第21話 初めての血
それは何の変哲もない午後だった。
アルヴィン六歳の春。暖かな日差しが木々の間から差し込み、新緑の匂いが風に混じっている。王宮近郊の森を散策していた。護衛の騎士が二人、鎧の金属音をリズミカルに響かせながら後ろに付いている。
魔法の訓練の息抜きに、自然の中を歩く。母の提案だった。
「たまには外の空気を吸いなさい。勉強ばかりでは体に毒よ」
そう言われて出かけてきたが、確かに気持ちがいい。鳥の囀りが枝の間を行き交い、柔らかい土を踏む感触が足裏に心地よい。木漏れ日が揺れるたびに、森の底まで光が届いた。枝を渡るリスが一匹、こちらを見てから慌てて幹の裏側に消えていった。
小川のせせらぎが近くで聞こえる。水が石を叩く軽い音が、風に混じって届いてくる。空気が湿り気を帯びていて、肌に心地よかった。
ふと、足元に小さな花が咲いているのに気づいた。薄紫の花弁が五枚、露を含んで光っている。しゃがんで顔を近づけると、甘い香りがした。名も知らない花だが、森の土と混じり合った匂いが鼻をくすぐる。前世では野の花を見て足を止めることなど一度もなかった。研究室と教室を往復するだけの日々に、こんな時間は存在しなかった。
「殿下、あまり奥に行かないでください」
護衛騎士が声をかけた。立ち上がって振り返ると、二人の騎士が少し離れた位置で周囲を見渡している。
「はい」
素直に従う。この森は王宮のすぐ近くだ。安全なはずだった。
だが空気が変わったのは一瞬だった。鳥の囀りがぴたりと途絶え、森が急に静まり返った。風が止まり、木の葉が揺れなくなる。護衛騎士の一人が片手を上げ、もう一人に視線を送った。
ガサッ。茂みが激しく揺れた。鳥が一斉に飛び立ち、木々の上で羽音が弾ける。
護衛騎士たちが剣を抜いた。シャキンと金属音が森に響く。
「殿下、後ろへ!」
鋭い声に慌てて後退する。心臓がバクバクと跳ねた。背中が木の幹にぶつかり、樹皮のざらついた感触が肩甲骨に食い込む。
茂みから、それが現れた。獣臭い匂いが鼻を突く。湿った土と腐肉の混じった、吐き気を催す臭気だ。
緑色の肌、小柄だが筋肉質な体、鋭い爪と牙。ゴブリンだ。魔獣の一種、人を襲う危険な生物。黄色い目がぎょろりとこちらを見た。唸り声が喉の奥から漏れている。そして一体だけではない。二体、三体、四体と次々に姿を現す。
「群れか!」
護衛騎士が構えを取り、戦闘が始まった。
剣が振るわれ、ゴブリンの甲高い悲鳴が森に反響する。金属がぶつかる衝撃音、飛び散る泥、踏み荒らされる下草。一体目のゴブリンが切り伏せられ、緑色の血が飛沫となって宙に散った。だが倒しても次から次へと茂みの奥から飛び出してくる。
アルヴィンは木の幹に背をつけたまま、その様子を見ていた。足がすくんで動けない。両手を握りしめても震えが止まらない。これが戦いだ。訓練ではない。本物の命のやり取り。剣を振るうたびに肉が裂け、血が噴き、悲鳴が上がる。訓練場の木人を打つ音とは、まるで違う音だった。
騎士の一人が腕を斬られた。鎧の隙間から血が滲み、それでも歯を食いしばって剣を振るい続けている。だがゴブリンの数が多い。二人では捌ききれない。
そして一体のゴブリンが騎士たちの間をすり抜けた。低い姿勢で地面を這うように走り、その矛先はアルヴィンに向いている。
「殿下!」
騎士が叫んだが、別のゴブリンに阻まれて駆けつけられない。一体が襲いかかってくる。醜悪な顔が迫り、鋭い爪が振り上げられた。黄色い目に殺意が光っている。
——死ぬ?
一瞬そう思った。ゴブリンの爪が視界いっぱいに迫る。
だが体が勝手に動いた。訓練で培った反射だ。右手を前に突き出し、ゴブリンに向ける。体中の魔力を一点に集めた。火球、爆発、破壊。イメージが一瞬で形を結ぶ。
恐怖で喉が張り付く。それでも、発動した。手のひらから炎が放たれる。複合魔法フレアサイクロン。火と風の組み合わせ、訓練で何度も使った魔法だ。だがこれは初めての実戦だった。
ドンッ。
爆発音とともにゴブリンが吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。熱風がアルヴィンの顔を叩き、髪を後ろに吹き上げる。
そして、動かなくなった。
アルヴィンは呆然と自分の手を見た。まだ熱が残っている。指先が痺れたように鈍く、手のひらの皮膚が赤く火照っていた。魔力を放った反動が腕の芯にじんと残っている。
そして目の前には、ゴブリンの死体があった。焼け焦げた肌が黒く崩れかけ、緑色の血がドロドロと地面に染み込んでいく。生臭い匂いと焦げた肉の匂いが混ざり合い、鼻の奥に張り付いた。見開かれた目が、まだ何かを見ているように宙を向いている。
死んでいる。動かない。息をしていない。
ぼくが殺した。この手で、この魔法で。
膝から力が抜けた。地面に崩れるように座り込む。湿った土と草の感触が膝を通して伝わってきたが、そんなことはどうでもよかった。吐き気が込み上げてきた。喉が痙攣し、胃がひっくり返りそうだ。手が震えて止まらない。口の中に酸っぱいものが広がる。
視界が滲む。目に水が溜まっているのか、涙なのか分からない。自分が何をしたのか、理解が追いつかない。
護衛騎士たちが残りのゴブリンを倒し、戦闘は終わった。最後の一体が地面に崩れ落ち、森に静寂が戻る。荒い息遣いと、血の匂いだけが残っている。
「殿下、お怪我はありませんか!」
騎士が駆け寄ってくる。アルヴィンは答えられなかった。地面に座り込んだまま、ただゴブリンの死体を見つめている。自分が殺した生き物を。
騎士がアルヴィンの肩に手を置いた。鎧越しの手は硬く、だが力加減は驚くほど優しかった。
「殿下、よくやりました。見事な魔法でした」
「よく……やった?」
声が震えた。よくやった。ぼくは生き物を殺したのに。
「はい。あれは正しい判断です」
騎士の声は優しかったが、アルヴィンの耳にはどこか遠くから聞こえるように感じた。
「でも、ぼく、殺してしまいました」
騎士はしばらく黙った。それから膝をついてアルヴィンと目線を合わせた。年季の入った顔に、深い皺が刻まれている。何度も戦場を経験した目だった。
「初めてなら、当然です」
その目が真剣だった。
「殿下、よく聞いてください。あれは人を襲う魔獣です。放っておけば村人を殺します」
アルヴィンの肩を軽く握る。
「殿下は正しいことをしました。自分の命を守り、我々を助けた。立派な行為です」
頭では理解している。ゴブリンは危険だ。倒さなければこちらが殺される。だが心がついていかない。生き物を殺したという事実が、胸の中で重く沈んでいる。この感覚は前世でも知らなかったものだ。研究室で数式と向き合うだけだった人生には、こんな痛みは存在しなかった。
騎士が自分のマントを外し、アルヴィンの肩に掛けてくれた。厚い布が体を包み、風の冷たさが少し和らぐ。血と土と汗の匂いが染みついたマントだったが、その重さが不思議と落ち着いた。
「帰りましょう、殿下」
騎士に手を引かれ、立ち上がった。足がまだふらつく。騎士の手は大きく、自分の手がすっぽり収まった。
森の中を歩きながら、背後にゴブリンの死体が残されていくのを感じた。振り返りたくなかったが、振り返らなくても、あの見開かれた目がまぶたの裏に焼き付いている。さっきまで囀っていた鳥たちも戻ってこない。血の匂いが森の空気を重くしていた。
王宮が見えてきた頃、もう一人の騎士が左腕を押さえながら並んで歩いているのに気づいた。鎧の隙間から血が滲み、顔は汗で光っていたが、表情には痛みを見せまいとする強さがあった。アルヴィンが視線を向けると、騎士は小さく頷いてみせた。大丈夫です、と言うように。
王宮に戻ると、玄関で母が待っていた。侍女から知らせを受けたのだろう、顔色が白い。
「アルヴィン!」
エリザベスが駆け寄り、息子を抱きしめた。強く、強く。花と石鹸の混じった母の香りが鼻に届いた。柔らかな絹の衣が頬に触れる。
「大丈夫? 怪我はない?」
震える声だった。泣きそうな声。母の腕が震えている。
「大丈夫です」
「よかった」
母の腕の中は温かい。優しい。森で嗅いだ血と焦げた肉の匂いが、母の香りに少しずつ上書きされていく。母の心臓の音が耳に伝わってくる。速く打っている。息子が無事に帰ってくるまで、母もずっと怖かったのだろう。
その温もりに触れた瞬間、堪えていたものが崩れた。アルヴィンの目から涙が溢れた。
「お母様」
「いいのよ、泣いて」
母の手が優しく背中を撫でる。何度も何度も。規則正しく、子守唄のように。
「怖かったわね」
「はい」
涙が止まらない。母の衣を濡らしていく。声を上げずに泣いた。嗚咽を堪えて、ただ涙だけが溢れ続ける。母はずっと黙って、背中を撫で続けてくれた。
どれくらい経ったか。ふと、廊下の向こうに目が行った。負傷した護衛騎士を支えて走る侍女の姿が見える。騎士の腕には血が滲んでいた。侍女たちが慌ただしく包帯と薬草を運んでいく。別の使用人が水桶を両手に抱えて走り、すれ違いざまに騎士の顔を心配そうに見上げていた。
ぼくのために戦ってくれた人が、傷ついている。王宮で働く人々が、ぼくを守るために動いている。胸の奥で何かが広がった。守るべきものは家族だけではない。この人たちもだ。
母がそっとアルヴィンの顔を持ち上げ、涙を拭ってくれた。温かい指先だった。
「今日はゆっくり休みなさい。明日になれば少し楽になるから」
頷いた。母に手を引かれて部屋に戻り、ベッドに横になった。だが目を閉じてもゴブリンの顔が浮かぶ。黄色い目、振り上げられた爪、そして焼け焦げた死体。何度も寝返りを打ち、枕に顔を押し付けた。
その夜、カールがアルヴィンの部屋を訪れた。
燭台の灯りが壁に揺れる影を落としている。窓の外から夜風が入り込み、炎が小さく揺れた。アルヴィンはベッドの縁に座り、自分の手を見つめていた。あの時の感触がまだ残っている。魔力が手のひらを通り抜けた瞬間の、あの熱さ。目を閉じれば、ゴブリンが吹き飛ぶ瞬間が鮮明に蘇る。
「アルヴィン」
「父上」
カールが椅子を引き、腰を下ろした。椅子が軋む音が静かな部屋に響いた。窓の外では月が昇り始めている。
「初めて魔獣を倒したそうだな」
アルヴィンは正直に答えた。
「怖かったです。吐き気がして……今も手が震えます」
右手を差し出して見せた。確かに、まだ細かく震えている。
カールは静かに、深く頷いた。
「それでいい」
驚いて顔を上げた。涙で滲んだ視界に、父の穏やかな顔が映る。
「生き物を殺して何も感じない方がおかしい。アルヴィンは正常だ」
大きな手が息子の頭に置かれた。
「怖れを感じ、罪悪感を持つ。それが人間だ」
胸が少し楽になった。カールの金色の瞳が、燭台の灯りを受けて柔らかく光っている。
「父上も、初めての時は怖かったですか」
思い切って聞いた。カールはしばらく黙っていた。窓の外の月を見つめ、それから息を吐いた。
「怖かった。震えが三日止まらなかった」
静かな声だった。遠い記憶を辿るような、穏やかな響き。雷帝と恐れられた父にも、そんな時があったのだ。
「剣を握る手が震えて、まともに構えられなかった。食事も喉を通らなかった」
カールは膝の上で拳を握り、それから開いた。大きな手のひらに古い剣だこが光っている。
「だが、アルヴィン」
カールが真剣な目で息子を見つめた。
「これからアルヴィンはもっと戦うことになる。魔獣と。場合によっては人とも」
その言葉が重い。人とも戦う。父が経験した千人討ちのことが頭をよぎった。たった一体のゴブリンでこれほど苦しいのだ。あの戦場で、父はどれほどの痛みを背負ったのだろう。
「その度にこの苦しみを感じるだろう。震え、吐き気を感じるだろう」
カールが立ち上がり、息子の肩に大きな手を置いた。温かく、重い。父の手のひらの硬い皮膚が、肩越しに伝わってくる。
「だが忘れるな。戦う理由を。守るべきものを」
「はい」
涙を拭いながら頷いた。
「お前は誰かを守るために戦う。家族を、仲間を、民を。それを忘れなければ大丈夫だ」
金色の瞳が優しかった。深い慈愛に満ちている。
「苦しみはお前を正しい道に留める。苦しまなくなった時こそ、本当に危険なんだ」
その言葉が胸に染み込む。父が二十年前の戦争で得た教訓なのだろう。千の命を奪い、それでも人間であり続けるために、この人は苦しみ続けてきた。
カールが息子の頭をそっと撫でた。大きな手のひらが髪を優しくすくう。不器用だが温かい仕草だった。
部屋を出ていく直前、扉の前で振り返った。
「アルヴィン」
「はい?」
「よくやった」
短い言葉だった。だがその声に、確かに父の誇りが宿っていた。扉が閉まり、廊下を遠ざかる足音が静かに消えていく。
一人になったアルヴィンは窓辺に立ち、月を眺めた。白い光が部屋に差し込み、床に四角い明るみを作っている。
初めて命を奪った重さは、今も胸に残っていた。訓練でも理論でもなく、本物の死だ。これからもっと戦うことになるなら、この苦しみから目を逸らしてはいけない。
右手を月に向けて伸ばした。まだ震えている。だがこの手で、誰かを守ることもできるはずだ。
目を閉じた。ゴブリンの顔がまた浮かんだが、今度は父の声が重なった。怖れを感じ、罪悪感を持つ。それが人間だ、と。
いつの間にか、眠りに落ちていた。
翌朝、アルヴィンは騎士団の訓練場を訪れた。朝の光が訓練場の砂地を白く照らし、剣を打ち合う音が規則正しく響いている。鉄の匂いと、朝露に濡れた砂の匂いが混じり合っていた。昨日の護衛騎士がいた。訓練の輪から少し離れ、片腕を庇うようにして素振りをしている。
「あの」
「おお、殿下」
騎士が振り返る。腕に包帯が巻かれていた。白い布の一部に薄く血が滲んでいる。
「昨日はありがとうございました。お怪我は大丈夫ですか」
頭を下げた。騎士は少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「かすり傷です。殿下が気にすることではありません」
だが包帯の巻かれた面積はかすり傷には見えなかった。
「殿下の魔法がなければ、やられていたかもしれません。六歳であの判断、将来が楽しみです」
「はい。ありがとうございます」
騎士が笑った。日に焼けた顔に皺が寄り、目元が細くなる。
「また護衛、任せてください。今度は殿下の足を引っ張らないようにします」
冗談めかした声だったが、その目には確かな敬意があった。
訓練場の隅では若い騎士たちが組手をしていた。一人が足を払われて砂地に転がり、すぐに立ち上がって構え直す。泥だらけの顔で笑いながら。戦う人たちは、こうして毎日鍛えている。傷を負っても翌日には剣を握る。その強さが、眩しかった。
訓練場を出る時、空を見上げた。青い空がどこまでも広がっている。風が頬を撫で、訓練場から鉄と汗の匂いが流れてくる。遠くで剣を打ち合う音が響いていた。
手はまだ震えている。ゴブリンの死体も、まだ目に焼き付いている。だが訓練場の剣戟と朝の風は、昨日で終わりではないことだけを静かに告げていた。
アルヴィンは息を整え、朝日を受ける王宮の白い壁へ向かって歩き出した。




