幕間 守る順番
幕間なんか追加しちゃってもう~
空は低く垂れこめ、雨になる寸前の色をしていた。
王都西側の街道は、土と血と焦げた木の匂いで重く濁っている。遠くでは角笛が途切れ途切れに鳴り、崩れかけた荷車の軋みが風に混じって届いていた。兵の怒号、馬のいななき、負傷者のうめき。そのすべてが重なり合って、戦場は一つの鈍い唸り声のようになっている。
カールは馬上から前方を見据えた。
まだ王冠を被る前。王子として前線に立っていた頃の話だ。
青灰の外套は泥と煤で縁が黒く汚れ、籠手には何度も剣を受けた痕が残っている。だが、手綱を握る指先には迷いがなかった。前方にはガルヴァード帝国軍の本隊、そのさらに奥に総大将の旗が見える。距離は遠くない。ここを一気に穿てば、敵の指揮は崩れる。そう読んでいた者はカールだけではなかった。
「今です」
右後方から、アーロンの声が飛んだ。
今より二十五年若いその顔には、後年の深い皺がまだ少ない。だが目の鋭さだけは、現在と少しも変わらなかった。戦場用の短杖を握り、風の流れと魔力の乱れを見極めながら、彼は前方を指し示す。
「中央は揺れております。あの旗を落とせば敵の連携は崩れます」
左から軍務副官が続ける。
「第一王子殿下、ここで抜ければ終わります。敵はもう踏ん張れません」
終わる。
その言葉に嘘はなかった。
敵本陣へ斬り込み、総大将か指揮官層を落とす。そうすれば今日の会戦は決まる。王都を守る戦いとしては最善手に近い。兵もそれを期待していた。若き日のカールはすでに前線で名を上げており、雷撃を纏って突破口を開く戦い方は何度も戦局を変えてきた。
だからこそ、この瞬間も誰もが同じ未来を見ていた。
そこへ、泥まみれの伝令兵が坂を駆け上がってきた。
「西街道、撤退線が詰まりました!」
息も絶え絶えの声が戦場の騒音を裂く。
「避難列と負傷兵の荷車が橋の手前で滞留しています。後衛が押し返されています。このままでは街道ごと呑まれます!」
副官の顔が変わる。
「橋の前だと?」
「荷車が一台、車軸を折りました。通れる幅が狭まり、列が動けません。魔導師の護衛班も一つ潰れています!」
アーロンが視線だけで西を測った。黒煙が、街道の折れ曲がる先から細く立ち上っている。敵は中央だけではない。こちらが本陣を抜く前に、西の列が裂かれれば、王都へ戻るはずの民と負傷兵がその場で揉み潰される。
副官が言った。
「ですが、今ここを捨てれば敵将が逃げます」
「逃がしたら次が厄介です。今日で終わらせるなら中央です」
どちらも正しかった。
カールは一度だけ息を吸い、前方の敵旗を見た。翻る色、槍の密集、護衛騎兵の厚み。抜ける。自分なら抜ける。中央を裂き、勝ちを早めることはできる。
その後で西を救うことも、もしかしたらできるかもしれない。
かもしれない。
だが、戦場で最も人を殺す言葉は、たいていその曖昧さだった。
西街道の煙がもう一度、風に押されて膨らんだ。焦げた布と油の臭いが、遅れてここまで届く。
避難民がいる。
歩けない負傷兵がいる。
戦えない者の列が、一度崩れたら立て直せない位置にいる。
カールは手綱を引いた。
馬が半歩横を向く。
「殿下?」
副官の声に、迷いが混じる。
カールは前を向いたまま言った。
「中央は第二線に任せる」
「しかし」
「西へ回す」
一息で言い切ると、場の空気が固まった。
副官が食い下がる。
「敵将を落とせば全体が崩れます。ここで勝ちを遅らせるのは」
「あの列が落ちれば、勝っても負けだ」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。だが、それ以上言わせない重さがあった。
「崩れた戦列は組み直せる。捨てた荷も積み直せる。だが、今あの街道に詰まっているのは、次の戦列に戻れない者たちだ。歩けない者、剣を取れない者、王都に入れなければその時点で終わる者たちだ」
カールはそこで初めて振り返った。
「敵将は後でも追える。あの列は、今しか拾えん」
短い沈黙の後、アーロンが先に頷いた。
「西街道の地形は狭い。中央より少数でも足止めできます」
副官は歯を食いしばり、それでも頭を下げた。
「……了解」
次の瞬間には、カールは馬腹を蹴っていた。
雷の魔力が足元から立ち上がり、青白い火花が泥を弾く。アーロンと護衛騎兵が後に続き、進路を変えた一隊が西へ駆け下りた。中央突破のために整えられていた呼吸が、一瞬で別の戦いの形へ組み替えられる。
坂を下るほどに、街道の惨状がはっきり見えてきた。
橋の手前で、荷車が横倒しになっている。片輪が外れ、積んでいた木箱と布包みが道いっぱいに散乱していた。その向こうで負傷兵を載せた荷台が二台、互いに詰まって動けず、御者が半狂乱で馬をなだめている。詰まりは橋前の一点に凝縮していた。あそこさえ割れば、人と担架だけを細く流す道は作れる。避難民の列は細い街道の両端へ押しやられ、抱えた荷を捨てきれない者、泣く子を抱いてうずくまる者、倒れた家族を引き起こそうとしている者が入り乱れていた。
さらに後方では、王国兵の後衛が狭路を盾にして帝国兵を押し返している。街道がくびれる箇所で突進幅だけは抑えているが、槍列は薄く、もう二度も下がった痕が土に刻まれていた。
「殿下!」
後衛の指揮官が叫ぶ。声は掠れ、兜の隙間から血が頬を伝っていた。
「橋前の荷車が動きません!列が詰まっている間、ここを保ててもあと数分です!」
カールは状況を一息で見切った。
中央で勝つより先に、ここで順番を作らなければならない。
「聞け!」
雷を帯びた声が街道に走る。
ざわめきが一瞬だけ止まる。
「まず、子供と歩けない者を先に渡せ。次に重傷者。荷は捨てろ。積み直しは後だ。生きていれば戻せる」
荷を抱え込んでいた商人風の男が反射的に叫んだ。
「だ、だがこれは」
「置け」
カールは一言で切った。
「今ここで守る順番を間違えるな」
その声に、男は震える手で箱を下ろした。
アーロンがすぐに動く。
「右側を負傷兵、左側を避難民に分けなさい。歩ける者は肩を貸す。馬は一度外しなさい。荷車を通そうとするな!詰まりが増える」
魔導師たちが伝声補助の術式を使い、指示が街道に広がっていく。兵たちが散乱した荷を蹴り寄せ、道の片側へ積み上げ始めた。馬を外された荷台がようやく半歩ずつずれ、人ひとりが抜けられる幅が先に開く。泣き声とうめきの中に、ようやく「何からやるか」だけが一本通る。
だが敵は待たない。
街道の先、木々の隙間から帝国兵が押し寄せてきた。盾兵が前に出て、背後の槍が一斉に傾く。狭い地形を逆手に取り、こちらの後衛を削り切るつもりだ。
カールは馬から飛び降りた。
着地と同時に、足元の泥が雷で弾ける。右手に集めた魔力が剣へ走り、刃の縁が青く光った。
「アーロン」
「分かっております」
答えは早い。
「列の先頭を渡らせている間だけでも、視界を切ります」
アーロンの短杖から霧のような薄い魔力膜が立ち上がり、街道の低い位置へ広がった。完全な遮断ではない。だが、突撃の歩幅を乱すには十分だ。
その隙に、カールは前へ出る。
敵先頭の盾へ、雷を纏った剣を叩き込んだ。
轟音。
盾ごと男が後方へ吹き飛び、連なっていた槍兵が巻き込まれる。狭い街道では、一人の崩れがそのまま列全体の歪みになる。カールはそこへ間髪入れず踏み込み、二撃、三撃と雷を走らせた。落とすのは命そのものではない。進む足、構える手、隊列の芯。前へ出られなくなった列はそれだけで鈍る。
しかし数は多かった。
左右の林から回り込もうとする影がある。後衛がそれを止める。矢羽が風を裂き、短い悲鳴が重なった。橋の方では、負傷兵を抱えた若い兵が足を滑らせ、荷台に肩を打って崩れ落ちる。
「起こせ!先へ送れ!」
カールは叫びながら、左手を振った。
雷が街道脇の倒木を打ち、乾いた幹を裂く。砕けた木片が道へ落ち、迂回しようとしていた敵兵の足を止めた。狭路で必要なのは華々しい殲滅ではない。数歩ぶんの遅れだ。その数歩が列を一組先に進める。
荷車の脇で、老婆を背負った少女が立ち尽くしていた。何を優先すべきか分からず、その場から動けなくなっている。後ろから別の列が押し寄せ、二人まとめて倒れそうになる。
「左に寄せろ!」
カールが怒鳴ると、近くの兵が駆け寄り、少女ごと老婆を抱えて橋へ向かった。
その間にも、街道の圧は増していく。
帝国兵の一団が、霧の切れ目を見つけて押し込んできた。槍の穂先が三本、同時にカールの胸を狙う。剣で一本を払う。肘で二本目を逸らす。三本目が脇腹の外套を裂いた。布の下で皮膚が熱を帯びる。
踏み込んだまま、カールは雷を解放した。
青白い閃光が街道の地面を走り、敵の足元で爆ぜる。土と石片が跳ね上がり、前列がまとめて崩れた。背後の兵がつまずき、列の密度が一瞬だけ緩む。
「今だ、通せ!」
その声に押されて、負傷兵を乗せた即席の担架が一つ、橋を渡り切った。次の荷台も動く。泣き声の向こうで、子供を抱えた女が振り返り、何かを叫んだ。礼なのか、誰かの名なのか、轟音の中では聞き取れない。
アーロンが後方から叫ぶ。
「殿下、出力が高すぎます!維持を短く!」
「列が抜けるまで落とせん」
「右手が痺れているはずです!」
図星だった。
剣の柄を握る右手の感覚が、少しずつ薄くなっている。指先が熱いのに、同時に冷えているようでもあった。雷を流し込み続けた時にだけ出る、嫌な痺れだ。まだ痛みとは呼べない。だが、奥の方で何かが擦り切れていく気配がある。
今は無視できる。
無視しなければならない。
「次、最後の重傷列です!」
後方から別の兵が叫ぶ。
カールは一瞬だけ橋を振り返った。
負傷兵を乗せた荷台が揺れながら進んでいく。脚を失った兵、肩を押さえて歯を食いしばる兵、血に濡れた包帯を抱えた治療係。その後ろに、まだ十数人の避難民が残っていた。先頭は動いている。だが最後尾はまだ完全に開いていない。
その時、街道奥から火が上がった。
後衛のさらに後ろに置かれていた荷車の一台へ、投擲された火壺が当たったのだ。油を吸っていた布が一気に燃え広がり、火の壁が細道を塞ぐ。燃える荷の陰で、数人の声が重なった。
「まだ中にいる!」
「待て、引っ張れ!」
カールの足が半歩、そちらへ向いた。
助けに行けば届くかもしれない距離だった。
だが、そのためにこの前線を一瞬でも下げれば、今押し止めている敵が一気に流れ込む。橋上の列はそこで潰れる。助けに戻ることで、前を渡っている全員が止まる。
選べるものではなかった。
それでも、選ばなければならなかった。
火の向こうから、若い兵がこちらを見た。顔は煤だらけで、片目の上から血を流している。助けを求める目ではなかった。行け、と言っていた。列を落とすな、と。
喉の奥が焼けたように熱くなる。
「後衛、二列下がれ!」
カールは自分の足を止めたまま叫んだ。
「火線の内側は捨てる!橋前の列を通し切ることを優先しろ!」
命令の形にしなければ、実行できなかった。
後衛の指揮官が一瞬だけ顔を歪め、それでも剣を振った。
「聞いたな!橋前優先だ。下がれ、下がりながら刺せ!」
兵が動き、列が動く。
火の向こう側に残された影は、煙の中へ消えた。
カールはその方角を二度と見なかった。
見れば、足がそちらへ行く。
行けば、この列を落とす。
ならば、今ここで自分に許されるのは、前だけだった。
剣へ流す雷をさらに絞り、街道の幅に合わせて細く鋭く使う。広く撃てば味方を巻き込む。強く撃てば自分の足が止まる。必要なのは、あと少し、あと一列、あと一台ぶんの時間だった。
敵の槍を弾く。
盾を砕く。
踏み込みかけた足元へ短い雷を走らせ、進路を奪う。
その繰り返しの中で、呼吸がわずかに浅くなる。胸の内側に熱が溜まり、吸った空気が肺の奥で引っかかった。右肩から指先へ走る痺れは、もう無視できるぎりぎりまで来ている。
アーロンの声が近づいた。
「最後尾、渡り切ります!」
それを聞いた瞬間、カールは剣を振り抜いた。
最前列の盾列がまとめて弾き飛ばされ、街道に短い空白が生まれる。そこへ後衛が一気に引き、橋板の上を最後の兵が渡り切った。
「橋を落とせ!」
命令と同時に、支柱へ雷が叩き込まれる。
古い木橋が悲鳴のような音を立て、中央から崩れた。渡りかけていた帝国兵が泥水へ落ち、後続が立ち止まる。完全に止めたわけではない。だが、追撃の勢いを削ぐには十分だった。
ようやく、列が生きたまま街道の奥へ逃げていく光景が見えた。
カールはそこで初めて剣先を下ろした。
途端に、右手の感覚が一気に遠のく。指を開こうとしても、意識よりわずかに遅れてしか動かない。呼気は熱く、胸の奥に鉄を飲み込んだような重さが残っていた。
「殿下」
アーロンがすぐ横に来た。
彼は無事だったが、法衣の袖は焼け、頬には浅い切り傷が走っている。後方支援に徹しながら、最後まで列を回したのだろう。
「手を」
「いい」
短く返すと、カールは視線を橋の向こうへやった。
避難民の列はまだ混乱している。泣き崩れる者、地面にへたり込む者、助かった家族を抱き締める者。治療係が駆け回り、兵が名簿代わりの板へ必死に書き付けをしている。助かった者は確かにいる。今ここで落としたくなかった命は、まだ多く残っている。
だが、火の向こうに残した者たちもいた。
アーロンはカールの沈黙を読んだように、すぐには何も言わなかった。
やがて、静かに口を開く。
「中央を抜いていれば、会戦そのものは早く終わったかもしれません」
責めているのではない。確認だった。
「かもしれん」
「ですが、西は落ちていた」
その言葉に、カールはわずかに目を閉じた。
喉の奥が、火を飲み込んだように焼ける。
「そうだ。火の内側は切った」
助かった列は残った。
だが、煙の向こうへ置いてきた声まで消えるわけではない。
「殿下」
アーロンが再び呼ぶ。
「その手は、後で必ず診せてください」
カールは右手を見下ろした。指先にはまだ細い火花が残り、握りを解くたびに鈍い痺れが骨の奥まで走る。大事ではない。少なくとも今は、そう思えた。
「後でいい」
「後で診れば分かります」
そこでアーロンは言葉を切った。戦場の真ん中で、それ以上を口にしても仕方がないと分かっていたのだろう。
カールも続きを求めなかった。
その代わり、避難列の方へ顎を向ける。
「数を取れ。歩ける者と歩けない者を分けろ。家族を探している者は記録を残せ。置いてきた荷のことは後回しだ」
「承知しました」
アーロンが動き出す。
その背を見送り、カールは崩れた橋の前に一人残った。
泥の匂い。焦げた木の匂い。血の生臭さ。遠くから運ばれてくる、かすかな雨の匂い。耳に残るのは勝ち鬨ではない。火の向こうで途切れた声と、こちらを見ていた若い兵の目だった。
カールはゆっくりと息を吐いた。
火の向こうに残した影。
振り返らなかった一瞬。
助けられた命ではなく、選ばなかった方の重さ。
雨粒が一つ、籠手の甲に落ちた。
遅れてもう一つ、肩へ落ちる。
やがて空が切れ、細い雨が戦場全体を濡らし始めた。
熱を持った剣から白い湯気が立つ。指先の痺れはまだ消えない。柄を握るたび、骨の奥で鈍い痛みが返ってくる。
それでもカールは崩れた橋から目を離した。
守れた列は、もう見えないところまで進んでいる。
ならば次は、王都そのものを落とさせない。
どこかでカールは深堀りしておきたいなと思っていたので、いい機会だった。




