第24話 影の中の葛藤
午前の執務室は静かだった。窓辺には春の光が差しているのに、机の上に積まれた報告書はどれも重く見える。税収、辺境の見回り記録、貴族家との婚姻調整、王宮内の人員配置。ヴィクトールは法令集を開いたまま、紙の端へ走らせていた視線を止めた。
昨夜、アルヴィンは王位に興味がないとはっきり言った。あの真っ直ぐな目も、迷いのない声も、偽りには見えなかった。それでも胸の奥のざらつきは消えない。信じたい気持ちと、信じきれば自分の弱さを認めることになるという反発が、まだ互いを引っ張り合っていた。
扉が三度叩かれる。控えめだが、躊躇のない音だった。
「入れ」
入ってきたのはハーゲン侯爵だった。灰色の口髭を整えた老貴族は、いつもは歩幅まで一定なのに、今日は扉を閉める手がわずかに遅い。
「王太子殿下。少々、お耳に入れたいことがございます」
「言え」
ヴィクトールは筆を置いた。紙に落ちた黒いしみがじわりと広がっていく。
「昨夜の祝宴以降、第三王子殿下に関する問い合わせが増えております」
「問い合わせ?」
「ええ。教育課程、訓練記録、近侍の配置、魔力測定の過去推移まで」
胸の奥で何かが冷えた。貴族は好奇心でそこまで調べない。情報を欲しがる時は、必ず次の一手を考えている。
「どこの家だ」
「表立って動いているわけではありませんが、エルデンベルク公爵家に近い面々が中心です」
予想していた名だった。アルヴィンの才能は、あまりに分かりやすい。数字として記録され、祝宴で公に称賛されれば、王位継承へ結びつけたい者が出るのは当然だった。
「長子相続を覆すつもりか」
「そこまで明言する者はおりません」
ハーゲンは低く答えた。
「ですが、口にしない者ほど計算しております。王太子殿下を揺さぶる材料として第三王子殿下を使う。それだけでも十分な圧力になります」
ヴィクトールは椅子の肘掛けを掴んだ。冷えた木の感触が掌に食い込む。昨夜のアルヴィンの言葉を信じたい。だが、貴族たちは本人の意思など考えない。使える札なら勝手に意味を与え、盤上へ乗せる。
「監視を続けろ」
「承知しました」
「それと」
言いかけて、ヴィクトールは一瞬ためらった。自分の口から弟の周辺を洗えと言うのは、あまりにみっともない気がしたからだ。それでも黙っている方が危うい。
「第三王子の側近候補に、どこが接触しているかも拾え。近侍、侍従、家庭教師の周辺を含めてだ」
ハーゲンは一礼したが、その視線の奥に微かな安堵が見えた。主が感情に飲まれず、政治の言葉を返したことへの安堵だろう。その事実が、ヴィクトールには少しだけ苦かった。
侯爵が退室すると、執務室に再び静けさが戻った。だが先ほどまでの静けさとは違う。紙の擦れる音も、窓の外の鳥の声も、全部が遠い。
アルヴィンは王位を望んでいない。それでも、周囲は望ませる形を作ろうとするかもしれない。
そこまで考えたところで、ヴィクトールは自分の思考に苛立った。結局、自分はまだ弟を「脅威」と「家族」のどちらか一つに定められない。昨夜の会話で救われた部分がある一方で、救われた自分を認めたくない部分も残っている。
昼過ぎ、執務を切り上げたヴィクトールは訓練場へ向かった。剣を振れば頭が静かになるかもしれないと思ったし、何より一度自分の目で確かめたかった。噂の中心に置かれている弟が、今どんな顔で木剣を握っているのかを。
訓練場の手前で足が止まる。中ではアルヴィンが一人、踏み込みの練習を繰り返していた。いつもの素振りとは違う。足から腰へ魔力を通し、短く踏み込んで止まり、元の位置へ戻る。動きはまだぎこちないが、体術強化を剣術へ接続しようとしているのが一目で分かった。
六歳にしてここまで来たのか。
認めた瞬間、胸に鈍い痛みが走る。自分も同じ歳に剣を振っていた。だが、ここまで速くはなかった。魔法も剣も、何一つ弟の成長速度には追いつけない。
それでも、視線が離せなかった。踏み込みのたびに足裏で床を探る癖、うまくいかない時に呼吸を整え直す間、成功した時だけわずかに目が明るくなる瞬間。才能だけではない。嫌になるほど努力している。
「兄上」
気づかれていたらしい。アルヴィンが木剣を下ろし、少しだけ緊張した顔でこちらを見る。
「邪魔でしたか」
「いや」
ヴィクトールは訓練場へ入った。踏み入れた石床にはまだ熱が籠もりきっておらず、靴底越しにひんやりしている。
「そのまま続けろ、と言いたいところだが、少し話したい」
「はい」
アルヴィンは素直に木剣を抱えたまま近づいてきた。その従順さが、今はむしろ痛い。自分がどれだけ距離を作っても、弟は正面から向き合おうとする。
二人は訓練場の端の石段へ腰を下ろした。吹き抜ける風が乾いた砂の匂いを運び、少し遅れて金属のぶつかる音が遠くの鍛錬場から届く。
「昨夜、お前は王位に興味がないと言った」
「はい」
「その答えは覚えている」
ヴィクトールはそこでいったん言葉を切った。昨夜と同じ問いを繰り返したいわけではない。知りたいのは、その先だった。
「だが、貴族どもは覚えない」
アルヴィンの目がわずかに見開かれる。
「第三王子を担ごうという動きが出ている。お前の意思とは関係なくな」
驚きはあったが、取り乱しはしない。アルヴィンは視線を落とし、短く息を吸った。
「ぼくを、ですか」
「才能は札になる。あいつらにとっては、それだけで十分らしい」
吐き捨てるような声になった。自分でも抑えきれていないのが分かる。
「だから聞く。もし、お前を推そうとする者が現れたらどうする」
アルヴィンはすぐには答えなかった。考えているというより、言葉を雑に選ばないようにしている沈黙だった。
「断ります」
声は小さいが、揺れていない。
「ぼくは兄上と争うつもりはありません」
「それで済むほど簡単じゃない」
「分かっています」
アルヴィンは顔を上げた。
「でも、だから断ります。黙っていたら、ぼくの沈黙まで勝手に意味をつけられるから」
その返答に、ヴィクトールは一瞬だけ言葉を失った。六歳の弟が、そこまで政治の面倒くささを理解している。その事実が頼もしくもあり、また苦くもある。
「なぜそこまでする」
「兄上を困らせたくないからです」
「それだけか」
少し意地の悪い聞き方になった。だがアルヴィンは怯まず、まっすぐに返してくる。
「それだけじゃありません。兄上が王になるために積み重ねてきたものを、ぼくは知っています」
知っているはずがない。そう反射的に言い返しかけて、ヴィクトールは飲み込んだ。アルヴィンは見ている。見て、考えて、言葉にしている。それはもう昨夜の会話で思い知らされたことだった。
「才能だけで王になれるわけじゃないです。王宮で暮らしていると、それはよく分かります」
「お前に、何が」
「全部は分かりません」
アルヴィンはそこで一歩も引かなかった。
「でも、兄上がずっと重いものを背負っていることは分かります。ぼくは、その重さを増やす側に回りたくありません」
胸の奥に、熱いものが差し込んでくる。慰められているのか、責められているのか、一瞬分からなかった。たぶん両方ではない。もっと厄介な何かだ。自分が欲しかった言葉であり、同時に聞きたくなかった言葉。
「お前は本当に」
唇の内側を噛む。吐き出したい感情が多すぎて、どの順番で言えばいいのか分からない。
「ずるい」
アルヴィンが息を呑んだ。
「そんな風に言われたら、俺の醜さばかりが目立つ」
ヴィクトールは拳を握った。爪が掌へ食い込む痛みで、なんとか声の震えを抑える。
「俺はお前に感謝している部分がある。昨夜も、お前の言葉に救われた」
そこまで口にしてしまうと、もう止まらなかった。
「だが同時に、失敗してくれればいいと思う瞬間がある。少しでもつまずけば、俺は安心できるんじゃないかと考えてしまう」
言い終えた直後、自分で自分が嫌になった。十五にもなって、六歳の弟に吐くにはあまりに情けない本音だった。
しかしアルヴィンは目を逸らさなかった。驚いてはいたが、嫌悪は浮かべない。静かに受け止め、言葉を探している顔だった。
「兄上がそう思ってしまうのは、兄上が悪いからじゃないと思います」
予想していた慰めとは違う返答だった。ヴィクトールは眉を寄せる。
「重いものを背負って、その上でぼくみたいな弟がいたら、苦しくて当たり前です」
「当たり前で済ませるな」
声が少し強くなる。
「俺は王になる人間だ。弟に嫉妬して、失敗を願うような男でいいはずがない」
アルヴィンは怯まず、ただ小さく頷いた。
「だから苦しいんですよね」
その一言が、妙に深く刺さった。正論でも説教でもない。ただ核心だけを静かに置かれた感覚だった。
沈黙が落ちる。風が石段の角を撫で、乾いた砂をかすかに転がした。
先に口を開いたのはヴィクトールだった。
「すぐには割り切れない」
「はい」
「昨夜よりは、お前のことを信じたいと思っている。だが、思った瞬間に全部が消えるわけじゃない」
「分かります」
「分かるな」
自嘲気味にそう言うと、アルヴィンは少し困ったように、それでも真面目に答えた。
「分からない部分もあります。でも、待つことはできます」
ヴィクトールは目を閉じた。優しさが時に残酷なのは、こういう時だ。突き放してくれた方が楽なのに、弟は待つと言う。敵になれない。
「時間をくれ」
「はい」
「それと」
言いよどみかけて、結局口にした。
「体術強化の練習、やりすぎるな。足運びが乱れると膝を痛める」
アルヴィンがきょとんとした顔になる。しまった、と思ったが、もう遅い。
「さっきの踏み込み、左に荷重が寄っていた」
慌てて補足すると、アルヴィンは素直に自分の足元を見た。
「気づいていませんでした」
「レオナルドにも見てもらえ。無茶をして訓練を止めたら、それこそ周りを喜ばせるだけだ」
自分でもひどく不器用な言い方だと思う。だが、今の自分にはこれが精一杯だった。
「ありがとうございます」
その礼がまぶしくて、ヴィクトールは立ち上がった。
「礼を言われる筋合いはない」
そう言い残し、訓練場の出口へ向かう。背中に弟の視線を感じたが、振り返らなかった。今振り返れば、せっかく繋いだ均衡が崩れそうだった。
数日後。アルヴィンは図書室へ向かう途中、医務室の前で足を止めた。扉が半開きになっていて、中から侍従と侍女の小声が漏れてきたからだ。
「だから、第三王子殿下の訓練後の脈と睡眠記録も、今後は王太子殿下の執務室へ回すようにって」
「王太子殿下が? あの方、自分で確認なさるの?」
「少なくとも先日は宮廷医師に細かく聞いていたわ。体術強化を始めたばかりだから、膝と腰を痛めやすいって」
アルヴィンは本棚の陰で息を止めた。聞き間違いではない。侍従たちはそれ以上深い話はせず、すぐに別の話題へ移ったが、もう十分だった。
兄上が、体調記録を。
訓練場でのぎこちない忠告が脳裏によみがえる。無茶をするな。膝を痛める。あれはただの場当たり的な言葉ではなかったのだ。
廊下の窓から入る風はまだ少し冷たいのに、胸の内側だけが不思議と温かかった。距離はまだある。嫉妬も疑念も消えていない。それでも、見えないところで気にかけてくれている。その事実は、兄弟の間に残された細い糸のように思えた。
アルヴィンは扉の前を静かに通り過ぎる。今すぐ礼を言いに行くことはしない。たぶん、それはまだ違う。
でも待てる。
石床に落ちた自分の足音を聞きながら、アルヴィンはそう思った。影の中にあるものが全部敵意ではないのなら、急がず手を伸ばせばいい。切れずに残っているものを、今度こそ大事に拾い上げるために。




