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零域の第三王子 〜命の使い道をひとつしか知らなかった俺へ〜  作者: 雲雲く
第一部:幼少期編

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第31話 9歳の日常


 王国歴1256年、春。


 西森から帰還して一年が過ぎ、アルヴィンの朝は鐘より少し早く始まるようになっていた。九歳になった身体は去年より確かに動く。だが、その分だけ求められる基準も上がった。討伐の記録が公に残ってから、王宮の者たちはもう「幼いのによくできた」では見てくれない。どこまで伸びるか、どこで止まるか、どんな役目に使えるか。そんな目が、褒め言葉のあとにも長く残るようになっていた。


 洗顔を終え、訓練服に袖を通す。中央棟上階の私室区画を出ると、朝の回廊はまだ冷えていた。磨かれた石床へ靴底が小さく鳴り、窓の隙間から入る風に蝋と石の匂いが混じる。東翼へ近づくにつれて、その静けさは少しずつ崩れた。木剣の打音、短い号令、走り込みの足音。王宮の朝は、訓練場から先に目を覚ます。


 東翼の訓練場では、既に近衛の若手と騎士見習いたちが汗を流していた。去年までなら観覧廊の端から眺める側だった光景の中へ、今は自分も自然に入っていく。視線は集まるが、珍しがる色は薄い。第三王子が訓練に来た、ではなく、今日の課目に誰が入るかという実務の目に変わっている。


「準備は」


 短く声をかけてきたのはミハイルだった。灰色の短髪はいつも通り乱れがなく、手元の記録板には既に今日の項目が並んでいる。


「できています」


「今日は合同です。出力は維持、壊しすぎないでください」


 言われて視線を向けると、的として並ぶ木枠がいつもより少なかった。藁束はある。だが外周を留める金具のついた新しい枠が足りない。代わりに、何度も補修した古い枠が二つ、端へ寄せられていた。


 アルヴィンが見た先を、ミハイルも見た。


「鉄具の便が遅れています。街道の検問が増えた影響です。今ある分を回します」


「王都の中でも、そこまで」


「王都の中だから止まらないわけではありません」


 説明は短い。だが十分だった。戦が始まっていないことと、生活が揺れないことは同じではない。去年までは紙の上の緊張だったものが、今はこうして訓練場の備品にまで触れている。


 ミハイルが記録板を閉じた。


「殿下は前列の後ろで入ってください。今日は火槍と風圧を交互に使います。威力ではなく、止める位置を揃えること」


「はい」


「壊せば終わりです。残す前提で制御してください」


 最後の一言は訓練内容そのものだったが、今日はそれだけに聞こえなかった。


 開始の合図で、一列が一斉に動く。前列の騎士見習いが木盾で踏み込み、アルヴィンは半歩後ろから魔力を流した。掌に集めた火を槍の形へ絞り、木枠の中心手前で止める。的を貫くのではなく、進路を切るための角度だ。熱が藁の表面を舐め、焦げた匂いが立つ。その直後、逆手側へ魔力を回して風圧へ切り替える。横へ逃げる想定標的の足を払う軌道で、枠の左端だけを震わせた。


「次」


 ミハイルの声に合わせて、騎士見習いが位置を変える。アルヴィンも足を運ぶ。去年のように、術式を通すだけで呼吸が乱れることはなくなった。負荷はある。腕の芯は重くなる。それでも、次の一手を考える余裕は残る。C級の出力を維持したまま、連続で使う。それが特別ではなく、日課の側へ寄り始めていた。


 三巡目の終わり、前列にいた青年騎士が息を吐いた。


「殿下、去年より近いですね」


 敵意ではない。純粋な評価だった。


「離れていたら、意味がありませんから」


「その返しなら、次はもう少し詰めます」


 冗談めいた口調に、周囲が小さく笑う。王子相手に遠慮しすぎる空気も、今は前ほど濃くない。それが気楽でもあり、同時に逃げ場のなさでもあった。


 訓練が一段落すると、ミハイルが水差しを示した。


「出力は安定しています。だが、最後だけ詰めすぎました」


「風圧の切り替えが一瞬遅れました」


「自覚しているなら結構です。伸びる時ほど、雑な成功を拾わないでください」


 淡々とした言い方だが、評価は明確だった。アルヴィンは木杯を受け取り、水を喉へ流し込む。冷たさが火照った内側を落ち着かせる。


 訓練場の隅では、補修済みの的枠を職人が慎重に運んでいた。金具の擦れる音は小さいのに、妙に耳へ残る。去年なら見過ごしたはずの細部だった。その音だけが、さっきまでの打音より長く耳の奥に残った。



 訓練後、アルヴィンは回廊を北へ渡って王宮図書館へ向かった。


 東翼の熱を抜け、北翼へ入った途端に空気が変わる。打音の余韻は壁一枚で切れ、代わりに紙と革の乾いた匂いが満ちてくる。高い窓から落ちる朝の光は静かで、机の上の筆記具だけを白く浮かせていた。


 窓際の閲覧机では、アーロンが既に資料を広げていた。魔法理論書ではない。交易路図、王都の市場報、宮廷調達の簡易写し。王子教育用に選ばれたのだろうが、並び方が実務そのものだった。


「今日はずいぶん現実的ですね」


 席へ着きながら言うと、老魔導師は髭を撫でた。


「来年学院へ入る前に、殿下には『魔法がどこで使われるか』も知っていただきたいのです」


「理論ではなく」


「理論だけでは、国は回りませんからな」


 アーロンが一枚の紙を示す。王都アルクレイアへ入る荷便の一覧で、端に小さく遅延理由が書き込まれていた。


「塩は西部港で一度止まり、そこから王都前の検印でさらに日を取られています。鉄具は北部向け軍需を優先した便と重なって遅延。薬草は量そのものが減った上、傷薬向けが先に取られる」


「検問強化と優先配分、ですか」


「ええ。直接斬り合っていなくても、国同士が睨み合えば人と物の流れは重くなります」


 アルヴィンは紙の上へ目を落とす。数字だけなら冷えている。だが、朝の訓練場で見た足りない的枠と繋がった瞬間に、急に体温を持った。


「王都は守られている、と思っていました」


「守られておりますよ」


 アーロンは穏やかに返した。


「ただし、守られていることと、何も変わらないことは別です。守るために別の場所へしわ寄せが出る。それを理解して初めて、殿下は『平時を保つ』という言葉の重さを知ります」


 机上の地図には、王都からシルヴァポルタへ伸びる幹線路と、北部へ向かう軍事路が細く描かれていた。線は簡単だ。だが、その上を通る荷車、通行証、門税、点検、護衛。その一つ一つが詰まれば、王宮の食卓も訓練場も静かに形を変える。


「来年、学院へ入る頃も続くと思われますか」


 アルヴィンの問いに、アーロンはすぐには答えなかった。視線を紙から外し、窓の向こうの薄い春空を一度だけ見た。


「続く可能性はあります。むしろ、こういうものは静かな時ほど根を張ります」


 その答えは断定ではない。だが、軽い希望でもなかった。


 アルヴィンは手元の資料へ視線を戻した。紙の上の遅延理由が、来年の学院生活にまで伸びているのかもしれないと思うと、机の上の線が急に遠い場所へ繋がって見えた。



 昼前、講義を終えて南翼へ抜けると、厨房から湯気と香りが溢れていた。


 大鍋の蓋が開く音、包丁が刻板を叩く音、配膳皿の重なる音。火の熱が回廊まで押し出され、図書館の静気を一気に追い払う。腹が空いている時に通ると、それだけで足が少し緩む場所だった。


「薬草茶は薄くして。昼の分まで回すから」


「はい。塩はどうします?」


「今日の分は控えめ。夕方の便が入れば戻せる」


 仕込み台の向こうで交わされた会話は、文句ではなく調整だった。誰も騒がない。だが、回しているという事実そのものが、今の王都をよく表している気がした。


 アルヴィンはそこで立ち止まりすぎず、配膳路を渡って小食堂へ入った。王族の日常食は公式晩餐ほど華やかではない。温かなスープ、白パン、焼いた白身魚、柔らかく煮た豆。十分に整っている。それでも、今日のスープはいつもより少し輪郭が薄かった。


 舌の上で確かめるように一口飲み、アルヴィンは薬草茶へ手を伸ばす。香りもまた、普段より柔らかい。


 たぶん、気づかない者もいる。


 だが、今朝から紙と訓練場を見てしまったあとでは、こういう差はもうただの味ではなかった。日常の質感そのものが、王都の外と繋がっている。



 昼食後、私室へ戻ると、机の上に一通の封書が置かれていた。


 白い封蝋に刻まれた紋章を見た瞬間、歩く速さが少しだけ変わる。エルデンベルク家の印だった。視線の多い日々の中で、その印だけはいつも別の温度を持っている。


 椅子へ腰を下ろし、丁寧に封を切る。紙から立つ香りは控えめで、庭の花と乾いた陽だまりを思わせた。王宮の香油のように整いすぎていないところが、むしろセレナらしい。


『アルヴィン様へ


 お返事、ありがとうございました。


 前のお手紙で、訓練が以前よりずっと忙しくなったと知りました。お疲れではありませんか。


 こちらでは光の維持が前より長くなって、打ち身くらいなら痛みを和らげられるようになりました。先生にも少しだけ褒めていただけたのです。


 難しい日はありますけれど、そのたびにアルヴィン様のお話を思い出しています。わたしも負けずに進みたいと思えます。


 来年、学院で会えますね。


 その時に並んで恥ずかしくないよう、わたしももっと頑張ります。


 どうか、無理をなさらないでください。


 セレナ・エルデンベルク』


 読み終えたあともしばらく紙を閉じられなかった。内容は静かだ。けれど、最後の一文まで息を詰めずに読める手紙は少ない。王宮で交わす書簡には立場や礼式が先に立つ。セレナの手紙にも礼はある。だが、その奥で見ているのが肩書ではなく自分だと分かる。


「学院で会えますね、か」


 小さく口に出すと、言葉の形が少し変わった。約束だったものが、もう予定に近い響きを持っている。


 来年、学院で並ぶ。


 紙の端を親指でなぞる。会えることは嬉しい。だが、その時に遅れていたくはなかった。セレナが進んでいるのなら、自分も止まれない。いまのままでは、並んだ時に胸を張れない気がした。


 アルヴィンは新しい紙を引き寄せ、返事を書き始めた。


 訓練は忙しいが続けていること。最近は騎士団との合同訓練が増えたこと。講義で交易路まで学ぶようになったこと。薬草茶が少し薄くなっているから、そちらも気をつけてほしいこと。書きながら、言葉は自然に整っていった。見栄を張る必要はない。けれど、情けない返事にもしたくない。


 最後に筆先を少しだけ止める。


 来年、学院で会えるのを楽しみにしています。


 その一行を書き入れた瞬間、妙に呼吸が軽くなった。手紙一通で腕力が増えるわけではない。それでも、午後の訓練へ戻る理由としては十分すぎた。



 西日が東翼の窓へ差し込み始めた頃、レオナルドが訓練場へ顔を出した。


 以前のような軽装ではなく、今日は王国騎士団の訓練服に近い格好をしている。肩口の留め具は実用品で、腰の木剣も王子の遊び道具ではない重さを持っていた。十五歳になった兄は、この一年でさらに背が伸びたらしい。近くへ立たれると、見上げる角度がはっきり変わる。


「待たせたな。午後の当番、思ったより長引いた」


「正式に入ると、やっぱり忙しいんですね」


「忙しいぞ。遅れた荷をどう回すかまで訓練になるからな」


 木剣を肩へ乗せたまま、レオナルドは笑った。


「剣だけ振ってりゃいいわけじゃないって、入ってみると分かる」


 アルヴィンも木剣を取る。向かい合うと、兄の立ち方は以前より無駄がなかった。気合いで前へ来るのではなく、相手が動いた時の線だけを静かに塞いでいる。


「来い」


 打ち込む。受けられる。返される。速度は抑えているのに、隙だけは容赦なく突かれる。アルヴィンが半歩下がって体勢を直すと、レオナルドが木剣を軽く回した。


「考えるのはいい。でも、選ぶ前に全部拾おうとするな」


「全部、ですか」


「魔法でも剣でも同じだ。今取るべき一手を先に決めろ。そうすりゃ次が生きる」


 父の言葉が頭をよぎる。けれど、レオナルドのそれはもっと手近で、踏み込む足の順番に近かった。


 数本打ち合ったあと、二人は壁際の休憩帯へ下がった。窓から入る光が砂埃を細く浮かせ、汗の匂いに乾いた木の匂いが混じる。


「兄上は、騎士団に入ってどうですか」


 木杯を渡しながらアルヴィンが聞くと、レオナルドは喉を鳴らしてから答えた。


「性に合ってる。前で殴るだけじゃなく、誰を前に出して誰を下げるかを決めるのもな」


「王族として、ではなく」


「王族だからこそ、だろうな」


 レオナルドは木杯を軽く振った。


「ヴィクトール兄上は父上の近くで国を見る。俺は現場側で穴を塞ぐ。お前は来年、学院で外の連中と競う」


 言いながらも、押しつけがましさはなかった。ただ事実を並べているようで、その実、三人分の重みをちゃんと量っている。


「同じ場所に三人とも立つ必要はないってことですか」


「そういうことだ」


 レオナルドはあっさり頷いた。


「王位だの序列だのは重いけどな。だからって、みんなが同じ役目を背負ったら潰れる。向いてる場所で支えりゃいい」


「兄上は迷いませんね」


「迷うさ」


 意外なくらい早く返ってきた。


「でも、迷ったままでも剣は振らなきゃならん日がある。だったら、自分が役に立つ場所を先に決める」


 その言葉を聞いた瞬間、アルヴィンは小さく息を止めた。自由奔放に見える兄が、何も考えずに進んでいるわけではないことは知っていた。だが、今の一言はそれを改めて形にした。


「お前も、来年からもっと見られるぞ」


 レオナルドがにやりと笑う。


「学院じゃ『第三王子』の札は勝手について回る。面倒くさいが、消えはしない」


「分かっています」


「なら、札ごと鍛えろ。どうせ外せねえなら、それ込みで立てるようになれ」


 乱暴に聞こえるのに、不思議と腑に落ちる言い方だった。


 その時、観覧廊の方で足音が止まった。見上げると、ヴィクトールが手すり越しにこちらを見下ろしていた。執務帰りらしく、腕には薄い書類束を抱えている。


「休憩中なら、ひとつだけ言う」


 硬い声だったが、訓練の空気を壊すほど冷たくはない。


「学院へ行っても、お前が王家の人間であることは変わらない。実技だけでなく、学問でも遅れるな」


「はい」


「あと、祝辞と友好は別物だ。うなずく相手は選べ」


 去年よりずっと短い忠告だった。説教ではない。必要なことだけを置いていく言い方だ。


 アルヴィンが頷くと、ヴィクトールはそれ以上は何も言わず、視線だけをレオナルドへ流した。


「今日は西翼へ戻る。父上の確認がある」


「おう。こっちはもう少しやる」


 ヴィクトールは小さく顎を引き、そのまま回廊の向こうへ消えていった。背中はまだ硬い。けれど、昔のように壁を作るためだけの距離ではないと分かる。


 レオナルドが肩をすくめた。


「ああ見えて、ちゃんと気にしてるんだよ」


「分かっています」


「ならいい。じゃあ、あと十本」


「多いです」


「手紙の返事を書いた顔してたやつが言うな」


 思わず視線を上げると、レオナルドは愉快そうに笑っていた。


「顔に出てたぞ。今日は妙に足取りが軽い」


「……続けます」


「その返しで十分だ」


 木剣を構え直す。手の内には疲労がある。それでも心は朝より前へ出ていた。遠い場所にいる誰かの努力が、自分の一日を押してくれる。その感覚は、前世にはなかった種類の支えだった。



 夕食は家族だけの小さな食卓だった。


 中央棟の小さな食堂は、大広間ほど広くないぶん、灯りの色が近い。磨かれた卓上へ並ぶのは、温かなスープ、焼きたての白パン、香草を控えめに使った鶏肉、果物の煮詰め。公式晩餐の華やかさはない。だが、その分だけ声の温度がそのまま届く。


 カールは会議が長引いているらしく、席にいなかった。代わりにエリザベスが穏やかな顔で卓の空気を整えていた。ヴィクトールは西翼から戻ったばかりで、まだ少しだけ執務の気配を纏っている。レオナルドは訓練の熱が抜け切っていない。


「今日は皆そろっただけでも十分ね」


 エリザベスの一言で、食事が始まる。


 レオナルドがパンをちぎりながら笑った。


「十分って言うなら、父上にも聞かせてやりたいな」


「あなたが言うと、すぐに皮肉になります」


「皮肉じゃないさ。母上の飯は逃したくないって話だ」


 それにヴィクトールがごくわずかに口元を緩める。ほんの短い変化だが、それだけで食卓の硬さが少し緩んだ。


「アルヴィン、今日はどうだったの」


 エリザベスに問われ、アルヴィンは今日一日を簡潔に返した。合同訓練、講義、セレナからの手紙。順に話すと、レオナルドがすぐに反応する。


「来年、学院で会えますね、か。いいじゃねえか」


「声が大きいです」


「照れるところそこか?」


「そこです」


 レオナルドが笑い、エリザベスも目元だけで笑った。ヴィクトールは一度だけ水杯を置くと、アルヴィンの方を見た。


「励みになる相手がいるのは悪くない。だが、それで周囲の見方が軽くなるわけではない」


「分かっています」


「ならいい」


 短い。だが、否定でも茶化しでもない。その温度差が、今のヴィクトールらしかった。


 食事が進むうち、エリザベスは何気ない調子で厨房の話をした。


「薬草は今週も節約して回しているそうよ。宮廷医師の分を切らすわけにはいかないもの」


「母上、そこまで把握してるのか」


 レオナルドが感心したように言うと、エリザベスはスープ皿を置いた。


「王宮の中で困る場所が先に見えるだけです。困ってからでは遅いでしょう」


「昼の薬草茶も、少し薄かったです」


 アルヴィンが言うと、エリザベスは頷いた。


「ええ。目立たないところほど、先に響くわ。だから先に配分を変えるの」


 スープ皿を置く手つきは静かなままだった。その静けさのまま、母が毎日こうして先に回しているのだと分かる。


 ヴィクトールがそこで視線を上げた。


「母上が先に動いてくださるから、表の議論が遅れても持つ場が多い」


「それは皆が動いているからよ」


 エリザベスはそう返し、それ以上は自分の働きを語らなかった。


 食後、レオナルドは夜番の確認があると言って先に立ち、ヴィクトールも西翼へ戻っていった。食堂の灯りが少し静かになる。アルヴィンは椅子を引くエリザベスの手元を見た。卓を離れた母は、そのまま私室へ戻るのではなく、侍女から渡された小さな帳面へ目を通している。


「お母様は、まだお仕事ですか」


「少しだけ。薬草の配分と、明日の面会順を見ておきたいの」


「西翼へ行くんですか」


 何気なく聞いたつもりだった。だが、エリザベスは一度だけ瞬きをしてから、柔らかく笑った。


「いいえ。私は表へ出る人たちが動きやすいよう、先に整えるだけよ」


 そう言って、母はアルヴィンの髪を軽く撫でた。指先はいつも通り温かい。だが、その温度の下にあるものを、自分はまだほとんど知らないのだと思った。


 エリザベスは侍女を伴い、灯りの薄い回廊へ歩いていく。王の隣へ真っ直ぐ向かうのではなく、その手前で支える側の足取りだった。


 王妃であり、誰より王宮の流れを理解しているはずなのに、母はいつも一歩だけ表から身を引いている。


 その理由を、アルヴィンはまだきちんと聞いたことがなかった。


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