第23話 兄との剣
D級到達の翌朝、王宮の訓練場には昨夜の祝宴とは別の静けさが満ちていた。石畳には朝露の冷たさが残り、東の回廊から差し込む光が細長い帯になって伸びている。アルヴィンは木剣を抱えてその光の上を歩きながら、胸の奥にまだ残るざわめきをやり過ごしていた。
六歳でD級。昨日はその言葉を何度も聞かされた。驚きも称賛も悪意も、全部ひとまとめにして大広間の空気へ溶かしたような夜だったが、朝になると残ったのは身体の軽い疲れと、いつもの訓練に向かえる安堵だけだった。
訓練場の中央では、すでにレオナルドが木剣を振っていた。踏み込みに合わせて乾いた音が走り、振り抜くたびに風が袖を鳴らす。大振りに見えて軸がぶれず、力強いのに乱れがない。何度見ても、剣を振る兄の姿には迷いがなかった。
「おう、来たか」
レオナルドはアルヴィンに気づくと、額の汗を腕でぬぐって笑った。
「改めておめでとうだ。昨夜は人が多すぎて、ゆっくり言えなかったからな」
「ありがとうございます」
「その顔だと、褒められ慣れてないな」
「褒められるより、見られすぎる方が疲れます」
そう答えると、レオナルドは声を上げて笑った。笑い声は高い天井に反射して気持ちよく広がり、昨夜のべたつく拍手よりずっと胸に馴染んだ。
「分かる。でも今日は人目なんて気にしなくていい。俺しかいないからな」
木剣を一本放ってよこされる。受け取ると、掌にしっとりとした革巻きの感触が残った。
「じゃあ始めるぞ。昨日騒がれた分まで、今日は地味に積み上げる」
基本の型から始まった。踏み込み、斬り下ろし、受け流し、下がりながらの切り返し。アルヴィンが一つ動くたびに、レオナルドの指摘がすぐ飛ぶ。肘が開きすぎる、右足が半歩深い、肩に力が乗ると次の動きが遅れる。言われた通りに修正すると、木剣の軌道が少しだけ滑らかになった。
石畳を蹴る足裏の衝撃。柄を握る手の汗。刃筋が合った瞬間に腕へ返ってくる小さな手応え。剣術は魔法より露骨だった。誤魔化しが利かず、身体ができていない部分をすぐに突きつけてくる。
「今のは良かった」
受け流しのあと、斜め前へ滑り込む動きで初めてレオナルドが即座に褒めた。
「目線がぶれなかった。相手の剣だけ見るな。肩と腰も見ろ。動き出しが先に出る」
「はい」
「剣ってのは、振る前から始まってるんだ」
その言葉は妙に腑に落ちた。魔法でも同じだ。発動した現象より、そこへ至る流れを捉えた方が制御しやすい。アルヴィンは頷き、もう一度同じ型を繰り返した。さっきより木剣が軽く感じる。
一時間ほど続けると、呼吸の熱が喉に張りつき、汗が背に流れた。休憩の合図で木陰へ移動し、水差しから杯に注いだ水を飲む。金属の縁がひんやりと唇に触れ、乾いた身体へ冷たさが落ちていく。
「ここまではいつも通りだ」
レオナルドは壁にもたれ、少しだけ真面目な顔になった。
「今日から一歩進める。魔導剣術の入口だ」
アルヴィンは杯を置いた。胸の奥がわずかに跳ねる。
「体術強化ですか」
「そう。剣を速くするんじゃない。まず自分の身体を、剣を振れる形に引き上げる」
レオナルドは訓練場の中央へ戻り、木剣を肩へ担いだ。
「見てろ。足、腰、背中、腕の順で通す。最初から全身を光らせようとするな」
吸い込んだ息に合わせて、兄の周囲の空気がぴんと張る。次の瞬間、淡い青白い光が脛から腿へ立ち上がり、腰を通って肩へ走った。火のように派手ではないが、熱を帯びた圧が確かにそこにある。石畳を蹴る一歩が爆ぜるように速く、斬撃が空気を裂いた。遅れて頬に風圧が届き、アルヴィンは思わず目を細める。
「すごい」
「派手に見えるけど、やってることは地味だぞ」
レオナルドは木剣を下ろし、ふっと力を抜いた。光が消えると、訓練場にいつもの朝の空気が戻る。
「魔力を増やすんじゃない。流す場所を絞るんだ。必要な筋肉にだけ通せば、動きは勝手に変わる」
「魔法陣なしで、ですか」
「近接ではその方が早い。考える前に動かなきゃいけないからな」
前世の知識でいえば、出力の問題ではなく伝達効率の問題に近い。アルヴィンは頭の中で言い換えながらも、その理屈をそのまま口には出さなかった。今必要なのは理解の誇示ではなく、実際に身体で掴むことだ。
「やってみろ」
木剣を構える。魔力核から魔力を引き出し、まずふくらはぎへ落とす。そこから腿、腰、背中。順に通していくつもりが、途中で意識が腕へ飛び、流れが散った。身体は軽くなったのに、足元だけが地面から浮いたように頼りない。
「止まれ」
レオナルドの声が飛ぶ。アルヴィンが一歩出した瞬間、前へつんのめりそうになった身体を兄の手が横から支えた。
「今のは速さを欲張りすぎだ。先に土台を作れ」
「すみません」
「謝るより覚えろ。転ばなかったんだから一回目としては上出来だ」
肩を軽く叩かれる。体温の高い手だった。
「魔力が先に走ると、体が置いていかれる。お前、頭の中ではもう十歩先まで組んでるだろ」
図星だった。成功した状態を先回りで想像し、その形へ一気に届こうとしていた。
「まず一歩だけでいい。踏み込みの終わりで止まれ。剣は振らなくていい」
言われた通り、今度は足から順に魔力を通す。膝の裏がじんわり熱くなり、腰の奥に芯が通る。そこから肩甲骨の間がゆるくほどけ、重心がすっと前へ移った。踏み込みはまだぎこちないが、今度は転ばない。
「そう、それだ」
レオナルドの声が少し低くなる。指導というより、並走するような声音だった。
「次は戻るところまで。出られても、戻れなきゃ戦えない」
踏み込み、止まる、戻る。踏み込み、止まる、戻る。単純な三手を繰り返すだけなのに、ふくらはぎから足裏へ細かな震えが溜まっていく。三回目で踵が滑り、四回目で重心がぶれ、五回目でようやくまっすぐ戻れた。
呼吸が荒くなる。魔法の訓練とは違う疲労だった。身体の奥に熱が籠り、筋肉の位置を一つずつ自覚させられる。
「もう一回」
アルヴィンは歯を食いしばらずに息を整えた。焦ると流れが乱れる。踏み込みの長さを欲張らず、足裏で床をつかむ。そう決めて魔力を通すと、今度は腰が勝手に前へ流れ、木剣を持つ腕まで動きがつながった。剣先がぶれず、着地の衝撃も軽い。
「できました」
思わず声に出る。
「ああ。今のはよかった」
レオナルドは満足そうに頷いたが、すぐに笑って付け加えた。
「でも今日の合格点はそこまでだ。調子に乗って斬り込みまでやると、たぶん派手に転ぶ」
その言い方が妙に具体的で、アルヴィンは小さく笑った。
「兄上も転んだんですか」
「何回もな。父上の前で盛大に」
「見てみたかったです」
「絶対見せたくないやつだ」
笑い合うと、訓練場の空気が少し軽くなった。昨日までの張りつめた評価やざわめきが、この場では関係ないものになる。アルヴィンはそれが嬉しかった。
二度目の休憩で、二人は壁際の長椅子に腰を下ろした。春の風が汗を冷やし、遠くの厨房から焼いたパンの匂いが運ばれてくる。訓練場では侍従が木剣を片づける乾いた音が響き、午前の終わりを知らせていた。
「なあ、アルヴィン」
レオナルドは杯の水を飲み干し、空を見上げたまま言った。
「お前、強くなった先で何をしたい」
前世なら、もっと効率のいい術式を作るとか、未知の理論に届くとか、そういう答えを真っ先に口にしただろう。だが今の自分の中で最初に浮かんだのは別の顔だった。母、父、兄たち、そして少し離れた場所で手紙を書いているだろう少女。
「守りたい人がいます」
レオナルドは視線だけこちらへ寄越す。
「家族です。まだ自分でもうまく言えませんけど、守れる力がほしいです」
「それで十分だ」
兄の返事は早かった。
「剣なんて理由がないと続かない。強くなりたい、だけでも嘘じゃないけど、それだけだと苦しくなった時に折れる」
木剣の切っ先で石床を軽く叩きながら、レオナルドは続ける。
「俺が剣を好きなのは、前に立てるからだ。怖がってる誰かの前に出て、そこで踏みとどまれる。そういう力がほしい」
「兄上らしいです」
「らしいって何だよ」
「まっすぐです」
そう言うと、レオナルドは少し照れたように鼻を鳴らした。
「剣は人を倒すための道具でもある。でも、それだけだと長く持たない。守る相手を見失った剣は、どこかで鈍る」
その言葉は、単なる綺麗事には聞こえなかった。日々訓練を積み、騎士として育とうとしている兄の実感が乗っているからだろう。アルヴィンは木剣の柄を見下ろし、自分が握っているものの重さを改めて考えた。
「ヴィクトール兄上も、守るために頑張っているんですよね」
口にした瞬間、レオナルドの表情が少しだけ引き締まる。風が止み、訓練場の音だけが一瞬ぶん遠くなった気がした。
「ああ」
短く返したあと、兄は言葉を選ぶように間を置いた。
「ヴィクはずっと前から、王になるための勉強と訓練を背負ってる。俺みたいに好きなものだけ追うわけにはいかない」
レオナルドは笑ったが、その笑みはすぐに消えた。
「しかも、お前がいる。才能だけなら王宮で一番目立つ弟が」
胸の奥がきゅっと縮む。分かっていたことなのに、人の口からはっきり言われると重い。
「ぼくは、兄上を困らせたいわけじゃありません」
「知ってるよ」
レオナルドは即答した。
「だからヴィクも余計にしんどいんだ。敵なら怒ればいい。でもお前は違う。まっすぐで、変に媚びないくせに、ちゃんと兄として立てようとする」
慰めるような声音ではなかった。事実を並べる声音だったからこそ、逃げずに聞けた。
「じゃあ、ぼくはどうしたらいいんでしょう」
問いは自然に零れた。才能を隠すことはできない。目立てば兄を追い詰めるかもしれない。引けば、かえって不自然になる。どちらに動いても角が立つように思えた。
レオナルドは長椅子から立ち上がり、アルヴィンの前に回った。そして屈んで視線を合わせる。
「逃げるな」
金色の瞳がまっすぐこちらを見る。
「隠して丸く収めようとするな。お前が力を抑えたって、周りは勝手に意味をつける。それなら、ちゃんと強くなって、ちゃんとどう使うかを見せろ」
「でも、それでヴィクトール兄上が」
「傷つくことはある」
言葉を濁さず、レオナルドはそう言った。
「でもそれは、お前が悪いって意味じゃない。ヴィクにはヴィクが越える壁があるし、お前にはお前の役目がある」
大きな手がアルヴィンの頭に置かれる。乱暴ではないが、迷いのない重みだった。
「お前はお前の道を行け。俺はそう思う」
胸の奥に、熱いものがじわりと広がった。背中を押される感覚に似ている。ただ前へ突き飛ばされるのではなく、転ばないように支えたうえで押してくれる力だ。
「ヴィクトール兄上は、いつか分かってくれるでしょうか」
「すぐじゃなくても、な」
レオナルドは笑い、肩をすくめた。
「あいつ、頑固だから時間はかかる。でもお前が王位を狙ってないことも、兄として立ててることも、見てないわけじゃない」
「見ている、ですか」
「ああ。あいつはあいつで、思ってるよりずっと周りを見てる」
その言い方には含みがあったが、深追いはしなかった。今はそれだけで十分だった。少なくとも、ヴィクトールが自分をただ嫌っているだけではないかもしれない。そう思えるだけで、胸の重さが少し軽くなる。
「兄弟なんだから、急がなくていい。切れなきゃそのうち繋がる」
乱暴なようでいて、レオナルドらしい励ましだった。
「はい」
「よし」
兄は満足そうに頷き、訓練場の中央を顎で示す。
「じゃあ最後にさっきの踏み込みを三本だけやるぞ。気持ちを整えた後に同じ動きができるか、それが大事だ」
訓練の締めは静かだった。魔力を足から腰へ通し、一歩前へ出て止まり、戻る。さっきより確かに身体が応えてくれる。技巧としてはまだ入口だが、今までの剣術訓練と魔法の基礎が一本につながった感触があった。
三本目を終えたところで、レオナルドが手を打った。
「今日はそこまで。初日にしては十分すぎる」
「ありがとうございました」
「次は剣を振るところまでやる。その前に足を慣らしとけ」
訓練場を出る頃には、太陽はすっかり高く昇っていた。石壁に反射した光が眩しく、汗の引いた肌に風が心地いい。アルヴィンは木剣を抱え直しながら、胸の中でそっと言葉を確かめた。
強くなる。自分のためだけではなく、大切な人たちの前に立つために。ヴィクトールの苦しみから目を逸らさず、レオナルドのまっすぐさにも甘えすぎず、自分の足でそこへ届くために。
回廊の角で振り返ると、訓練場にはまだレオナルドが残っていた。兄は片づけに入った侍従へ軽く手を振ったあと、一人で木剣を肩に乗せる。
ヴィクもアルヴィンも、どっちも大事だ。
胸の内でそう呟き、レオナルドは小さく息を吐いた。真ん中にいる自分だから見えるものがあるなら、見ているだけでは終わらせたくない。次に二人がぶつかる時は、少しでも言葉が届くようにしてやろう。




