第22話 新たな高みへ
初めての実戦から一ヶ月が経った。
あの日を境に、訓練への取り組みは変わった。理論だけでは足りないと、アルヴィンはあの森で嫌というほど思い知っている。爪が迫ってきた瞬間、体が勝手に動いたからこそ助かった。だが次も同じように切り抜けられる保証はない。実戦で確実に使える力が要る。
火と風を編んだフレアサイクロンが標的を焼き、弾けた熱が訓練場にこもる。石畳に残った熱はブーツ越しにも足裏へ伝わり、アルヴィンは間を置かず次の術式へ移った。
水と風のフロストゲイルが熱気を裂き、白い霧を散らす。続けて放った土と火のマグマバーストが別の標的を焦がしても、魔力の流れは崩れない。複合魔法はどれも以前より安定し、威力も増していた。
だが二属性の複合に慣れてくると、その先を試したくなる。火と風と土を一度に編み上げる、三属性の同時制御だ。理論上は可能なはずだったし、前世で学んだ多変数制御の考え方を応用すれば、三つの魔力流も同時に安定させられると踏んでいた。
右手に火、左手に風、足元に土へ意識を落とし、三つの魔力を同時に集中させる。だが三つ目の土の魔力を加えた瞬間、全体の均衡があっけなく崩れた。火と風が噛み合わないまま暴走し、術式が弾ける。撥ね返った衝撃が手首を打ち、指先が痺れた。
「三属性の同時制御はまだ早うございます」
アーロンが穏やかに制した。白い髭を撫でながらも、目は鋭い。
「二属性複合の精度を完璧にしてから進むべきですな。焦りは禁物です」
「はい」
素直に頷いた。理論と実践は違う。前世の知識で構造は見えていても、この体の魔力制御はまだそこまで追いついていない。二つの魔力流を同時に操るのと、三つを崩さず束ねるのとでは難易度が段違いだった。あの日、ゴブリンに向けた一撃は咄嗟に放った二属性複合にすぎない。三属性はまだ先だ。
痺れた右手を振り、指先に感覚が戻ってくるのを待ちながら深呼吸した。失敗の原因は分かっている。三つ目を加える瞬間に最初の二つへの集中が途切れるのだ。同時制御ではなく順次制御で三つを維持する方法もあるかもしれないが、それは今日の課題ではなかった。
再び二属性に集中し、フレアサイクロンを五連続で放つ。一発目、二発目、三発目は狙い通りだったが、着弾のたびに熱風が頬を叩き、焦げた煙が立ち昇った。四発目で僅かに制御が乱れ、標的の横を逸れる。唇を噛み、五発目は深呼吸してから放った。今度は正確に中心を捉え、標的が砕けた。
水筒の水で喉を潤すと、冷たさが乾いた喉に染み渡った。ここ一ヶ月で命中率は目に見えて上がっていたし、実戦の恐怖が集中力を研ぎ澄ませたのだろう。だが満足はしていない。三属性の壁がある限り、まだ先がある。
「ですが」
アーロンの目が細くなった。感嘆が混じっている。
「実戦を経験されてから、二属性複合の精度は格段に上がりましたな。迷いがなくなった」
アルヴィンは手のひらを見つめた。守るための力であり、同時に命を奪う覚悟を伴う力でもあると、今は理解していた。
焦げた石の匂いが訓練場に漂っている。アーロンが咳払いをした。
「殿下、そろそろ定期測定の時期です」
「定期測定ですか」
「はい。王族は定期的に魔力ランクを測定することになっております。前回は三歳の時でしたな」
三年前のことを思い出す。あの時はE級だった。三年間の訓練でどれだけ成長できたのだろう。胸の奥が落ち着かず、アルヴィンは息を細く吐いた。
「分かりました」
数日後、王宮の魔力測定室に家族全員が集まっていた。
父カールが腕を組んで壁際に立ち、母エリザベスが椅子に腰を下ろしている。手元のハンカチを畳んだり広げたりする仕草に、落ち着かない気持ちが見えた。長兄ヴィクトールは父の隣で背筋を伸ばし、次兄レオナルドは落ち着きなく足を組み替えている。
石造りの測定室は薄暗く、壁面の魔導灯が青白い光を放っている。魔導具の微かな駆動音が低く響き、冷たい空気が肌に張り付いた。天井が高く、声が反響する。部屋の奥にはアーロンの他にも二人の魔導師が控えていて、羊皮紙と羽根ペンを構えて記録の準備をしていた。
「殿下、こちらへ」
アーロンが測定器の前に案内する。透明な水晶球が台座に据えられていた。三年前、E級と判定されたあの球だ。手を伸ばすと冷たく滑らかな感触が指先に伝わる。
この一ヶ月で魔力の流れは確かに滑らかになった。その感触がどこまで数値に表れるのかと思い、アルヴィンは深呼吸して心を落ち着けた。
水晶球に、そっと触れた。
指先を通して魔力が引き出されていく。三年前とは比べものにならない量だ。体の奥底から湧き上がる力が水晶球に流れ込み、腕全体が微かに震えた。こめかみが脈打ち、額に汗が浮かぶ。
光が溢れた。
青白いまばゆい輝きが波紋のように広がり、前回をはるかに凌ぐ強さで部屋全体を照らしていく。アーロンの目が見開かれ、魔導師たちがざわめいた。驚きと畏怖が入り混じった声があちこちから聞こえ、家族の表情が白い光の中に浮かび上がる。
やがて光が収まった。アーロンが測定結果を確認する。長年魔導師を務めてきた老人の顔に、信じがたいものを見たような色が浮かんだ。
深く息を吸ってから口を開く。部屋中の視線がアルヴィンに集まり、誰もが息を飲んで次の言葉を待っていた。
「アルヴィン殿下の魔力ランク」
わずかな間。
「D級です」
測定室が静まり返った。
通常は十歳前後で到達するD級に、六歳で届いたのだと理解した瞬間、アルヴィン自身にもようやく驚きが追いついた。喉の奥がわずかに詰まり、息を吸い直す。三属性はまだ形にならないままなのに、二属性を積み重ねただけでここまで来たのか。
水晶球から手を離しても、指先にはまだ魔力の余韻が残っていた。記録係の魔導師たちが顔を見合わせ、慌ただしく羽根ペンを走らせ始める。
最初に沈黙を破ったのはレオナルドだった。弟の肩を掴んで揺さぶる。
「お前、化け物か!」
レオナルドの顔には満面の笑みが広がり、目が輝いていた。大きな手がバシバシと背中を叩く。十二歳の兄の力は容赦がなく、体が前のめりになるほどだったが、その勢いにようやく実感が追いついてくる。
「すげぇよ、アルヴィン! 俺の弟がこんなに強いなんてな!」
だが、その騒ぎの横でヴィクトールは杯に視線を落としたまま黙っていた。測定前から手にしていた水を一口も飲まずに持ち続けている。指先が白くなるほど強く握りしめているのが見えた。
やがて、ようやく口を開く。
「おめでとう、アルヴィン」
声は硬く、笑顔を作ろうとしても作りきれていない。祝う言葉を口にしながら、指先だけがまだ杯を強く掴んでいる。その横顔を見た途端、さっきまで浮いていた気持ちがすっと静まった。
そこへ母エリザベスが息子を抱きしめた。温かく柔らかな腕の中で、母の心臓が速く鳴っているのが聞こえる。
「すごいわ、本当に」
涙声だった。頬を伝う涙がアルヴィンの髪に落ちる。
「アルヴィンは私の誇りよ」
髪に落ちた涙の温度で、張り詰めていた肩の力が少し抜けた。
父カールは少し離れた位置で静かに微笑んでいた。
「順調だな」
短い一言だったが、その目には確かな誇りがあった。大きな手がアルヴィンの肩に置かれる。温かく、重い。
「このペースなら、十歳までにC級に届くかもしれん」
「頑張ります」
「ああ。だが無理はするな」
ゆっくりと肩を叩く手は、祝うより先に止めることを忘れていなかった。無理はするな。その一言に、雷帝伝説で語られた力の代償への戒めが重なる。
測定室を出ると、廊下に貴族たちが集まっていた。測定の結果を待っていたのだ。扉が開いた瞬間、何十もの視線が一斉にアルヴィンへ注がれた。
「第三王子がD級だと」
「六歳で? 信じられん」
噂はたちまち広がり、ざわめきが廊下中に響いた。石壁に反響する声がやけに大きく、貴族たちの視線が肌を刺すように痛い。
思わず母の服を掴みそうになったが、アルヴィンは指先を握り込んで堪えた。背筋を伸ばして前を向く。笑顔で近づいてくる貴族もいれば、遠巻きに眺めている者もいる。その温度差が、妙に居心地悪かった。
その夜、王宮の大広間で小さな祝宴が開かれた。
アルヴィンのD級到達を祝うために開かれた宴だったが、広間の熱は祝辞だけで生まれているわけではない。シャンデリアの輝きが華やかな衣装を照らし、楽団の弦楽が壁に反響している。料理の香りと蝋燭の甘い匂いが混じり合う中で、人の流れだけが絶えず形を変えていた。
グラスを手に壁際を歩いた。長卓には焼き菓子や果実が山のように盛られ、給仕が忙しく行き交っている。
すれ違う貴族たちは皆、にこやかに会釈を向けてきた。アルヴィンも小さく礼を返す。だが顔を上げるたび、笑みより先に視線の重さが残った。六歳の子供を見る目ではない。
——まただ。
果汁の入ったグラスを持ち直す。笑顔の裏で何を求めているのかまでは読めない。その見え切らなさが、かえって落ち着かなかった。
音楽に紛れて聞こえてくるのは、貴族たちの囁きと思惑だった。
初老の貴族が近づいてきて、深々と頭を下げた。見覚えのない顔だ。
「殿下、お祝い申し上げます。六歳でD級とは、まさに天賦の才。我が領地の魔導学校にもぜひ足をお運びいただきたい」
「ありがとうございます」
礼を返す。だが貴族は去り際にちらりとヴィクトールの方を見て、意味深な笑みを浮かべた。
「第三王子の才能は素晴らしい。将来が楽しみですな」
「いずれはS級に到達するかもしれません」
次々と祝辞が述べられる。丁寧な言葉が重なるたび、誰がアルヴィンに近づき、誰がヴィクトールから距離を取るのかまで見えてしまった。喉の奥が乾き、甘い果汁が少しも喉を潤してくれない。
言葉は耳に入る。だが、そのひとつひとつが何を意味するのかまでは、まだ掴みきれなかった。
「第三王子を我が派閥に引き入れるべきだ」
「第三王子が次期国王に相応しいのでは」
「才能で言えば確かに。だが長兄がおられる」
「才能と継承順は別だろう」
壁際に立ったまま、その会話を聞いていた。果汁の入ったグラスを持つ手に、じわりと力が入る。冷えた硝子が指に食い込む感触で、ようやく自分が力んでいると気づいた。
ただ強くなりたいだけなのに、と唇の裏で呟いた。魔法をもっと深く理解したいだけだ。それなのに、貴族たちの囁きはいつの間にかヴィクトールへ向かう視線まで変えていた。そう気づいた途端、広間の空気が急に重くなった。
ふと、広間の反対側でヴィクトールが一人で立っているのが見えた。周囲の貴族たちがあからさまにこちら側に集まっている。長兄の杯を持つ手が、わずかに震えていた。
居心地の悪さに耐えきれず、バルコニーへ逃げ出した。
冷たい夜風が頬を撫で、ようやく息ができる気がした。広間から離れるだけで肩の力が抜けていく。星空が澄み渡り、無数の星が瞬いている。庭園の木々がざわめき、どこかで夜鳥が一声鳴いた。手すりに手を置くと、冷たい石の感触が手のひらに伝わった。
「一人か」
声がして振り返ると、ヴィクトールが扉にもたれて立っていた。手には何も持っていない。広間の杯は置いてきたらしい。月明かりに照らされた横顔は、測定室での硬さが少し和らいでいる。
「兄上」
「祝宴、抜け出したのか」
「はい」
ヴィクトールが隣に立った。肩が触れそうなほど近い距離だ。長兄の衣服から、祝宴の料理と蝋燭の匂いがかすかに漂ってくる。しばらく二人とも黙って星空を見上げていた。冷たい空気を深く吸い込むと、広間の熱気と香水の匂いが洗い流されていく。遠くで楽団の音色がかすかに風に乗って届いてくる。
「アルヴィン。王位に興味はあるか」
直球だった。広間であれだけの囁きを聞けば、この質問は当然だろう。
即答した。迷いなど微塵もない。
「王位を望んだことはありません」
ヴィクトールの肩から力が抜けた。長く止めていた息を吐くように、張り詰めていた何かがふっと解けた。
「ならいい」
「父上のような王には憧れています。でも、兄上を押しのけてまで王になりたいわけじゃないです」
「ただ、守るために強くなりたいんです」
「そうか」
ヴィクトールが空を見上げた。月明かりを受けた横顔は静かだったが、言葉を探すように喉がわずかに動いた。
「私は次期国王だ。それは変わらない。才能でアルヴィンに劣っても、王としての資質は私にある」
その言葉は自分に言い聞かせているようだった。手すりを掴む拳が白くなっている。月明かりの下で見える長兄の横顔は、いつもより少し幼い。それでも十五歳にして、もう王位の重さを背負っていた。
「はい。兄上は立派な王になります」
ヴィクトールが弟を見た。目にわずかな疑いが浮かぶ。
「本気でそう思っているのか」
「本気です」
アルヴィンの目は真剣だった。
「兄上は責任感が強くて、民のことを想っている。それは父上から受け継いだものです。王に必要なのは魔法の才能じゃありません」
ヴィクトールの表情が変わった。少しだけ柔らかくなり、長く張り詰めていた緊張がほどけていくのが分かる。やがて小さく笑った。それはアルヴィンが初めて見る、兄の本当の笑顔だった。
「意外といいこと言うな」
ヴィクトールがアルヴィンの頭を撫でた。大きな手は温かく、その感触に前世では知らなかった兄弟の近さが胸の奥へじわりと広がっていく。
「ありがとう、アルヴィン」
「兄上こそ。ぼくは兄上を支えます。魔法で」
ヴィクトールが目を見開いた。それから、ふっと笑った。
「アルヴィンが王位に興味がないなら、私は安心して王を目指せる。魔法で支えてくれるなら、なおさらだ」
微笑むヴィクトールの横顔に、星明かりが柔らかく降り注いでいた。さっきまで張り詰めていた空気が嘘のように軽い。
その後、二人は並んで星を見ていた。言葉はなかったが、沈黙は不思議と心地よい。庭園から花の香りが風に乗って届き、いつもは距離のあった長兄と三男のあいだに、今夜はほんの少しだけ近さが生まれている気がした。
祝宴が終わり、王宮に静寂が戻った深夜。広間の片づけをする使用人たちの足音が、遠くでかすかに聞こえている。
カールは執務室で一人、窓の外を見ていた。月明かりが王都を照らし、通りに人の姿はない。机の上の蝋燭が小さく揺れ、革と紙の匂いが薄暗い部屋に漂っている。
「D級か」
呟いたあとも、カールはしばらく窓硝子に映る月明かりを眺めていた。指先が机の縁をなぞり、硬い木の感触でようやく意識が今いる部屋へ戻る。測定室で水晶球が放った光が、まだ目の奥に残っている。六歳でD級。その響きは誇らしい。だが胸の奥には、鈍いものも残っていた。
このままいけば、十歳でC級どころかそれ以上に届くかもしれない。そう思った瞬間、脳裏に蘇ったのは栄光よりも、兵たちが一歩引いたあの冷えた目だった。強すぎる力は、持つ者を周囲から切り離す。
初陣で雷魔法を放った時、敵兵だけでなく味方の馬まで暴れ出した。副官の顔に浮かんだのは畏敬ではなく、純粋な恐怖だった。戦が終わっても天幕を訪れる者はなく、一人で冷えた食事を口に運んだ。あの孤独を、息子にも味わわせてしまうのではないか。
そして今夜、祝宴で見た貴族たちの動き。アルヴィンに群がり、ヴィクトールから離れていく。あの構図は危険だ。兄弟の間に楔を打ち込もうとする者が必ず現れる。
手のひらを見つめた。かつて雷を宿したこの手が、かすかに震えている。
「お前はどこまで行くのだろうな」
答えはない。ただ見守るしかなかった。父として、王として、そして同じ道を歩んだ者として。力を持つ者の孤独を知っているからこそ、息子のそばにいてやりたい。
だが一つだけ確かなことがある。今夜、バルコニーで兄弟が並んでいるのを遠くから見た。あの二人の間に、少しだけ橋がかかった気がした。それが救いだった。
カールは深く息を吐き、窓の外に目を戻した。月に照らされた王都が、静かに眠っている。




