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零域の第三王子 〜命の使い道をひとつしか知らなかった俺へ〜  作者: 雲雲く
第一部:幼少期編

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第32話 母の秘密


 王国歴1256年、春の終わり。


 午後の訓練は、最後の一本で止められた。


「そこまでだ」


 木剣を受けたままレオナルドが言う。アルヴィンは半歩引いて構えを解いたが、右手首の奥に遅れてきた鈍さが残った。折れたわけではない。だが、握り込みすぎた時の嫌な重みがある。


「まだいけます」


「そう言う時は大体いけてねえんだよ」


 レオナルドは木剣を肩へ担ぎ、弟の手元を見た。


「今日は止めとけ。母上のところ行ってこい」


「これくらいなら冷やせば」


「母上の方が上手い。俺より上手いし、医師より痛みを残さねえ時もある」


 その言い方に誇張は少なかった。アルヴィンも否定しない。エリザベスの治療は派手ではないが、翌日に響きにくい。痛みを消すのではなく、傷んだ場所だけを静かに整える感覚があった。


 木剣を戻し、訓練場の外へ出る。東翼の熱気を抜けると、回廊の空気は少し薄く感じた。汗の引いた肌へ春の風が触れる。王宮の中を歩きながら、アルヴィンは昨日の食卓を思い出していた。表へ出る者の一歩手前で、母はいつも王宮を支えている。その理由を、自分はまだ聞いていない。


 中央棟上階の私室区画へ戻ると、エリザベスの居間の扉は半ば開いていた。中から聞こえるのは、低く整った声だった。


「北翼へ回す薬草湯は、今夜の分を薄めてください。明日の朝に届く分は、先に病み上がりの子へ」


「かしこまりました」


「面会順は一つ繰り上げましょう。西翼の議論が長引くなら、待たせる方が疲れてしまうもの」


 返事をしたのはマリアだった。言葉は短いが、内容は細かい。厨房や医師の手前で止まる話を、母のところで一度ほどいているのが分かる。アルヴィンが扉を軽く叩くと、マリアが先に気づいて身を引いた。


「アルヴィン様」


 室内へ入ると、テーブルには小さな帳面が二冊、乾かした薬草を入れた籠、白磁の浅鉢が置かれていた。王妃の私室というより、小さな調整室に近い。


 エリザベスは帳面を閉じ、すぐに視線を息子の手元へ落とした。


「右手を痛めたのね」


「少しだけです」


「少しのうちに見せに来たのなら正解よ。座って」


 逆らう理由もない。窓際の椅子へ腰を下ろすと、エリザベスは浅鉢へ水を満たし、指先を一度だけ浸した。淡い光が水面へ沈み、輪が静かに広がる。次の瞬間、細い水の膜がアルヴィンの手首へ沿って巻きついた。冷たさはある。だが刺すようではなく、熱だけを選んで引かせる温度だった。


 そこへ重ねられた光は、さらに薄い。


 明るく照らすための光ではない。傷んだ筋の上をなぞり、余計な力が入っている場所だけを支える、ごく小さな補助だった。押し込む感じがない。必要な場所だけ持ち上げて、他は触れない。その加減があまりに正確で、アルヴィンは息を詰めた。


「痛みますか」


「最初より、ずっと軽いです」


「今日は熱を引かせるだけで十分ね。治し切ろうとして強く当てると、明日の感覚が鈍ります」


「治すのに、強さは要らないんですね」


 アルヴィンが呟くと、エリザベスは薄く笑った。


「要る時もあるわ。でも、支える魔法は出力より残し方の方が大事なの」


「残し方」


「ええ。攻める魔法は、当てた場所でひとまず終わるでしょう。でも治癒や支援は、そのあと相手がどう動くかまで含めて整えないといけないの」


 相手の明日まで見る魔法。


 そう言い換えると、今の薄い光の意味が少し変わる。ただ痛みを軽くするためではない。明日の訓練で剣を握る手まで想定して、触れる量を決めているのだ。


 水の膜がほどける。代わりに、光だけが一拍遅れて消えた。痛みがなくなったわけではない。だが、無理をすればすぐ分かる程度にきちんと残されている。その残し方まで含めて、制御のうまさだった。


「お母様」


「なあに」


「こんなに使えるのに、どうして公の場ではほとんど見せないんですか」


 室内が静かになった。窓の外では、中庭の噴水がかすかに鳴っている。マリアは気配を読んだのか、扉を閉めて先に下がっていた。


 エリザベスはすぐに誤魔化さなかった。ただ、浅鉢の水面を見てから、向かいの椅子へゆっくり腰を下ろした。


「昨日から、そのことを考えていたのね」


「はい。お母様は王妃ですし、魔法も使えるのに、いつも一歩下がっている気がして」


「下がっている、か」


 その繰り返し方は否定ではなく、言葉の輪郭を確かめる響きだった。


「わたしがまだエルデンベルク公爵家の令嬢だった頃、光属性の才で少し名前が知られていたの。王都ではそういう話がすぐ広がるでしょう」


「はい」


「その頃のわたしは、力があるなら前へ出た方がいいと思っていたわ。見える強さの方が、誰かを安心させられると信じていたから」


 アルヴィンは黙って聞く。エリザベスが昔の自分を語る時、その声は今よりわずかに乾いて聞こえた。


「でも、王宮へ入って分かったの。王妃の光は、ただの光では見てもらえない」


 指先が浅鉢の縁をなぞる。


「わたしが公の場で魔法を使えば、『王家が強く出る合図だ』と受け取る人がいる。実家の名と一緒に見られれば、『エルデンベルク家がどちらへ付くのか』まで勝手に意味をつけられる。わたし一人が前へ出るつもりでも、家族も実家も、別の争いへ巻き込んでしまうのよ」


「力を見せるだけで、ですか」


「見せる力が王妃のものなら、それだけで十分なの」


 エリザベスの声は揺れない。


「誰を先に治したか。誰の隣に立ったか。どの場で光を使ったか。それだけで『王妃はあちらを選んだ』と読まれるわ。助けたつもりでも、別の線を増やしてしまうことがあるの」


 静かな言葉だった。けれど、軽い理屈ではないのが分かる。


「お父様は」


「陛下は、わたしがどうしたいかを尊重してくださいました」


 エリザベスはそこで微笑んだ。


「だから余計に、自分で決めたかったのよ。誰かに止められたからではなく、わたしは表に立つより、王宮と家族を支える側へ回るべきだと」


 アルヴィンは自分の手首を見た。さっきまで痛みの中心だった場所に、今は薄い熱だけが残っている。


「でも、それだと……」


「もったいない、と聞こえる?」


 先回りして言われ、アルヴィンは少しだけ言葉に詰まった。


「少しだけ」


「正直でよろしい」


 エリザベスは笑ったが、そこに傷ついた気配はなかった。


「わたしも昔はそう思っていたもの。でもね、前へ出ないことと、力を手放すことは別なのよ」


 彼女は立ち上がり、棚から細いガラス瓶を一本取った。透明な薬液の底に、淡い銀色の粉が沈んでいる。瓶を振っても、粉はすぐには混ざらない。


「見ていて」


 瓶口を浅鉢の上へ向け、光を一点だけ落とす。すると水の中で小さな流れが生まれ、沈んでいた粉が崩れず均一に広がっていった。荒く混ぜれば簡単だ。だが、それでは成分が偏る。エリザベスのやり方は遅い代わりに、最初から最後まで同じ濃さを保っていた。


「戦う魔法ではありませんね」


「ええ。けれど、こういうものが毎日足りるか足りないかで、王宮の内側はずいぶん変わるわ」


 厨房へ回す薬草湯、病み上がりの子の順番、面会の繰り上げ。さっき扉の外で聞いた言葉と、今の光がひと続きになる。目立つ場所ではない。だが、どれも誰かが倒れないための仕事だった。


「足りない時ほど、支える側は選ばなければなりません」


 アルヴィンが言うと、エリザベスは頷いた。


「そう。誰を先に休ませるか、どこへ先に回すか、どの痛みを今日は抱えたままにしてもらうか。前へ出る強さとは別の形で、責任があるのよ」


「それを、お母様が」


「全部ではないわ。けれど、見える範囲は引き受けるようにしているの」


 その言い方にも見栄はなかった。だから余計に重い。華やかな武勲と違って、うまく回った時ほど表へ残らない仕事だと分かる。


 エリザベスは浅鉢をアルヴィンの方へ少し押した。


「せっかくだから、あなたもやってみる?」


「ぼくが、ですか」


「ええ。光を照らすためではなく、崩れないように支えるつもりで」


 アルヴィンは頷き、瓶の底に残った銀色の粉を見た。火や風なら迷わない。だが、今求められているのはそういう速さではない。指先へ集めた光を細く絞り、浅鉢の中央へ落とす。


 水面が小さく震えた。


 その瞬間、粉が片側へ寄る。流れを作りすぎたのだとすぐ分かった。戦闘用の制御で慣れた「通す」意識が、そのまま押し込みになっている。


「難しいですね」


「攻める時の癖が残っているわね」


 責める響きではない。事実だけを丁寧に置く声だった。


「押さないで。相手の形を変えるのではなく、崩れないように添えるの」


 相手の形を変えない。


 アルヴィンは一度息を吐き、今度は光をさらに薄くした。水の流れを起こすのではなく、沈みきらない位置で粉を受け止めるつもりで触れる。完全ではない。まだ少し揺れる。それでも二度目は、最初ほど偏らなかった。


「さっきよりいいわ」


「手応えはあります。けど、ぼくの魔法というより、水が勝手に保ってくれた感じです」


「それで十分よ。支援は、術者が全部を支配しない方がうまくいくことも多いの」


 その一言は、魔法の話だけではない気がした。



 アルヴィンが黙り込むと、エリザベスはその横顔を静かに見つめた。


 その癖を、エリザベスは昔から知っている。考える時ほど、この子は遠くを見る。


 だからこそ、自分の選択をただの美談にしたくなかった。前へ出ない優しさでは足りない。止めるべき時に止めるための言葉として渡さなければ、きっとこの子はどこまでも行こうとする。


 若い頃、前へ出る強さに憧れた気持ちは本物だ。けれど王妃の光はすぐ旗印に変わる。だからエリザベスは、見せ方だけを手放し、家族が戻る場所を守る側に残った。


 だから今、渡すべき言葉ははっきりしている。



「アルヴィン」


 呼ばれて顔を上げる。エリザベスの声は、さっきまでより少し低かった。


「後悔していないんですか」


 問い返すように見えて、アルヴィンの方が先に聞いた。


「公に退いたことを?」


「はい。もっと前へ出られたのに、って」


 エリザベスは短く息をついた。


「少しもない、とは言わないわ。前へ出る強さは、今でも眩しいもの」


 それから、彼女はまっすぐ息子を見た。


「でも、やめなくてよかったと思うの。見せることを選ばなかったから、守れたものがあるわ。王宮の中の流れも、あなたたちの帰る場所も、その一つ」


 アルヴィンは言葉を待つ。


「公には退いても、治癒と支援の鍛錬だけは手放さなかった。あなたが小さかった頃、あの積み重ねがあったから、わたしはあなたの傍にいられたのよ」


 その一文だけで十分だった。


 幼い頃の熱と息苦しさは、記憶の底にまだ残っている。はっきり思い出せる場面は少なくても、額に触れる冷たい布と、夜の暗さの中で離れなかった温度は覚えていた。あれは母の手だった。


 夜更けの水音も、少しだけ蘇る。浅い桶の縁に布が当たる小さな音。暗い部屋の中で、慌てた声を一つも出さず、呼吸を合わせるように額へ触れてくる手。幼い自分が何を理解していたかは曖昧でも、あの時間に一人ではなかったことだけは、身体のどこかが覚えていた。


「強さって、前へ出ることだけじゃないんですね」


 自然に出た言葉に、エリザベスは頷く。


「ええ。後ろに残って、倒れた人を立たせる強さもあるわ。誰かが帰ってこられるように、灯りを消さずに守る強さもね」


 窓の外で、夕方の鐘がひとつ鳴った。中庭の影が少し伸びる。日が傾き始めた時間だった。


 エリザベスは立ち上がると、アルヴィンの前まで来て、治療した方の手をそっと包んだ。


「だから、ひとつだけ約束してほしいの」


 アルヴィンは黙って頷く。


「勝っても、ちゃんと帰ってきて」


 息が止まるほど強い言葉ではない。むしろ、あまりに静かだった。だが、その静けさの方が深く残る。


「誰かの期待だけで、自分を削り切らないで。王子だから、才能があるから、そう言われても、それだけで全部を差し出さなくていいのよ」


 包まれた手に、わずかに力が込められる。


「帰ってきた時に、あなた自身が残っていないのは駄目です」


「それが、お母様の基準ですか」


「ええ。背中を押すなら、戻ってくる条件も一緒に渡さないといけないもの」


 エリザベスは、そこで言葉を切らなかった。


「来年、学院へ入れば、今よりもっと多くの人があなたを見ます。褒める人も、頼る人も、勝手に何かを託したがる人も増えるでしょう」


 アルヴィンは小さく息を呑む。想像していなかったわけではない。だが、母の口から静かに告げられると、未来の輪郭が急に現実味を帯びた。


「期待は受け取っていいのよ。それは、あなたが積み重ねたものでもあるから。でも、期待にあなた自身を明け渡してはだめ」


 アルヴィンはすぐには返事ができなかった。


 西森からの帰路で父から受け取ったのは、守る順序を間違えないための基準だった。


 母が今渡したのは、勝つことより先に帰ることを失わないための線だ。期待に応えるためでも、役目を果たすためでも、自分を空にしてしまわないための歯止めだった。


「……はい」


 ようやく声が出る。


「勝っても、帰ります」


 エリザベスは微笑んだ。いつもの柔らかい笑みだったが、今はそれだけではない。安堵と、まだ消えない怖さと、その両方を抱えたまま息子に基準を渡した顔だった。


「ええ。それでいいの」


 手が離れる。けれど、さっきまでより右手は軽かった。治療の効果だけではないと分かる。


 扉の外で、小さく足音が止まった。遠慮がちな気配のあと、マリアが声をかける。


「王妃様、夕食の準備が整いました」


「ありがとう。すぐに行きます」


 エリザベスは振り返り、それからアルヴィンへ視線を戻した。


「レオナルドがあなたの手を確認したがるでしょうから、その前に『無理はしていません』と先に言っておくと楽よ」


「それは、たぶん本当ですね」


 少しだけ笑うと、エリザベスも目元を和らげた。


 居間を出て回廊へ出る。夕方の王宮は、昼より音が低い。南翼からは食事の支度の匂いが届き、どこかの部屋では書記官が紙を揃える音がしていた。派手さはない。だが、城全体が夜へ向けて形を整えているのが分かる。


 回廊の壁では、侍女が順に魔法灯へ光を入れていた。淡い灯りが一つずつ点るたび、石壁の冷たさが少しだけ和らぐ。誰かが戻ってくる前に、先に明るくしておく。その手順さえ、今は母の言葉と繋がって見えた。


 先の角を曲がった向こうから、レオナルドの少し大きな笑い声が聞こえた。そのあとを追うように、ヴィクトールの低い返答も混じる。食堂へ人が集まり始めているのだと分かる。帰る場所とは、抽象的な慰めではない。ああして灯りのある方へ足を向ければ、ちゃんと誰かがいるという現実そのものだった。


 その流れの中を、エリザベスはいつもの足取りで歩いていく。


 前を切り開く歩幅ではない。けれど、遅くも迷いもない。誰かが戻ってきた時にちゃんと受け止められるよう、内側を整え続ける者の歩き方だった。


 アルヴィンはその隣を歩きながら、ようやく理解した。


 母は表から退いたのではない。


 家族と王宮を帰らせるために、自分の立つ場所を選び直したのだ。


 守るとは、前へ出て戦うことだけではない。帰る場所を消さないこともまた、同じだけ強い。


 その意味を知った時、アルヴィンの中で「強さ」という言葉にはじめて、帰るという形が加わった。


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