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零域の第三王子 〜命の使い道をひとつしか知らなかった俺へ〜  作者: 雲雲く
第一部:幼少期編

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第33話 10歳への道


 北翼図書館の高窓から落ちる秋の光が、机に並んだ学院印の青い蝋だけを淡く浮かせていた。


 あと半年で十歳になる。


 その事実は、夏の終わりまでは輪郭の薄い予定にすぎなかった。だが北翼図書館の机へ並べられた書類を前にすると、急に重みを持ち始める。羊皮紙に押された学院の封印、試験日程の一覧、必要書類、受験者心得。どれも薄い冊子や数枚の紙でしかないのに、そこへ目を通すほど、王宮の内側だけで完結していた日々が少しずつ短くなっていくのが分かった。


 紙とインクの匂いに混じって、乾いた革表紙の匂いがした。静かな北翼では、頁をめくる音さえ小さく響く。


「筆記、実技、面接」


 アルヴィンは要項の一節を指で追いながら、低く読み上げた。


「三段階なんですね」


 向かいでアーロンが頷く。


「ええ。学院は火力だけを見る場ではありませんからな。筆記で基礎理解、実技で再現性と制御、最後に面接で適性と判断を見る。少なくとも建前の上では、そういう順です」


「建前の上では、ですか」


「人が集まる場所には、建前の外で動くものもあります」


 老魔導師はそう言って、別の冊子を差し出した。学院案内だった。石造主棟、講堂棟、実技棟、大図書庫、寄宿舎。絵図としては整いすぎていて現実の匂いは薄いが、それでもアルヴィンには十分だった。王都の中にありながら、王宮とは違う秩序で回る場だと分かる。成績掲示、寮監巡回、協同演習。学院は魔法を教えるだけではなく、序列と進路を作る場所でもある。


「成績は、かなり広く見られるんですね」


「月次の順位掲示がありますからな。本人が望まなくとも、周囲は勝手に順位で話します」


「首席や次席が、そのまま肩書みたいに」


「そうなりやすいでしょう」


 アーロンの返答は淡々としていた。だが、淡々としているからこそ軽くない。


 学院に入れば、学ぶだけでは済まない。誰が上で、誰が下か。どの家が期待され、どの才能が値踏みされるか。そういうものまで、同年代の空気に混ざるのだろう。アルヴィンは冊子を閉じ、別の紙束へ手を伸ばした。


「これも入試資料ですか」


「半分はそうです。残り半分は、殿下に読んでおいていただきたい王都の行政目録です」


「どうしてそこまで」


「学院へ入るというのは、建物へ通うことではありません。王都の制度へ足を入れることでもありますからな」


 言われて、紙束の最初をめくる。学院関連の補修費、実技場整備、寄宿舎繕い、講義棟備品。乾いた数字が並んでいる。最初は無味乾燥に見えた。だが、読み進めるほどに、学院が石造の建物ではなく、人と金と許可で維持される現実の組織だと見えてくる。


 その中で、一行だけ妙に引っかかった。


 旧研究区地下施設 維持予算。


 学院関連費の末尾近くに、他より少し古い書式で残っている。名称だけが浮いて見えた。


「旧研究区地下施設」


 口に出すと、アーロンが視線を上げた。


「使われているんですか」


「記録上は閉鎖扱いです」


「閉鎖されているのに、維持費が残っている」


 アルヴィンが目録へ視線を戻す。金額は突出していない。だが、消えずに残るには十分な額だった。壊れたまま放置している建物なら、いずれ別名へ吸収されるか、項目ごと消えるはずだ。なのに、これは固有名で残っている。


「気になりますか」


「はい。閉じた施設なら、もう少し曖昧な名前になりそうです」


 アーロンは否定しなかった。


「良い引っかかり方ですな」


「何があるんですか」


「今は『ある』とも『ない』とも申しません。ただ、使われていないはずの記録が、帳簿の上で長く生きることはあります」


 答えとしては薄い。だが、はぐらかし切ってもいない。その半端さが、かえって気になった。


 アルヴィンは頁の端へ指を置いたまま、旧研究区地下施設という五文字をもう一度追う。今すぐ答えが必要なわけではない。けれど、学院へ行く未来のどこかに、この一行と繋がる何かがある。そんな感覚だけは残った。



 昼前、資料の整理を終えたアルヴィンは、北翼から東翼へ移った。


 静寂の層を抜け、回廊の角を曲がると、空気が変わる。図書館では紙の乾いた匂いが支配していたのに、東翼では木と汗と金具の擦れる匂いが先に立った。打音まではまだ遠い。だが、訓練場に近づくほど、体が勝手に次の時間へ切り替わっていく。


 休憩帯の長机には、既に記録板と予定表が広げられていた。ミハイルが立ったまま板を押さえ、アーロンが横で要項を見ている。座学と実技の担当が、同じ一枚の紙を見ている光景はあまり多くない。


「来ましたか」


 ミハイルが言う。


「学院側の試験基準と、現在の到達を擦り合わせます」


 記録板には、属性ごとの達成度と訓練頻度が並んでいた。火、水、風は安定。土は保持時間に課題。光は出力より精度。闇は短時間なら制御可能。雷は低出力で再現可能だが、連続発動で反動が出る。すべて過去の評価から引かれた線だ。


「目標は、入試までに七属性すべてを中級域へ寄せること」


 アーロンが言葉を継ぐ。


「ただし、全部を同じ厚みで伸ばす必要はありません。殿下は既に複合理論で先行しています。今後は『見せられる精度』へ整える方が重要です」


 ミハイルが板へ短く印をつけた。


「午前は筆記対策を週三。午後は実技を四。複合の安定化を毎週二回。雷は別枠で見ます」


「面接は?」


 アルヴィンが問うと、アーロンは小さく髭を撫でた。


「知識確認もありますが、半分は応答の姿勢です。何を知っているかより、何をどう考えるかを見られる」


「なら、答えを暗記するより、自分の順番を整えた方がいい」


「その通りですな」


 予定表の上では、時間は簡単に詰められる。だが、そのまま受け取れば、七日が全部埋まった。理論、実技、複合、再測定、面接想定、体力維持。空白がほとんどない。


 去年までの自分なら、そのまま頷いたかもしれない。


 だが、期待に自分を明け渡してはだめだという母の言葉が一度だけ胸をよぎり、アルヴィンは予定表の端を指で押さえた。


「七日目の午後は、空けてください」


 ミハイルの眉がわずかに動く。


「理由は」


「読み返しと整理に使いたいです。詰めたままだと、次の週にずれ込みます」


 それは言い訳ではない。事実だった。理解と再現のどちらも、詰め込むだけでは崩れる。アーロンが先に頷いた。


「妥当ですな。整理のない訓練は積み残しを増やします」


「記録上も、その方が事故率は下がります」


 ミハイルはそう言って、空白の一枠を残した。


「では七日目午後を再編枠にします。休みではありません。溜め込んだものを戻す時間です」


「はい」


 その言い方が少しだけ可笑しかった。休みと呼ばれないあたりが、いかにも王宮の訓練らしい。


「学院へ入れば、今より人の基準が増えます」


 ミハイルは板を見たまま続ける。


「だが試験の時点で、殿下が全部の期待に応える必要はありません。受かるために必要なものと、今後伸ばすものを分けてください」


 その実務的な忠告は、昨夜母から受け取った線と不思議なくらい同じ方向を向いていた。


 予定表が固まったところで、訓練場側から低い足音が近づいてきた。号令より静かなのに、空気の方が先に張り詰める。


 振り向く前に、誰が来たのか分かった。


「予定は見た」


 カール13世だった。


 公務服のままではない。今日は訓練用の軽装で、肩の線だけがいつもより近い。国王としてではなく、教える側としてここへ来たのだと、その格好だけで伝わってくる。


「雷は、私が見る」


 短い宣言だった。ミハイルもアーロンも異を唱えない。むしろ最初からそのつもりだったように、それぞれ一歩引いた。


「ついてこい、アルヴィン」



 東翼訓練場の端には、雷属性用の金属杭が並ぶ区画がある。


 雷の基礎を始めた頃から使っている場所だが、今日はいつもと配置が違っていた。一直線ではない。左右へずれた杭の間に細い綱が渡され、三本の木枠が立ち、地面には白い粉で浅い線が引かれている。的を撃つためというより、何かの流れを見せるための並びだった。


 カールは中央の線へ立ち、剣の鞘先で地面を軽く叩く。


「撃ってみろ」


 アルヴィンは頷き、最も手前の杭へ雷を通した。低出力。指先から最短を選んで一本だけ走らせる。青白い雷条が空気を裂き、杭へ吸い込まれた。反動は小さい。命中も正確だ。


「基礎としては悪くない」


 カールはそこで終えなかった。


「だが、それはまだ槍だ」


 アルヴィンは父を見る。


「まっすぐ当てるだけなら、火でも風でも代用できる。雷を使うなら、通す線そのものを選べ」


 言いながら、カールは剣を抜かずに一番左の綱を示した。


「敵を落とす前に、何を止める」


「進路、ですか」


「半分正しい。誰の進路かまで決めろ」


 次の瞬間、カールの指先から短い雷が走った。


 派手ではない。西森で見たような青い奔流ではなく、細い一筋だった。だが、その一筋は左の綱だけを正確に焼き切り、吊られていた木枠を傾かせる。崩れた木枠が白線の上へ倒れ、一本の通路だけが塞がった。


「進ませない線を一本作る」


 言葉と結果が近すぎて、しばらく繋がらない。


「殲滅ではなく」


「そうだ」


 カールは今度は右の杭へ歩き、地面の白線を見下ろした。


「戦場でも試験でも同じだ。相手そのものより、次の一歩をどう歪めるかを先に決めろ。雷は速い。だからこそ、勢いで撃てば術者が遅れる」


 アルヴィンは森で見た父の雷を思い出していた。怪物だけを斬っていたのではない。味方が次にどう動けるかまで、一撃で作り直していた。


「もう一度だ」


 カールが中央へ戻る。


「今度は杭ではなく、綱を落とせ。だが木枠の倒れる向きも見ろ。進ませない相手と、残す線を間違えるな」


 アルヴィンは息を整えた。


 雷は最短を欲しがる。そこへ自分の都合を通そうとすると、反動が戻る。最初に覚えた基礎が、ここで別の形へ繋がっていた。撃つ前に、先に線を決める。どこを通し、どこを塞ぐか。


 左の綱へ意識を寄せる。だが木枠の重さは右へ逃げる。なら、ほんの少しだけ角度を浅くしなければならない。


 指先から細い雷を放つ。


 綱は切れた。だが木枠の倒れ方が甘く、白線を半分しか塞がない。


「惜しい」


 カールの声は低いままだ。


「当てることに満足したな」


「はい」


「そこが一番危ない。威力だけで喜ぶな」


 釘を刺され、胸の奥で小さく熱が引いた。父は怒鳴らない。だが、余計な飾りがない分だけ、誤魔化しがきかない。


「もう一度」


 今度は撃つ前に、木枠の足元まで想像する。綱が切れた後、どちらへ重さが逃げるか。雷を当てる場所ではなく、切れた後の結果まで含めて見る。


 放つ。


 青白い線が綱を裂き、木枠が白線の上へ素直に倒れた。通路が一つ、きれいに塞がる。


 ミハイルが少し離れた場所で記録板へ何かを書き込んだ。アーロンは口を挟まず、ただ見ている。


「よし」


 カールは短く言った。


「次はその右側を残したまま、中央だけ止めろ」


「二本同時に?」


「一本で足りる。通し方を変えろ」


 そこからの訓練は、目立つ成功より失敗の方が多かった。まっすぐ撃てば楽だ。だが楽な線ほど、父の求める形から外れる。綱を切っても倒れ方を誤る。地面の線を止めても、残すはずの側まで震わせる。雷は少しでも慢心すれば、すぐに術者の雑さを返してくる。


 それでも、一つだけはっきりしたことがあった。


 父の雷は強いから怖いのではない。


 どこを通し、どこを止めるかが先に決まっているから、強く見えるのだ。


 夕方の光が訓練場の端へ傾く頃、カールは最後に剣の鞘先で白線を消した。


「学院へ行けば、速いやつ、器用なやつ、理屈の立つやつがいくらでもいる」


 アルヴィンは呼吸を整えながら聞く。


「貫くだけの雷なら、いずれ読まれる。お前が持っていくべきなのは、速さそのものではない。速さをどこへ通すか決める頭だ」


「はい」


「それが残れば、出力はいくらでも後から積める」


 そこでようやく、今日の直伝が単なる技術指導ではないと分かった。学院へ出る前に父が渡したかったのは、雷の派手さではなく、線を決める感覚そのものなのだ。


「父上」


「何だ」


「どうして今、これを」


 問いかけると、カールは一度だけ空を見た。王としての顔でも、雷帝としての顔でもない。少しだけ遠くを見る父の横顔だった。


「外へ出れば、相手の方が先にお前を値踏みする」


 返ってきた声は短い。


「その時、相手の期待した通りに真っ直ぐ伸びるな。線を決める側へ回れ」


 昨夜、母から受け取った基準とは別の言い方だった。けれど根は近い。誰かの期待へそのまま自分を預けるな。自分で線を決めろ。父は雷の教えの形で、それを渡してきたのだ。


 アルヴィンは小さく頷いた。


「覚えます」


「覚えるだけで終えるな。使える形にしろ」


 それだけ言って、カールは剣を収めた。



 その夜、アルヴィンは再び北翼図書館の机へ戻っていた。


 昼に読んだ入試要項を開く。筆記、実技、面接。その横へ、自分用の紙を置いて書き出した。七属性の安定化。複合の再現性。面接で語るべきこと。雷運用は、出力ではなく通し方。


 最後に、目標の欄へ一言だけ書く。


 首席入学。


 見栄だけではない。上で入れば、それだけ選べる幅が増える。学べることも、見えるものも多くなる。来年、学院でセレナと並ぶためにも、ただ受かるだけでは足りないと思った。


 その隣で、昼の行政目録がまだ開いたまま残っている。


 旧研究区地下施設。


 要項の整った文面の中で、その一行だけが異物のように沈んでいた。今はまだ、答えを持たない。ただ、学院へ向かう未来のどこかで、この一行はきっと再び引っかかる。


 王宮の中で積み上げる準備は、もう試験のためだけではなくなっていた。


 来年の学院は、再会と挑戦の場所であると同時に、まだ名のつかない違和感へ続く入口でもある。


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