、まだ分からない。指先が震えている。震えを止めようと握り込んだ拳の中で、姉さんのメモの折り目が、一本、また一本と増えていった。




