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零域の第三王子 〜命の使い道をひとつしか知らなかった俺へ〜  作者: 雲雲く
第一部:幼少期編

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31/37

幕間 守る順番

幕間なんか追加しちゃってもう~


 空は低く垂れこめ、雨になる寸前の色をしていた。


 王都西側の街道は、土と血と焦げた木の匂いで重く濁っている。遠くでは角笛が途切れ途切れに鳴り、崩れかけた荷車の軋みが風に混じって届いていた。兵の怒号、馬のいななき、負傷者のうめき。そのすべてが重なり合って、戦場は一つの鈍い唸り声のようになっている。


 カールは馬上から前方を見据えた。


 まだ王冠を被る前。王子として前線に立っていた頃の話だ。


 青灰の外套は泥と煤で縁が黒く汚れ、籠手には何度も剣を受けた痕が残っている。だが、手綱を握る指先には迷いがなかった。前方にはガルヴァード帝国軍の本隊、そのさらに奥に総大将の旗が見える。距離は遠くない。ここを一気に穿てば、敵の指揮は崩れる。そう読んでいた者はカールだけではなかった。


「今です」


 右後方から、アーロンの声が飛んだ。


 今より二十五年若いその顔には、後年の深い皺がまだ少ない。だが目の鋭さだけは、現在と少しも変わらなかった。戦場用の短杖を握り、風の流れと魔力の乱れを見極めながら、彼は前方を指し示す。


「中央は揺れております。あの旗を落とせば敵の連携は崩れます」


 左から軍務副官が続ける。


「第一王子殿下、ここで抜ければ終わります。敵はもう踏ん張れません」


 終わる。


 その言葉に嘘はなかった。


 敵本陣へ斬り込み、総大将か指揮官層を落とす。そうすれば今日の会戦は決まる。王都を守る戦いとしては最善手に近い。兵もそれを期待していた。若き日のカールはすでに前線で名を上げており、雷撃を纏って突破口を開く戦い方は何度も戦局を変えてきた。


 だからこそ、この瞬間も誰もが同じ未来を見ていた。


 そこへ、泥まみれの伝令兵が坂を駆け上がってきた。


「西街道、撤退線が詰まりました!」


 息も絶え絶えの声が戦場の騒音を裂く。


「避難列と負傷兵の荷車が橋の手前で滞留しています。後衛が押し返されています。このままでは街道ごと呑まれます!」


 副官の顔が変わる。


「橋の前だと?」


「荷車が一台、車軸を折りました。通れる幅が狭まり、列が動けません。魔導師の護衛班も一つ潰れています!」


 アーロンが視線だけで西を測った。黒煙が、街道の折れ曲がる先から細く立ち上っている。敵は中央だけではない。こちらが本陣を抜く前に、西の列が裂かれれば、王都へ戻るはずの民と負傷兵がその場で揉み潰される。


 副官が言った。


「ですが、今ここを捨てれば敵将が逃げます」


「逃がしたら次が厄介です。今日で終わらせるなら中央です」


 どちらも正しかった。


 カールは一度だけ息を吸い、前方の敵旗を見た。翻る色、槍の密集、護衛騎兵の厚み。抜ける。自分なら抜ける。中央を裂き、勝ちを早めることはできる。


 その後で西を救うことも、もしかしたらできるかもしれない。


 かもしれない。


 だが、戦場で最も人を殺す言葉は、たいていその曖昧さだった。


 西街道の煙がもう一度、風に押されて膨らんだ。焦げた布と油の臭いが、遅れてここまで届く。


 避難民がいる。


 歩けない負傷兵がいる。


 戦えない者の列が、一度崩れたら立て直せない位置にいる。


 カールは手綱を引いた。


 馬が半歩横を向く。


「殿下?」


 副官の声に、迷いが混じる。


 カールは前を向いたまま言った。


「中央は第二線に任せる」


「しかし」


「西へ回す」


 一息で言い切ると、場の空気が固まった。


 副官が食い下がる。


「敵将を落とせば全体が崩れます。ここで勝ちを遅らせるのは」


「あの列が落ちれば、勝っても負けだ」


 低い声だった。


 怒鳴ってはいない。だが、それ以上言わせない重さがあった。


「崩れた戦列は組み直せる。捨てた荷も積み直せる。だが、今あの街道に詰まっているのは、次の戦列に戻れない者たちだ。歩けない者、剣を取れない者、王都に入れなければその時点で終わる者たちだ」


 カールはそこで初めて振り返った。


「敵将は後でも追える。あの列は、今しか拾えん」


 短い沈黙の後、アーロンが先に頷いた。


「西街道の地形は狭い。中央より少数でも足止めできます」


 副官は歯を食いしばり、それでも頭を下げた。


「……了解」


 次の瞬間には、カールは馬腹を蹴っていた。


 雷の魔力が足元から立ち上がり、青白い火花が泥を弾く。アーロンと護衛騎兵が後に続き、進路を変えた一隊が西へ駆け下りた。中央突破のために整えられていた呼吸が、一瞬で別の戦いの形へ組み替えられる。


 坂を下るほどに、街道の惨状がはっきり見えてきた。


 橋の手前で、荷車が横倒しになっている。片輪が外れ、積んでいた木箱と布包みが道いっぱいに散乱していた。その向こうで負傷兵を載せた荷台が二台、互いに詰まって動けず、御者が半狂乱で馬をなだめている。詰まりは橋前の一点に凝縮していた。あそこさえ割れば、人と担架だけを細く流す道は作れる。避難民の列は細い街道の両端へ押しやられ、抱えた荷を捨てきれない者、泣く子を抱いてうずくまる者、倒れた家族を引き起こそうとしている者が入り乱れていた。


 さらに後方では、王国兵の後衛が狭路を盾にして帝国兵を押し返している。街道がくびれる箇所で突進幅だけは抑えているが、槍列は薄く、もう二度も下がった痕が土に刻まれていた。


「殿下!」


 後衛の指揮官が叫ぶ。声は掠れ、兜の隙間から血が頬を伝っていた。


「橋前の荷車が動きません!列が詰まっている間、ここを保ててもあと数分です!」


 カールは状況を一息で見切った。


 中央で勝つより先に、ここで順番を作らなければならない。


「聞け!」


 雷を帯びた声が街道に走る。


 ざわめきが一瞬だけ止まる。


「まず、子供と歩けない者を先に渡せ。次に重傷者。荷は捨てろ。積み直しは後だ。生きていれば戻せる」


 荷を抱え込んでいた商人風の男が反射的に叫んだ。


「だ、だがこれは」


「置け」


 カールは一言で切った。


「今ここで守る順番を間違えるな」


 その声に、男は震える手で箱を下ろした。


 アーロンがすぐに動く。


「右側を負傷兵、左側を避難民に分けなさい。歩ける者は肩を貸す。馬は一度外しなさい。荷車を通そうとするな!詰まりが増える」


 魔導師たちが伝声補助の術式を使い、指示が街道に広がっていく。兵たちが散乱した荷を蹴り寄せ、道の片側へ積み上げ始めた。馬を外された荷台がようやく半歩ずつずれ、人ひとりが抜けられる幅が先に開く。泣き声とうめきの中に、ようやく「何からやるか」だけが一本通る。


 だが敵は待たない。


 街道の先、木々の隙間から帝国兵が押し寄せてきた。盾兵が前に出て、背後の槍が一斉に傾く。狭い地形を逆手に取り、こちらの後衛を削り切るつもりだ。


 カールは馬から飛び降りた。


 着地と同時に、足元の泥が雷で弾ける。右手に集めた魔力が剣へ走り、刃の縁が青く光った。


「アーロン」


「分かっております」


 答えは早い。


「列の先頭を渡らせている間だけでも、視界を切ります」


 アーロンの短杖から霧のような薄い魔力膜が立ち上がり、街道の低い位置へ広がった。完全な遮断ではない。だが、突撃の歩幅を乱すには十分だ。


 その隙に、カールは前へ出る。


 敵先頭の盾へ、雷を纏った剣を叩き込んだ。


 轟音。


 盾ごと男が後方へ吹き飛び、連なっていた槍兵が巻き込まれる。狭い街道では、一人の崩れがそのまま列全体の歪みになる。カールはそこへ間髪入れず踏み込み、二撃、三撃と雷を走らせた。落とすのは命そのものではない。進む足、構える手、隊列の芯。前へ出られなくなった列はそれだけで鈍る。


 しかし数は多かった。


 左右の林から回り込もうとする影がある。後衛がそれを止める。矢羽が風を裂き、短い悲鳴が重なった。橋の方では、負傷兵を抱えた若い兵が足を滑らせ、荷台に肩を打って崩れ落ちる。


「起こせ!先へ送れ!」


 カールは叫びながら、左手を振った。


 雷が街道脇の倒木を打ち、乾いた幹を裂く。砕けた木片が道へ落ち、迂回しようとしていた敵兵の足を止めた。狭路で必要なのは華々しい殲滅ではない。数歩ぶんの遅れだ。その数歩が列を一組先に進める。


 荷車の脇で、老婆を背負った少女が立ち尽くしていた。何を優先すべきか分からず、その場から動けなくなっている。後ろから別の列が押し寄せ、二人まとめて倒れそうになる。


「左に寄せろ!」


 カールが怒鳴ると、近くの兵が駆け寄り、少女ごと老婆を抱えて橋へ向かった。


 その間にも、街道の圧は増していく。


 帝国兵の一団が、霧の切れ目を見つけて押し込んできた。槍の穂先が三本、同時にカールの胸を狙う。剣で一本を払う。肘で二本目を逸らす。三本目が脇腹の外套を裂いた。布の下で皮膚が熱を帯びる。


 踏み込んだまま、カールは雷を解放した。


 青白い閃光が街道の地面を走り、敵の足元で爆ぜる。土と石片が跳ね上がり、前列がまとめて崩れた。背後の兵がつまずき、列の密度が一瞬だけ緩む。


「今だ、通せ!」


 その声に押されて、負傷兵を乗せた即席の担架が一つ、橋を渡り切った。次の荷台も動く。泣き声の向こうで、子供を抱えた女が振り返り、何かを叫んだ。礼なのか、誰かの名なのか、轟音の中では聞き取れない。


 アーロンが後方から叫ぶ。


「殿下、出力が高すぎます!維持を短く!」


「列が抜けるまで落とせん」


「右手が痺れているはずです!」


 図星だった。


 剣の柄を握る右手の感覚が、少しずつ薄くなっている。指先が熱いのに、同時に冷えているようでもあった。雷を流し込み続けた時にだけ出る、嫌な痺れだ。まだ痛みとは呼べない。だが、奥の方で何かが擦り切れていく気配がある。


 今は無視できる。


 無視しなければならない。


「次、最後の重傷列です!」


 後方から別の兵が叫ぶ。


 カールは一瞬だけ橋を振り返った。


 負傷兵を乗せた荷台が揺れながら進んでいく。脚を失った兵、肩を押さえて歯を食いしばる兵、血に濡れた包帯を抱えた治療係。その後ろに、まだ十数人の避難民が残っていた。先頭は動いている。だが最後尾はまだ完全に開いていない。


 その時、街道奥から火が上がった。


 後衛のさらに後ろに置かれていた荷車の一台へ、投擲された火壺が当たったのだ。油を吸っていた布が一気に燃え広がり、火の壁が細道を塞ぐ。燃える荷の陰で、数人の声が重なった。


「まだ中にいる!」


「待て、引っ張れ!」


 カールの足が半歩、そちらへ向いた。


 助けに行けば届くかもしれない距離だった。


 だが、そのためにこの前線を一瞬でも下げれば、今押し止めている敵が一気に流れ込む。橋上の列はそこで潰れる。助けに戻ることで、前を渡っている全員が止まる。


 選べるものではなかった。


 それでも、選ばなければならなかった。


 火の向こうから、若い兵がこちらを見た。顔は煤だらけで、片目の上から血を流している。助けを求める目ではなかった。行け、と言っていた。列を落とすな、と。


 喉の奥が焼けたように熱くなる。


「後衛、二列下がれ!」


 カールは自分の足を止めたまま叫んだ。


「火線の内側は捨てる!橋前の列を通し切ることを優先しろ!」


 命令の形にしなければ、実行できなかった。


 後衛の指揮官が一瞬だけ顔を歪め、それでも剣を振った。


「聞いたな!橋前優先だ。下がれ、下がりながら刺せ!」


 兵が動き、列が動く。


 火の向こう側に残された影は、煙の中へ消えた。


 カールはその方角を二度と見なかった。


 見れば、足がそちらへ行く。


 行けば、この列を落とす。


 ならば、今ここで自分に許されるのは、前だけだった。


 剣へ流す雷をさらに絞り、街道の幅に合わせて細く鋭く使う。広く撃てば味方を巻き込む。強く撃てば自分の足が止まる。必要なのは、あと少し、あと一列、あと一台ぶんの時間だった。


 敵の槍を弾く。


 盾を砕く。


 踏み込みかけた足元へ短い雷を走らせ、進路を奪う。


 その繰り返しの中で、呼吸がわずかに浅くなる。胸の内側に熱が溜まり、吸った空気が肺の奥で引っかかった。右肩から指先へ走る痺れは、もう無視できるぎりぎりまで来ている。


 アーロンの声が近づいた。


「最後尾、渡り切ります!」


 それを聞いた瞬間、カールは剣を振り抜いた。


 最前列の盾列がまとめて弾き飛ばされ、街道に短い空白が生まれる。そこへ後衛が一気に引き、橋板の上を最後の兵が渡り切った。


「橋を落とせ!」


 命令と同時に、支柱へ雷が叩き込まれる。


 古い木橋が悲鳴のような音を立て、中央から崩れた。渡りかけていた帝国兵が泥水へ落ち、後続が立ち止まる。完全に止めたわけではない。だが、追撃の勢いを削ぐには十分だった。


 ようやく、列が生きたまま街道の奥へ逃げていく光景が見えた。


 カールはそこで初めて剣先を下ろした。


 途端に、右手の感覚が一気に遠のく。指を開こうとしても、意識よりわずかに遅れてしか動かない。呼気は熱く、胸の奥に鉄を飲み込んだような重さが残っていた。


「殿下」


 アーロンがすぐ横に来た。


 彼は無事だったが、法衣の袖は焼け、頬には浅い切り傷が走っている。後方支援に徹しながら、最後まで列を回したのだろう。


「手を」


「いい」


 短く返すと、カールは視線を橋の向こうへやった。


 避難民の列はまだ混乱している。泣き崩れる者、地面にへたり込む者、助かった家族を抱き締める者。治療係が駆け回り、兵が名簿代わりの板へ必死に書き付けをしている。助かった者は確かにいる。今ここで落としたくなかった命は、まだ多く残っている。


 だが、火の向こうに残した者たちもいた。


 アーロンはカールの沈黙を読んだように、すぐには何も言わなかった。


 やがて、静かに口を開く。


「中央を抜いていれば、会戦そのものは早く終わったかもしれません」


 責めているのではない。確認だった。


「かもしれん」


「ですが、西は落ちていた」


 その言葉に、カールはわずかに目を閉じた。


 喉の奥が、火を飲み込んだように焼ける。


「そうだ。火の内側は切った」


 助かった列は残った。


 だが、煙の向こうへ置いてきた声まで消えるわけではない。


「殿下」


 アーロンが再び呼ぶ。


「その手は、後で必ず診せてください」


 カールは右手を見下ろした。指先にはまだ細い火花が残り、握りを解くたびに鈍い痺れが骨の奥まで走る。大事ではない。少なくとも今は、そう思えた。


「後でいい」


「後で診れば分かります」


 そこでアーロンは言葉を切った。戦場の真ん中で、それ以上を口にしても仕方がないと分かっていたのだろう。


 カールも続きを求めなかった。


 その代わり、避難列の方へ顎を向ける。


「数を取れ。歩ける者と歩けない者を分けろ。家族を探している者は記録を残せ。置いてきた荷のことは後回しだ」


「承知しました」


 アーロンが動き出す。


 その背を見送り、カールは崩れた橋の前に一人残った。


 泥の匂い。焦げた木の匂い。血の生臭さ。遠くから運ばれてくる、かすかな雨の匂い。耳に残るのは勝ち鬨ではない。火の向こうで途切れた声と、こちらを見ていた若い兵の目だった。


 カールはゆっくりと息を吐いた。


 火の向こうに残した影。


 振り返らなかった一瞬。


 助けられた命ではなく、選ばなかった方の重さ。


 雨粒が一つ、籠手の甲に落ちた。


 遅れてもう一つ、肩へ落ちる。


 やがて空が切れ、細い雨が戦場全体を濡らし始めた。


 熱を持った剣から白い湯気が立つ。指先の痺れはまだ消えない。柄を握るたび、骨の奥で鈍い痛みが返ってくる。


 それでもカールは崩れた橋から目を離した。


 守れた列は、もう見えないところまで進んでいる。


 ならば次は、王都そのものを落とさせない。


どこかでカールは深堀りしておきたいなと思っていたので、いい機会だった。

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