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零域の第三王子 〜命の使い道をひとつしか知らなかった俺へ〜  作者: 雲雲く
第一部:幼少期編

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第30話 帰還と評価


 王都の外壁が見えた時、アルヴィンはようやく帰ってきたのだと実感した。


 夕方の空は薄い鉛色に沈み、石造の城壁はその下で静かに冷えている。森の湿った匂いに代わって、街道の先からは煤と煮炊きの匂いが流れてきた。王都の匂いだ。何度も嗅いできたはずなのに、今日はひどく遠くのものみたいに感じる。


 隊列は行きより遅かった。負傷者を乗せた荷台が軋み、騎馬の歩幅も抑えられている。鎧の擦れる音の合間に、短い報告だけが飛んでいた。


「荷台一、保持」


「後列、遅れなし」


「了解。そのまま通す」


 ダリオの声は変わらず低く、疲れていても乱れなかった。前方では父が王都の門を見据えたまま進んでいる。外套は新しいものに替えていたが、肩口の焦げ跡までは隠し切れていない。姿勢も声も崩れていないのに、アルヴィンは手綱を握る手を一度だけ見た。今日の戦いを終えた手だった。


 正門前広場へ近づくにつれ、門上の衛兵が慌ただしく動き始めた。先触れはもう入っていたのだろう。城壁の上から合図旗が翻り、ほどなくして門前のざわめきがこちらまで届いてくる。


 人が集まっていた。


 正門前広場の左右に、商人、使用人、下町から上がってきたらしい親子連れ、王宮勤めの者たちまで混じっている。王が討伐隊を率いていた以上、帰還が注目されるのは不思議ではない。だが、アルヴィンは門をくぐる直前になって初めて、その視線の一部が自分に向いていることに気づいた。


「第三王子殿下だ」


「魔獣を止めたって」


「本当にあの小さなお方が」


 声は一つではなかった。低い囁きが重なり、それがすぐに広場全体の熱へ変わっていく。


「殿下、お帰りなさい!」


「ご無事でよかった!」


「王家に栄光を!」


 歓声が上がった。


 戦いの後で耳にするには、あまりにも明るい音だった。アルヴィンの肩がわずかに強張る。あの森で聞いていたのは、負傷者の荒い息と、鎧越しに伝わる震えと、足を止めれば終わるという切迫だけだった。ここで自分へ向けられている声は、そのどれとも違う。


 前方で父が馬を少しだけ止めた。門前の群衆へ視線を巡らせる。


「負傷者を先に通す」


 短い命令だった。


 歓声は完全には止まらなかったが、衛兵と従者たちが道を開ける。広場にいた人々も、声の熱を残したまま荷台へ目を向け、自然に左右へ下がった。王の一言で空気の優先順位が組み替わる。そのことが、アルヴィンには父らしく思えた。


 すれ違いざま、年若い女が両手を胸の前で握りしめたまま深く頭を下げた。荷台の上にいる負傷騎士を見ていた目が、次の瞬間にはアルヴィンへ向く。


「殿下も、ありがとうございます」


 返す言葉がすぐに出なかった。


 自分は感謝を受けるほどのことをしたのか。トロールを倒したのは父だ。部隊をまとめ続けたのはダリオと騎士たちだ。自分がやったのは、崩れかけた数瞬を必死で繋いだことだけだった。


 それでも無視はできず、アルヴィンは馬上で小さく頭を下げた。


「みんなで戻ってこられただけです」


 広場のざわめきの中へ落とすには、あまりに小さな声だった。届いたかどうかも分からない。だが、隣を進む父がそれを聞いていたことだけは、目を向けなくても分かった。


 門を抜けると、磨かれた石畳が蹄の音を硬く返した。王宮の回廊へ続く導線には衛兵が並び、広場の熱とは別の緊張が張っている。正門前広場から中央棟の回廊を抜け、西翼へ向かう途中で、アルヴィンは何度も視線を感じた。門前の無邪気な歓声とは違う。値踏みし、記憶し、後でどこへ置くかを考えている視線だった。


 王宮へ戻ったのだと、そこで初めて分かった。


 西翼の会議室へ入る前に、医師が簡易確認だけを行った。打撲、浅い裂傷、魔力消耗。深刻な異常は今のところなし。そう切り分けられても、肩から腕へ残る鈍さまでは消えない。父も同じように手早く診られたが、表情は最後まで変わらなかった。


 会議室の扉が開く。


 中は既に整っていた。長机の上には森周辺の地図と記録板が並び、壁際には廷臣と書記が控えている。窓は閉じられ、外の歓声は厚い石壁の向こうで遠く鈍っていた。ここでは、さっきまでの生々しい時間も数字と文言に直される。


 父が上座へ着く。だが玉座の間とは違い、距離は近かった。王としての場でありながら、戦場の泥がまだ完全には落ちていない空気が残っている。


「始めろ」


 カールの声を受け、ダリオが一歩前へ出た。


「本日午刻、王都近郊西森における討伐任務は完了しました。護衛部隊は大型魔獣一体および残存魔獣群と交戦。負傷者は出ましたが、討伐対象はすべて排除、部隊は帰還しております」


 現場のことが、乾いた言葉で並べられていく。


 アルヴィンは机の木目を見た。あの時の湿った土も、裂けた外套も、焦げた匂いも、今ここでは報告書に書ける形へ切り分けられていく。必要なことだと分かっていても、どこか奇妙だった。


 ダリオは続けた。


「大型魔獣出現時、部隊は退路確保を優先。第三王子殿下は中列支援位置で術式を行使し、前進阻害と撤退時間の確保に寄与されました。これにより隊列の崩壊を防ぎ、王の救援到着まで戦線を保持しております」


 自分のことなのに、他人の記録みたいに聞こえる。


 実際にはもっと必死だった。保持などという整った言葉ではなかった。ただ一歩ぶん、二歩ぶん、潰れない時間を奪われまいと足掻いただけだ。


 だが、その必死さは報告には要らないのだろう。残るのは結果だけだ。


 騎士団長がそこで口を開いた。年配の男で、王宮の式服をきっちり着込みながらも、声には戦場の癖が残っている。


「現場確認も済ませました。第三王子殿下の支援がなければ、救援合流前に後退線は裂けておりました」


 短く息を置き、さらに言う。


「率直に申し上げます。殿下の働きなくして、あの場は全滅でした」


 室内が静まった。


 その一言は重かった。褒め言葉というより、軍としての評価だった。だからこそ、否定の余地がない。


 書記の羽根ペンが走る音だけが、かすかに響いた。


 アルヴィンは視線を上げた。廷臣たちの顔つきが変わっている。門前の民衆のような熱ではない。もっと冷えていて、もっと長く残るものだ。誰かが自分を見た後、すぐにヴィクトールの方を見る。その往復が何人分も重なる。


 ヴィクトールは父の少し下がった位置に立っていた。背筋は真っ直ぐで、表情も崩れていない。けれど、視線の角度だけが硬い。王太子として報告を聞く顔と、弟に向ける感情が、まだ一つに揃っていないのだと分かった。


 この場の空気が、誰の立場をどう変えるのか。アルヴィンにはまだ輪郭まで見えていなかった。ただ、もう森へ入る前の自分の位置には戻れないのだろうという感覚だけが、はっきり残った。


 父が記録板へ視線を落とし、言った。


「戦功として記録せよ」


 それだけだった。


 大げさな賞賛も、長い講評もない。だが、その短さがかえって重い。王が公的に認めた。もうそれで十分だった。


「第三王子アルヴィン・レオニード・ヴェルディア。初陣において任を外れず、隊の帰還に功あり。記録へ残す」


「はっ」


 書記が深く頭を下げる。何人かの廷臣もそれに倣った。


 そこでようやく、会議室の外の時間がまた動き始めた。報告はまだ細部が残っていたが、核心は終わったのだろう。廷臣の一人が王の許可を得て退出し、別の者が入れ替わる。たった今この場で定まった評価が、王宮の回廊を伝って広がっていくのが見えるようだった。


 会議が散じた後、西翼の回廊は先ほどまでより静かだった。静かなのに、人の流れは確かに変わっている。すれ違う侍従たちの礼が一段深くなり、廷臣たちの祝辞には測りが混じる。


「お見事でございました、殿下」


「王国の未来は頼もしい」


「王家の御威光、まことに」


 そのどれも、真正面からは受け取りにくかった。誉められているのに、胸が軽くならない。


 回廊の先で、若い貴族が小声で何かを囁いた。もう一人がそれに応じ、すぐに言葉を切る。はっきり聞こえたのは最後だけだった。


「王太子殿下が、どう見るかだ」


 アルヴィンは足を止めなかった。止めれば、その一言に形を与えてしまいそうだった。


 中央棟上階の私室区画へ戻ると、そこでようやく家族の気配が先に立った。


 待っていたのは母だった。


 扉が開くなり、エリザベスは駆け寄るほどではないにせよ、いつもより明らかに速い足取りで近づいてきた。王妃としての姿勢を崩し切らないまま、それでも次の瞬間にはアルヴィンを強く抱きしめている。


「よかった」


 最初の言葉は、それだった。


「本当に、帰ってきてくれてよかった」


 胸へ押し当てられた声が震えている。祝辞より先に安堵が来る。そのことに、アルヴィンは少しだけ救われた。


「おかあさま」


「お怪我は。痛いところはありませんか」


「少しだけ、腕が重いです。でも歩けます」


「歩けることと、無事であることは違うわ」


 柔らかい声なのに、そこだけははっきりしていた。母は一歩離れると、袖口の擦れと頬の浅い傷を順に見ていく。泣きそうな顔のまま、確認の手つきだけは落ち着いている。その仕草に王妃ではなく、治癒魔法を扱う人の目が混じっていた。


「あとでちゃんと診せましょう。今日はもう遠慮しなくていいのよ」


「はい」


 そこへ、廊下の向こうから足音が響いた。躊躇のない速さで近づいてきて、そのまま扉が勢いよく開く。


「アルヴィン!」


 レオナルドだった。


 飛び込んできた勢いのまま肩を掴まれそうになって、直前で手が止まる。兄は傷と母の表情を一目で見て、勢いを少しだけ落とした。


「すげぇな、お前」


 笑っている。だがいつもの無邪気な笑いより、今日は少し低かった。


「門前でお前の名前が飛んでたぞ。王都中、初陣の話でもちきりだ」


「そうみたいです」


「みたいです、じゃないだろ」


 レオナルドは肩をすくめたあと、いつもの調子へ戻るように笑った。


「俺の弟が大型魔獣相手に踏みとどまったってんなら、自慢くらいさせろ」


 その言葉には誇らしさがある。だが次に続いたのは、もっと近い場所の声だった。


「ただし、次は先に無事な顔を見せろ。話はそれからだ」


 叱っているわけではない。熱の高い一言の形をしているのに、芯のところは心配しかなかった。


「はい」


 返すと、レオナルドは満足したように頷く。そのまま頭を乱暴に撫でそうになり、やはり途中で手を止めた。


「今日は母上に怒られるから、これくらいにしとく」


「怒るというより、止めるだけです」


 エリザベスが静かに言う。


「二人とも、今日はもう静かに話しなさい」


 そのやり取りに、少しだけ部屋の空気が緩んだ。


 だが、完全には軽くなりきらない。扉の外にまだ別の気配が残っていたからだ。


 遅れて入ってきたのはヴィクトールだった。


 長兄は公の場の気配をまだ纏っていた。服の乱れはなく、表情も整っている。けれど目だけは、会議室の時よりさらに考え込んだ色をしている。


「兄上」


 アルヴィンが呼ぶと、ヴィクトールは短く頷いた。それから母とレオナルドを一度だけ見て、視線を弟へ戻す。


「報告は聞いた」


 声はいつも通り抑えられていた。


「よくやった」


 それだけ言うのに、ほんのわずかな間があった。だが、その間ごと受け取るべき言葉だとアルヴィンには分かった。軽い口先ではない。今のヴィクトールに言える形で、ぎりぎりまっすぐ出てきた一言だった。


「ありがとうございます」


 ヴィクトールは返事をせず、代わりに少しだけ眉を寄せた。


「今日のことで、お前を見る目はまた変わる」


 部屋が静かになる。


「喜ぶ者もいる。利用しようとする者もいる。お前が何を望むかとは別にだ」


 母が何か言いかけたが、ヴィクトールはそちらを見ないまま続けた。


「だから、しばらくは不用意に何でも頷くな。祝辞も誘いも、全部が善意とは限らない」


 忠告だった。棘は残っている。けれど、ただ突き放すための言葉ではない。


 アルヴィンは小さく息を吸い、頷いた。


「気をつけます」


「そうしてくれ」


 ヴィクトールはそこで初めて表情をわずかに緩めた。ほんの一瞬だったが、それだけで十分だった。あの訓練場や医務室の前で知った細い糸が、まだ切れていないことが分かる。


 レオナルドが空気を変えるように軽く息を吐いた。


「何にせよ、今日は休ませろ。話が増えるのは明日からでいい」


「同感です」


 母がすぐに引き取る。


「アルヴィンは今日は休みます。お祝いも説教も、これ以上は後です」


 説教という言葉に、レオナルドが肩をすくめ、ヴィクトールは何も言わず目を逸らした。二人とも、今は逆らう気がないらしい。


 しばらくして家族が順に部屋を出ると、静けさだけが残った。最後まで残っていた母も、湯気の立つ薬草茶を机へ置き、額にそっと口づけてから出ていく。


「眠れなくても横になっていなさい。明日から先は、明日考えればいいのよ」


 扉が閉まり、ようやく一人になった。


 中央棟上階の私室はいつもと同じはずだった。磨かれた床、厚い絨毯、机の上の灯り、窓辺に置かれた小さな椅子。だが今夜は、帰ってきた場所というより、いったん落ち着くための殻みたいに感じる。


 外套を脱ぎ、椅子へ腰を下ろす。肩から先の重さがようやくはっきりしてきた。戦場では無視できていた鈍痛が、静かになった途端に輪郭を持つ。


 窓の外では、まだ広場のざわめきが少しだけ残っていた。歓声というほど大きくはない。けれど、門前で上がった熱の名残が、夜の石壁に反射している。


 王都の人々にとって、今日は誇るべき帰還なのだろう。


 騎士団にとっては、正式に記録すべき戦功。


 廷臣にとっては、次にどう扱うかを考える材料。


 兄にとっては、さらに重くなる立場の火種。


 そして自分にとっては。


 アルヴィンは、自分の手を見た。


 まだ子供の手だ。傷も浅い。けれど、今日その手で守れたものと、守りきれなかったかもしれないものの境目は、もう曖昧ではない。


 ただ強くなりたいだけだ。守る順序を間違えないために鍛えたいだけだ。けれど王宮は、もうその願いだけで自分を見てはくれない。


 歓声は、その境目を軽くしてはくれなかった。


 それでも、逃げたいとは思わない。


 父が残した基準も、兄たちの視線も、母の震えた声も、全部まとめて自分の側へ来てしまったのなら、もう受け取るしかない。問題は、何に使うかだ。


 窓の外に目を向ける。王都の灯が、夜の底で小さく揺れていた。


 帰ってきたはずなのに、出発前と同じ場所へ戻れた気はしなかった。


 王都の静かな夜はもうそこにあるのに、自分の周りの空気だけが、別の重さを持ち始めている。


 アルヴィンは薬草茶へ手を伸ばし、熱を確かめるように湯気を見た。


 明日になれば、また訓練は続く。


 けれどその前に、王宮の誰もが今日の帰還へ意味を与え始めるだろう。


 そのことだけは、もう分かっていた。


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