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零域の第三王子 〜命の使い道をひとつしか知らなかった俺へ〜  作者: 雲雲く
第一部:幼少期編

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第35話 別れの予感


 公爵家の回廊に残ったセレナの声がまだ耳にあったのに、王宮へ戻った途端、空気は別の重さを寄越してきた。


 正門前の広場には、出入りする馬車がいつもより多かった。伝令用の細い馬、封蝋の色が違う文箱、荷を抱えた書記官。門をくぐった時点で、もう人の流れが速い。誰も走ってはいない。だが立ち止まる間を惜しんでいる足取りだった。


 石の匂いも、磨かれた蝋の匂いもいつも通りだ。なのに、その匂いの下へ初冬の冷えとは別の、薄く鉄の気配が混ざっている。季節だけの重さではないとすぐに分かった。


「西翼が忙しそうですね」


 馬車を降りた後、アルヴィンが言うと、エリザベスは正面を見たまま小さく頷いた。


「北寄りの報告が少し増えているの。評議会も詰まり気味で、お父様の机から紙が減らないわ」


 柔らかい言い方だったが、軽くはない。母は事実だけを置き、その先を広げなかった。


 回廊へ入ると、すれ違う人の肩先まで張っていた。普段なら一礼のあとにひと呼吸置く書記官が、今日は礼だけ済ませてすぐ次の角へ消える。侍女たちも足音を抑えながら、盆と書簡を抱えて西へ向かっていた。


 王宮は静かな時ほど整っている。だが今日は、整っている上に急いでいる。


 その違いは、九歳になった頃の自分でも分かるくらいにははっきりしていた。



 帰還の翌日から、父の時間はさらに短くなった。


 朝、起きるより早く西翼へ向かい、昼前に会議、午後は評議会、夕方に騎士団報告。予定表そのものは見せられていなくても、呼びに来る足音と部屋の灯りだけで大体の密度は察せられる。


 それでもカールは、訓練の時間だけは削らなかった。


 東翼の訓練場で、アルヴィンは木剣を構える。向かいに立つ父はいつも通り大きい。重心の低さも、視線の鋭さも変わらない。だから余計に、一つひとつの小さな違いが目についた。


「遅い」


 短い指摘が飛ぶ。


 踏み込み直し、木剣を振る。刃筋の角度は悪くないはずだった。だが、カールは首を横に振った。


「形ではない。次を急ぐな」


「はい」


 もう一度。今度は速さを少し落とし、腰の向きから入り直す。カールは黙って見ていたが、数手のあと、自ら前へ出て木剣を軽く合わせた。弾くでも叩くでもなく、進路だけをずらす。ほんの小さな介入なのに、自分の剣がどれだけ前へ逃げていたかが分かる。


「勝とうとするな。残れ」


 父の木剣が下がる。


「見ろ」


 カールは訓練場の端に立つ木杭へ視線を向けた。指先に、ごく細い青白い火花が生まれる。先日の直伝で見たような派手な線ではない。糸より少し太い程度の短い雷だ。その一筋が木杭の側面をかすめ、浅い焦げ跡だけを残した。


「当てるな。削れ」


 短い術式だった。


 その直後だった。


 カールの呼吸が、一拍だけ遅れた。


 目を上げると、父はわずかに顔を横へ向け、拳を口元へ当てていた。咳そのものは短い。すぐに収まる程度のものだ。だが、そのあとの沈黙が長かった。木剣を握ったまま、次の指示が来るまでに、いつもよりほんの少しだけ間が空く。


「父上」


 思わず呼ぶと、カールはそのまま視線だけを戻した。


「何だ」


「……いえ」


 大丈夫ですか、と問うには何も足りない。咳ひとつで騒ぐのは子どもじみている気もした。何より、父の立ち方が崩れていない。


 だからこそ、聞けなかった。


「次だ」


 短く言われ、アルヴィンは木剣を握り直した。


 訓練はそのまま続いた。切り上げられもしないし、手加減もされない。だから余計に、さっきの一拍が記憶に残る。以前の父なら、あの程度の咳のあとに間は生まれなかった。


 終わり際、カールは木剣を収めながら、いつものように多くを語らなかった。


「学院で勝ち急ぐな」


 それだけだった。


 先日の雷の教えとも、西森からの帰路で聞いた損耗の話とも、根は同じ方向を向いていると分かる。だが、今の父が渡してくる言葉はどれも短い。短いまま、以前より重い。


「はい」


 返事をすると、カールは頷きだけ残して西翼へ戻っていった。


 背中は変わらず大きい。それでも、去っていく速度を目で追っている自分がいた。



 昼過ぎ、アルヴィンは北翼図書館から西翼へ続く回廊を通った。


 父に呼ばれたわけではない。アーロンから借りた学院の法規集を返しに行く途中だった。だが西翼に近づくほど、紙の乾いた匂いの中へ、インクと蝋の濃さが混ざってくる。実務の匂いだった。


 会議室の前では、若い書記官が束ねた紙を抱えたまま立ち尽くしていた。中へ入るタイミングを測っているのか、扉の前で呼吸だけを整えている。


 その扉が開いたのは、アルヴィンが通り過ぎようとした時だった。


 出てきたのはヴィクトールだった。


 普段通り姿勢は崩れていない。だが、目の下の影がわずかに濃い。隣には補佐役らしい廷臣が二人いて、どちらも口を閉じている。


 ヴィクトールは弟を見つけると、一瞬だけ足を止めた。


「戻っていたのか」


「はい。今朝」


「公爵家では滞りなかったようだな」


「問題ありませんでした」


 会話としてはそれだけだ。だが、兄はそのまま行き過ぎなかった。扉の向こうを振り返り、声を少し落とす。


「父上は今日、評議会を二つまとめて動かしている。呼ばれても長居はするな」


「……忙しいんですね」


「今さらか」


 棘のある返しだったが、いつものように相手を削るためのものではなかった。疲れの上へそのまま乗った硬さだった。


 ヴィクトールはそれ以上何も言わず歩き去る。廷臣たちも黙って続いた。王太子としての顔を崩す気はないのだろう。だが背を向けた後の肩は、わずかに硬いままだった。


 扉の隙間から、中の低い声が一度だけ漏れた。父の声だ。以前と同じ低さなのに、今日は紙を押さえつける音の方が強く耳に残る。


 アルヴィンはそのまま法規集を抱え直し、西へ入るのをやめた。


 呼ばれていない時に踏み込むべきではない。


 そう自分へ言い聞かせたが、半分は言い訳だと分かっていた。今の父の前へ行けば、何かを見てしまう気がしたのだ。



 夕食前、アルヴィンは母の私室へ呼ばれた。


 扉を開けると、室内には光より先に薬草の匂いがあった。乾いた葉、温めた水、蜜を少し落とした苦い茶。机の上には小さな銀盆が置かれ、その上に細身の陶杯が二つ並んでいる。マリアが布巾で盆の縁を拭き、エリザベスはその横で何かを書き添えていた。


「お邪魔でしたか」


「いいえ。ちょうど良かったわ」


 エリザベスは顔を上げ、いつもの笑みを向ける。だが、目元の疲れまでは隠れていなかった。


「公爵家から戻ってから、少し落ち着かない顔をしているもの」


 そこまで出ているつもりはなかった。けれど母には分かるのだろう。


 アルヴィンは銀盆へ視線を落とした。


「それ、お父様のですか」


 エリザベスは否定も肯定も急がず、陶杯の片方へ蓋をのせた。


「喉を休める茶よ。乾く季節でしょう」


「咳をしていました」


 言うと、マリアの手が一瞬だけ止まった。だがすぐ布巾の動きへ戻る。


 エリザベスは、息を吸ってから柔らかく言った。


「見ていたのね」


「はい」


「忙しい時ほど、人は小さな不調を後へ回してしまうものです。お父様も、その癖が強い方だから」


 断定はない。病名も、不安を煽る言い方もない。ただ、その説明が準備されたものではなく、何度も自分へ言い聞かせてきた種類の言葉だとは分かった。


「心配しすぎなくていい、とは言わないわ」


 エリザベスは静かに続ける。


「でも、今あなたが見るべきなのは、不安の大きさより、まだ一緒にいられる時間の方です」


 その言葉は、先日受け取った母の基準とは少し違う形で胸に残った。戻る場所を忘れないこと。期待へ自分を明け渡さないこと。そして今は、ある時間の方を見ること。


 マリアが盆を持ち上げる。


「西翼へお届けしてまいります」


「お願いね」


 侍女が退室したあとも、薬草の匂いはしばらく部屋に残った。


 エリザベスは息子の前へ向き直る。


「今日の訓練は、どうだった?」


「速さを急ぐなって言われました」


「それなら、きっと良い時間だったのね」


 母はそこで微笑んだ。平静を保つための笑みではなく、そう思おうとしている人の笑みだった。


 アルヴィンは頷いた。


「……はい。ちゃんと受け取りたいです」


「ええ」


 エリザベスは短く答える。その一言の重さが、かえって胸に残った。



 その晩の食卓は、静かだった。


 誰も黙り込んでいるわけではない。料理のことも、騎士団の巡回のことも、学院の試験日程も話題には上がる。だが、会話と会話の間に小さな空白がある。誰かがその空白へ踏み込む前に、別の話題が置かれる。


 レオナルドが珍しく、杯を持ったまま大声を出さなかった。


「北の街道、雪が早いらしいな」


 いつもの勢いは残っているのに、声量だけが半分ほど落ちている。


 向かいのヴィクトールが、配膳されたスープに手をつける前に言った。


「補給線の組み替えはもう始まっている。王都側の備蓄で年内は持つ」


「持つ、で済む話ならいいけどな」


「済ませるために組み替えている」


 言い合いではない。だが互いに少しだけ早口だ。平常の兄弟なら、ここへもう一段雑談が混じる。今日は混じらない。


 食卓の上座で、カールは淡々と料理を口へ運んでいた。


 変わらないように見える。実際、背筋も、手元の動きも乱れていない。だが、温かいスープを飲んだ後に、ごく短く喉の奥で咳が弾けた。


 食器の触れ合う音よりずっと小さい。


 それなのに、全員が気づいた。


 エリザベスの視線が一瞬だけ上がる。ヴィクトールの手が止まる。レオナルドは杯を置く位置を少しだけ変えた。


 すぐ次の瞬間には、何もなかったように食卓が戻る。


「アルヴィン」


 父が呼ぶ。


「はい」


「筆記は詰めているか」


「はい。法規と歴史を先に固めています」


「実技ばかりで安心するな」


「分かっています」


 会話は短い。だが、その短さが今夜は少しだけ救いに思えた。いつも通りのやり取りを一つでも交わせることが、妙にありがたい。


 エリザベスが穏やかに口を開く。


「今日の訓練はどうだったの?」


「踏み込みを直されました。速さを急ぎすぎるなって」


「それは、良い指摘ね」


 母の声はやわらかい。けれど、父を見る時だけわずかに瞬きが増える。装っているわけではない。平静を保とうとしているのだと分かる程度の小さな揺れだった。


 食事を終えるまで、誰も父の咳には触れなかった。


 触れないことが、今の家族の共通理解なのだと、アルヴィンは知った。



 夜更け、北翼図書館で本を閉じた時には、窓の外の庭園がすっかり暗くなっていた。


 返却棚へ法規集を戻し、回廊へ出る。昼のざわめきは消えている。足音が石壁へ小さく跳ね返り、遠くの魔導灯だけが規則的に灯っていた。


 西翼へ曲がる角の手前で、ふと薬草の匂いがした。


 乾いた紙の匂いに混じると、すぐ分かる。煎じた葉と、痛み止めに使う樹脂の苦い甘さだ。


 立ち止まる。


 ほどなくして、西翼の扉が静かに開いた。


 出てきたのは宮廷医師だった。白い髭を整えた老医師は、小さな革鞄を抱え、付き添いの侍女へ低い声で何かを告げている。声量は抑えられていて内容までは聞こえない。ただ、定期の往診を終えた時の気安さではない。言葉を選んでいる人の間があった。


 侍女は一礼し、医師を見送る。その顔を見て、アルヴィンはマリアだと気づいた。


 彼女もこちらに気づき、ほんの一拍だけ足を止めた。


「アルヴィン様。まだお休みではなかったのですね」


「今、本を戻してきたところです」


 マリアは回廊の奥を見やり、それからいつも通りの丁寧な顔へ戻った。


「夜は冷えます。お部屋へお戻りください」


「誰か、具合が悪いんですか」


 聞いた瞬間、自分の声が少し硬かったと分かった。


 マリアは否定しなかった。だが答えも絞った。


「お身体の確認を、こまめにしているだけでございます」


「父上の?」


「王宮では、皆が無理をなさいますから」


 その返しは、事実でありながら事実の中心を避けていた。


 マリアはそれ以上広げず、軽く頭を下げる。


「遅くなります。どうか温かくしてお休みください」


 去っていく背を見送りながら、アルヴィンは回廊に一人残った。


 医師が来た。母は視線で追っていた。兄たちは気づいている。父自身も、もちろん分かっている。


 それでも、誰も「病」とは言わない。


 西森からの帰路で聞いた損耗という言葉が、今夜は初めて日常の形を持った。


 戦場で大きく削れるものだけではない。


 短い術式のあとに生まれる一拍。食卓で誰も触れない咳。夜更けの回廊に残る薬草の匂い。そういう細かなものの総和として、人は少しずつ失っていくのかもしれない。


 父が止めない以上、学院へ向かう準備は止められない。首席を目指す気持ちも、学院で得たいものも、偽物ではなかった。


 だからこそ、まだ失うと決まったわけではない今のうちに、明日受け取れるものをひとつも取りこぼしたくない。


 アルヴィンは西翼の暗い扉を見た。


 回廊の窓に映る自分は、少しだけ強く口を結んでいた。


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