姉の机
ダンジョン管理事務所は、想像よりずっと狭かった。
木造の二階建て。蝶番の軋む扉を押すと、紙とインクの匂いが鼻の奥で固まった。窓際に四つの机。三つには書類の山が傾き、残りの一つだけが、拭いた跡のある木目を剥き出しにしていた。姉さんの机だ、と俺はすぐに分かった。
「お前の席はそこだ」
ハルトが顎で示した。四十代半ば、面倒くさそうな顔の男。指差す先は拭かれたばかりの木目。
「前任が使ってた席だ。今月分の報告書から整理しろ。棚の右側が未処理。過去のものに手を出すな。分からないことはダリオに聞け」
前任、で止めた。姉さん、とは言わない。俺も聞き返さなかった。ハルトが所長室へ消える。ドアの向こうで革の椅子が一度、また一度軋んで、静かになった。
「新人か」
奥の机から声が飛んできた。書類から目を上げない男。ペン先に迷いがなく、走り書きを一瞥で判読していく。
「はい。今日からお世話になります」
「三ヶ月分溜まってる。今月中に片付けろ」
「三ヶ月……ですか」
「嫌なら辞めていいぞ。前任もそう言って逃げた口だ」
ペンの音がわずかに乱れた。逃げた、ではないはずだ。姉さんは消えた。だが俺はその言葉を飲み込んだ。
「引き出しに前任の私物があれば所長に渡せ。中を検めるなよ」
ダリオがそこで初めて顔を上げた。値踏みするような視線だった。
「……はい」
俺は姉の机の前に立った。椅子が高かった。足が床につかず、爪先が宙で泳ぐ。姉さんは椅子の高さを次に座る誰かに合わせ直す間もなく、ここを出ていった、ということだ。
引き出しに手を掛けた。古い木の匂いがして、中で何かが乾いた音を立てた。
鉛筆が二本、芯が折れたまま転がっていた。消しゴムのかけら。奥に、折り畳まれた紙が一枚。開いた。
角ばった、几帳面な筆跡。右上がりの癖。文字の角が、俺の字と同じ方向に起き上がる。
鼓動が跳ねた。
数字が縦に並んでいる。意味は分からない。ただ、丸印が五つ。矢印が一本。姉さんの指の圧が、紙の裏まで抜けていた。消したくないものを書き残すときの、あの癖だ。
ダリオの背中を見た。書類に戻っている。所長室のドアは閉じたままだ。
俺は紙を畳み、胸ポケットの内側に滑り込ませた。姉さんの指の跡が、布越しに心臓に当たる。
渡さない。所長にも、ダリオにも。俺はこのために、ここに来た。
◇
報告書の整理は、想像通り単純な作業だった。殴り書きを転記し、階層別に棚へ収める。紙は泥と血で滲み、文字を起こすたびに誰かの一日が指先に移ってくる気がした。
目が滑る。三行読んで、また一行戻る。
それでも、この紙の山が今の俺の全てだった。姉さんが見ていた数字を、同じ机、同じ光の角度、同じインクの匂いの中で見る。そうすれば、姉さんが気づいた瞬間の一拍に、近づけるかもしれない。
三階の報告書を、十件、二十件と転記していく。
先月の第一週。ゴブリンの出現区画は03、07、15、22、31。書き写す。
第二週。03、07、15、22、31。
ペン先が止まった。
窓から差し込む光が、羽根ペンの影を紙の上に細く落としていた。その影の位置が、昨日と今日で同じ数字に落ちている気がして、息をするのを忘れた。
第三週も棚から引き出す。紙の縁が汗で湿った。03、07、15、22、31。順番まで、変わらない。
指先が机を叩いた。トン、トン、トン。姉さんも、この木目を叩いたのだろうか。
「……ダリオさん」
「何だ」
「三階のゴブリンって、普段どのくらい動くんですか」
「どのくらいって何だよ」
「週で出現区画は、変わるものですか」
ダリオの手が止まった。ペンを置く音が、事務室の高さに響いた。
「ランダムだ。場所を選ばずに湧く。だから冒険者は面倒がる」
「固まることは」
「一週くらいなら、ある」
「三週は」
「……三週?」
「三週連続で、同じ五つの区画にしか出ていません」
ダリオの目が、ほんの一瞬、俺の肩の向こう――姉さんの机の上――を掠めた。戻ってくるときには、また書類に落ちていた。
「書き写し間違いだろ。もう一度確認しろ」
「しました」
「新人がいきなり珍しいもの見つけたら、まず自分を疑え。俺の時も、先輩にそう言われた」
「……はい」
声が小さくなった。ダリオは俺の発見を潰したいのではない。この机から続いていく発見から、目を逸らしたいのだ。
俺はポケットから紙を抜き、机の下で広げた。
姉さんの字で、数字が並んでいる。03、07、15、22、31。同じ数字に、丸印。
壁の三階地図を見上げた。03は左上寄り、07はその下、15と22が中央を挟んで縦に並び、31は右下。五つの点を指先で追った。囲うように、順に、たどる。
五角形だ。
中心に来るのは、一つだけ報告のない区画。
41。
メモの折り目を、もう一段開いた。丸印の脇に、潰れた字で。
→ 41
息を吸うのが遅れた。俺が三時間かけて辿り着いた五角形の中心に、姉さんの指も、半年前に置かれていた。
紙が震えた。震えているのは紙じゃない、と気づくのに少しかかった。
「どうした」
ダリオの声が飛んできた。俺は慌ててメモを袖の下に隠した。
「……なんでも、ないです」
「なんでもない顔じゃないぞ」
「鉛筆が、折れただけで」
ダリオは鼻を鳴らして、また書類に戻った。だが戻り際に、彼のペン先が紙の上で一瞬止まったのを、俺は見た。
俺は棚から四階の報告書を二束、抜いた。オーク種の出現区画は09、14、28、33、40。二週分遡っても、並びは変わらない。階層が違うのに、癖まで同じだ。
区画41に報告はない。一件も。
◇
所長室のドアを三回叩いた。返事を待ってから、開けた。
ハルトは報告書の山に両足を乗せていた。俺が入ると、面倒くさそうに足を降ろす。ランプの明かりが机の木目の疵を浮かせていた。
「何だ」
「三階の区画41に、未発見の部屋があるかもしれません」
ハルトの指が、肘掛けの上で止まった。ほんの一瞬、爪が革に食い込むのが見えた。
「……根拠は」
「報告書です。三階のゴブリン出現区画が三週間同じで、五つの区画を結ぶと五角形になります。その中心が41。ここだけ、一件も報告がありません」
「お前、ダンジョンに入ったことないだろ」
「はい」
「入ったこともない奴が、部屋の場所を当てるのか」
「整理しただけです。書いてある数字を、見ただけで」
ハルトの目が細くなった。怒りでも驚きでもない。半年前、同じことを言った人間の残像を確かめるような目だった。
「偶然だろう」
「偶然じゃありません」
声が大きくなった。丁寧語の端が削れていく。
「三階だけじゃなくて、四階でも同じです。五つの点が図形を作って、中心に空白がある。二つの階層で同時に起きる偶然は――」
「分かった、分かった」
ハルトは片手を振った。払うような仕草。だが、笑ってはいなかった。
「お前、今どのくらいその紙に張り付いてた」
「……三時間、くらいです」
「三時間で、三階と四階の三ヶ月分に目を通したのか」
「はい」
ハルトは俺の顔をしばらく見ていた。引き出しから封筒を一通取り出し、指でとんとんと叩く。中は改めない。俺にも見せない。
「下がれ。今日はまず、今月分の続きをやれ」
「でも」
「下がれと言った」
声は荒げていない。ただ、有無を言わせない重さが、ランプの影と一緒に机の上に落ちていた。
廊下に出ると、ダリオが壁にもたれていた。腕を組み、視線は床に向いている。
「報告書で、隠し部屋が分かるって?」
「……はい」
「聞こえてたぞ。すみませんで済まないことを言ってるって、分かってんのか」
ダリオの声が低かった。面倒くさそうな調子は剥がれていた。俺の目を、見ようとしない。
「……分かってるつもりです」
「つもり、か」
ダリオは舌打ちして、俺の肩を一度だけ強く叩いた。痛みではない。何かを押し込めるような触れ方で、そのまま事務室に戻っていった。
廊下の窓から差す光の中で、俺は胸ポケットに触れた。紙の厚みが、一拍遅れて震えた。
◇
その日の午後、ハルトはCランクの冒険者パーティに三階・区画41の確認を依頼した。夕方、斥候が扉を勢いよく開けて、報告書を机に叩きつけた。
「あった」
事務室の空気が止まった。ダリオのペンの音が消える。俺の指先の震えも、一瞬だけ消えた。
「区画41、壁の裏に空間がある。入口は南側の岩壁。叩いたら空洞音がした」
斥候はまくしたてる。
「壊すのか? ギルドに許可取るか? 中に何がある? 誰が見つけた?」
「……新人だ」
ハルトが所長室から出てきて、俺を顎で示した。
「こいつが」
「こいつが?」
「報告書を整理してただけだ」
斥候の視線が俺に刺さった。ダリオは書類の同じ行をさっきから見続けている。ペンはもう動いていない。
「何者だよ、お前」
「事務員です」
「初日の事務員が、なんで」
「……数字が、そう言っていたので」
斥候は一拍置いて、笑った。気味の悪いものを見るときの、乾いた笑い方だった。
「変わった奴だな」
ハルトが俺とダリオを交互に見た。目の動きが、さっきより少し長かった。
「好きにしろ。ただし、報告書は期限通りに出せ」
ハルトが所長室に戻る。ドアの閉まる音は、朝より重かった。
斥候たちが引き上げた後、ダリオが俺の机の脇で足を止めた。
「……お前」
口が開きかけて、閉じた。ダリオはそのまま上着を羽織って出ていった。
事務室に、インクと汗の匂いだけが沈殿した。
◇
日が落ちて、事務所には俺だけが残った。
ランプの芯が短くなっていた。油を足す手が震えて、火屋に指が触れた。熱い。慌てて引いた。
姉の机で、もう一度メモを広げる。
区画41の先にも、数字が続いている。別の羅列。丸印も矢印もない。指の圧の跡も、ここでは薄い。途中まで書きかけて、筆が止まっている。最後の行だけ、走り書きで、文字が乱れていた。
「7階――南東――ここに」
続きは、ない。
三階の五角形、区画41、そしてもっと先。姉さんはそこまで進んで、筆を止めた。書けなかったのか、書かせてもらえなかったのか。
「……姉さん」
呼んでみた。返事はない。
声が紙の上で止まった。畳もうとした指が折り目を間違える。一本増える。畳み直す。また増える。
手を止め、ポケットにしまった。紙の厚みが、心臓に少し遅れて触れた。
窓の外、街灯の影が床に長く伸びている。未処理の報告書の山は、昼間より高く見えた。過去のものには手を出すな――ハルトの声が、頭の底で残響していた。
棚の左端。七階の区分。姉さんが触ったかもしれない棚の前に、俺はまだ立っていない。
ランプの芯が、じりりと音を立てた。
俺は椅子から立った。爪先から踵へ、体重のかかる順番を数える。数えないと足が動かない気がした。棚の前に立つ。七階の札。インクが掠れている。
手を伸ばした。指が札に触れる直前で、止まった。
――姉さんも、この高さで止まったのだろうか。
ランプの芯が、また音を立てた。




