第34話 エルデンベルク公爵領
学院入学を目前に控えた晩秋の朝から、セレナは落ち着かなかった。
窓辺へ行っても、庭の先まで見えるわけではない。門前の道は並木の影に隠れ、馬車がどこまで来ているのかも分からなかった。それでも気づけば同じ窓へ戻ってしまう。陽が高くなり始めた頃には、三度目の差し替えになるリボンを前にして、さすがに自分でも可笑しくなった。
「そこまで悩むなら、最初の水色で良かったのではなくて?」
背後から、母アンナの穏やかな声が届く。
セレナは鏡台の前で振り返り、少しだけ頬を熱くした。
「悩んでいるわけではないんです。ただ……久しぶりですから」
「ええ。分かっていますよ」
アンナはからかうでもなく、ただ娘の髪の流れを指先で整えた。
「お手紙では何度もやり取りしていても、実際に会うのは別ですものね」
その通りだった。文字でなら、落ち着いて書ける。何度も読み返し、言葉を選べる。けれど今日は違う。返ってくる声も、視線も、その場で受け取らなければならない。
最後に会った時より、自分は少しは大人びて見えるだろうか。
アルヴィンは、ちゃんと気づいてくれるだろうか。
そこまで考えてから、セレナは小さく息を吐いた。気づいてほしいと思っている時点で、もう平静ではない。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。あの子はきっと、以前と同じようにまっすぐ見てくれるわ」
「それが、いちばん困るのかもしれません」
思わず零れた本音に、アンナが目を丸くしたあと、やわらかく笑った。
「では、その困る顔をしないように、最初の一言だけ決めておきましょうか」
セレナは小さく頷いた。決めておけば、少しは落ち着けるかもしれない。そう思って口の中で短い挨拶を繰り返していた時、屋敷の前庭から馬のいななきが遠く届いた。
胸が、今度こそ確かに跳ねた。
招待状が届いた時、アルヴィンは入試準備の予定表を組み直したばかりだったが、この訪問だけは断る気になれなかった。
母方の公爵家を訪れるのは久しぶりだった。王宮を出てからしばらくは石畳の振動が続いたが、やがて車輪の音は柔らかな土の上へ移り、窓の外の空気まで少しずつ変わっていく。高い塀と兵の視線に区切られた王宮の周囲とは違い、ここでは風が先に季節を知らせた。乾いた草の匂いに混じって、遅咲きの花と薬草の青い香りが細く流れてくる。
向かいに座るエリザベスは、王宮で見る時より肩の力が抜けていた。
「緊張している?」
「少しだけ」
「それなら大丈夫。会いたい相手に会う前の緊張は、たいてい悪いものではないわ」
そう言われても、落ち着くわけではない。だが、母が穏やかな顔でいるのを見ると、この訪問が自分にとってだけではなく、母にとっても帰ってくる種類の時間なのだと分かった。
馬車が石造りの門をくぐり、前庭へ入る。王宮ほど大きくはないが、整えられた広さがある。蔦の這う壁、長い回廊、風を受けて揺れる低木の列。派手に威圧する建物ではなく、人が暮らしている熱を内側に溜めた家だった。
先にアンナが迎えへ出てきた。
「エリザベス、アルヴィン殿下。ようこそお越しくださいました」
「お招きいただきありがとうございます、アンナ様」
アルヴィンが礼を返すと、アンナは目元を和らげた。
「今日は殿下ではなく、家族としてお迎えしたいくらいですけれど、まずはきちんと申し上げておきませんとね」
その言い方だけで、空気が少し緩む。王宮では礼が先に立つ場面でも、ここでは人の温度が先に伝わる。
挨拶を終え、回廊の先へ視線を上げた時だった。
薄い金髪が、秋の光を受けてわずかに明るく見えた。
セレナが立っていた。
以前より背が伸びている。幼さはまだ輪郭の中に残っているのに、立ち方と指先の置き方が変わっていた。胸の前で重ねた手に無駄な動きがなく、見つめ返してくる緑の瞳は、前より少し長くこちらを保てるようになっている。
「お久しぶりです、アルヴィン様」
声も同じだった。けれど、柔らかいだけではない。落ち着いた芯が、以前よりひとつ増えている。
「久しぶりです、セレナ」
答えた瞬間、自分の声まで少しだけ硬くなっていたと分かった。数年ぶりなのだから当然だ、と言い訳はできる。だが本当は、それだけではない。手紙越しに思い描いていた相手が、想像よりずっとはっきりした輪郭で目の前にいた。
セレナの口元が、小さく綻ぶ。
「本当に来てくださったんですね」
「行くって返事をしたのに?」
「それでも、やっぱり嬉しいです」
その返し方が、前より少しだけ近い。礼を守ったまま、本音が先に来ている。アルヴィンの胸の内で、張っていたものが一段だけ解けた。
「ぼくも会いたかった」
言うと、セレナは一瞬だけ目を見開き、それから小さく「ありがとうございます」と答えた。その短い間が、妙に心へ残った。
昼食と大人たちの近況報告が一段落したあと、アンナの計らいで二人は中庭へ出た。
石畳の先に、低い生垣と薬草床が続いている。冷え始めた季節でも、日当たりの良い場所にはまだ色が残っていた。薄紫の花、銀葉の低木、乾きかけた薬草束。王宮の庭より生活に近い匂いがする。
「お手紙、全部読んでいます」
歩きながらセレナが言った。
「全部って、送ったものはそれしかないけど」
「返事を書く前にも読みますし、書いた後にももう一度読むので」
そこでようやく、からかわれているのではないと気づく。本当にそうしていたのだろう。セレナは視線を逸らさず続けた。
「訓練の話も、図書館の話も、難しいところは何度か読みました。雷は危ないから無理をしないでください、と書こうと思ったのですけれど……たぶん、止めてもやる方ですよね」
「そこまで分かりやすい?」
「少しだけ」
少しだけ、と言いながら、声には確信が混じっていた。見透かされたようでいて、嫌ではない。むしろ、文字だけでそこまで読まれていたのかと少し驚く。
「セレナの方は?」
アルヴィンが問い返す。
「光の制御、前より安定したって書いてあった」
「はい。小さな灯りなら、かなり保てるようになりました。最近は、治癒の前段階みたいなことも練習しています」
「前段階?」
「痛みを少し和らげたり、傷口の熱を落ち着かせたり……まだ、本当に小さなものですけれど」
そこでセレナは立ち止まり、薬草床の縁へ膝を折った。風に煽られて傾いた若い茎が一本あり、支え紐の端に引っかかって表皮を少し裂いている。
「こういうの、見つけると気になってしまって」
セレナは傷ついた茎に指先を添えた。掌の奥から、薄い金の光が静かに滲む。眩しさはない。だがただ明るいだけでもなく、冷えた空気の中に薄い温度がひとつ灯るような光だった。裂け目が完全に消えるわけではない。それでも茎の震えが収まり、折れかけていた先が少しだけ上を向く。
「すごい」
アルヴィンは素直に言った。
「治すというより、戻る力を支えている感じがする」
セレナが目を上げる。
「分かりますか?」
「うん。無理やり閉じてるんじゃない。ちゃんと残すものを残してる」
父の雷とは真逆に見えて、どこか同じだった。切るべき線を選ぶのと、支えるべき力を見分けるのは、方向が違うだけで似た判断だ。
セレナは少し照れたように笑った。
「治癒魔法は、全部消せばいいわけではないと母に教わりました。熱まで奪いすぎると、かえって弱ってしまうからって」
「その考え方、好きだ」
言ってから、飾らずに出た言葉だったと分かった。好きなのは考え方だけではない気もしたが、そこまでは自分でも整理できなかった。
その時、薬草床の端を避けようとして伸ばした手が、乾いた支柱のささくれに触れた。
「っ」
ほんの浅い傷だったが、指先に赤い線が浮く。
「アルヴィン様」
セレナの声が少しだけ早くなる。だが慌ててはいない。すぐに一歩近づき、傷ついた指を見た。
「見せてください」
差し出すと、彼女は両手でそっと支えた。近い。以前より伸びた睫毛も、呼吸の間も、妙にはっきり分かる。
淡い光が指先へ落ちた。
熱いわけではない。痛みが引くより先に、張っていた皮膚のこわばりだけがするりと解ける。傷口が静かに閉じ、赤い筋は薄く残っただけになった。
「……本当に使えるんだ」
「まだ浅い傷だけです」
「それでも十分すごい」
アルヴィンが言うと、セレナは少しだけ困ったように微笑んだ。
「あなたにすごいと言われると、素直に喜んでいいのか迷います」
「どうして」
「だって、あなたの手紙には毎回、新しいことが書いてあるから」
その返しに、今度はアルヴィンが言葉に詰まった。手紙では淡々と書いていたつもりだった。だが読む側からすれば、そうではなかったのかもしれない。
「……今日は、ぼくの方も見せる」
「はい。ぜひ見せてください」
午後、二人は屋敷の奥にある小さな練習区画へ案内された。
王宮の訓練場ほど広くはない。だが、土の固め方も、魔力の痕が残りにくい結界石の並びも、きちんと整えられていた。公爵家でも子弟の訓練は日常なのだと分かる。
セレナが先に、灯りの魔法を見せた。以前より明らかに安定している。掌の上に生まれた光は揺らぎが少なく、風が通っても形を崩さなかった。ひとつを二つに分け、さらに距離を保ったまま並べる。派手ではない。けれど制御の積み重ねがなければできない動きだった。
「すごい」
アルヴィンは今度も同じ言葉を使った。だが、さっきより重みがあった。
「前は、留めるので精一杯だった」
「今も精一杯です。でも、前より『どう置きたいか』を考えられるようになりました」
その言い方が、先日父から受け取った言葉と少しだけ重なった。どう当てるかではなく、どう置くか。どう通すかではなく、どう残すか。魔法の種類は違うのに、目指しているものの輪郭が似ている。
「次はぼく」
アルヴィンは練習区画の中央へ出た。
今日は戦うための見せ方をする必要はない。だからこそ、誤魔化しのないものを見せようと思った。
足元に薄く水を呼び、そこへ風を絡める。小さな渦が三つ。崩れないぎりぎりの速さで回し、互いの間隔を保ったまま浮かせる。それだけなら以前からできた。次に、その内側へ細い光を通す。水面が光を受け、渦の輪郭が一段だけ鮮明になる。三つの輪が、静かに空中で噛み合った。
派手さはない。だが、属性が反発せず、互いの形を食わずに保っている。
セレナが息を呑んだ。
「三つ……」
「まだ安定時間は短いけど」
言いながら、アルヴィンは渦の中心のずれを細く調整する。昨日までなら、そこで余計な力を入れていたかもしれない。今は線を通すというより、残したい形を先に置く感覚の方が近かった。
数拍のあと、三つの輪を順に解いた。水は地へ落ちる前に霧へ戻り、光も薄れて消える。
しばらく、セレナは何も言わなかった。
「難しすぎて、最初は言葉が出ませんでした」
「失敗したかと思った」
「違います」
セレナは首を振り、それから少しだけ視線を落とした。
「手紙で読むのと、実際に見るのでは全然違います。わたし、あなたはもっと遠くへ行ってしまう人なのかもしれないと、少しだけ思っていました」
その言葉は予想していなかった。
「遠く?」
「届かないという意味ではありません。ただ……すごすぎて、隣に立つことを最初から諦めてしまいそうになる時があるんです」
セレナは自分でも驚いたように口を閉じた。言うつもりはなかったのだろう。だが、もう取り消せない種類の本音だった。
アルヴィンはしばらく答えを探した。慰めは違う。軽い否定も違う。セレナが今出したのは、怯えではなく正直さだ。
「ぼくは、隣にいてほしいと思ってる」
だから、それだけを言った。
「手紙を書く時も、学院のことを考える時も、セレナがいる前提で考えてた」
セレナの瞳が、ゆっくりこちらへ戻る。
「だから首席で入りたいと思った。自分のためだけじゃなくて、隣に立っても恥ずかしくないように」
言ってから、自分でも少し照れた。だが、今さら引っ込める方が不自然だった。
セレナは黙っていた。黙ったまま、胸の前で両手を軽く握る。その仕草のあとで、ようやく小さく息を吐いた。
「では、わたしも諦めません」
「うん」
「あなたの隣に立てるように、ちゃんと上を目指します」
その返答は、やわらかいのに曖昧ではなかった。
夕方、空が薄く茜を含み始めた頃、二人は回廊の端に並んで立っていた。
前庭では帰りの支度が進み、従者が馬具を確かめる音が低く響く。別れの時間は近い。幼い頃よりずっと落ち着いて過ごせた一日だったのに、終わりが見えると急に短く感じる。
「次に会う時は、もう入学前ですね」
セレナが言った。
「たぶん。手紙は続けるけど」
「はい。けれど、今度は同じ場所へ向かう前の時間になります」
学院。
まだただ遠く光っていた頃の学院は、今では試験日程も、順位も、実技基準もある現実になっていた。けれど、こうして同じ場所を目指す相手がいると思うと、不思議と足は重くならない。
「十歳になったら、学院で会おう」
アルヴィンは言った。
「今度は約束だけじゃなくて、ちゃんと自分の力で」
セレナが頷く。
「はい。上位で入って、胸を張って会いましょう」
「ぼくは首席を取る」
少しだけ意地の混ざった宣言だった。するとセレナは驚くより先に、柔らかく笑った。
「では、わたしも負けずに頑張ります」
そう言って笑う声に、アルヴィンも少しだけ肩の力が抜けた。負けたくないと言いながら空気を張らせないところが、いかにもセレナらしい。
馬車の準備が整ったと、遠くで声がかかる。
アルヴィンは一歩だけ近づき、言葉を探した。別れ際に大げさなことを言う柄ではない。けれど、何も残さないのも違う気がした。
「今日、来てよかった」
それがやっとだった。
セレナは目を細める。
「わたしもです。……来てくださって、本当に嬉しかった」
その声が耳に残った。胸の奥がひとつ遅れて熱を持つ。うまく名前はつけられない。ただ、この別れを前より惜しいと思っていることだけは確かだった。
馬車へ乗り込む前、アルヴィンはもう一度だけ振り返った。
夕暮れの回廊に立つセレナは、以前よりずっと遠くまで見える人に見えた。同時に、以前よりずっと近くへ来た人にも見えた。
馬車が見えなくなってからも、セレナはしばらく回廊に立っていた。
風が冷えてきて、侍女が外套を持ってくる気配が遠くにある。それでもすぐには動けなかった。今日一日の会話が、別れたそばから胸の内でほどけ直していく。
手紙では分かっていたつもりだった。
アルヴィンが誰より速く進んでいることも、難しい理論を自然に口にすることも、自分の知らない景色を既に見始めていることも。
けれど、実際に会ってみると、置いていかれる怖さより先に、もう一度ちゃんと会いたい気持ちの方が強くなっていた。
「隣にいてほしい、ですか」
小さく口にすると、頬がまた熱くなる。
そんなふうに言われるとは思っていなかった。もっと器用な言葉はいくらでもあっただろうに、あの人はそういう時だけ妙に真っ直ぐだ。その真っ直ぐさに、何度も呼吸を乱される。
セレナは自分の掌を見た。さっき彼の指先へ触れた時の感触が、まだ薄く残っている気がする。治癒は傷を閉じるだけではない。痛みで縮こまったものを、少しずつ元へ戻す力だ。自分が目指したいのはきっと、そういう魔法なのだろう。
彼が前へ進むなら、自分もただ待つだけではいたくなかった。
回廊の欄干へ片手を置き、もう片方の掌へ小さな光を灯す。以前より安定している。風の中でも消えない。けれど、それで満足はできなかった。
学院で再会する。
その約束は、今日から願いではなく目標になった。
次に会う時までに、自分の光と治癒を、もっと確かなものにする。
セレナは掌の灯りを静かに握り込み、歩き出した。もう窓辺を行き来して待つだけの時間ではない。次の再会までに積み上げるべきものが、はっきり見えていた。




