第20話 雷帝の伝説
ある夏の夜だった。
父の執務室に呼ばれたのは、日が暮れて間もない頃のことだ。王族の子供が単独で王の執務室へ招かれるのは珍しく、アルヴィンの胸は緊張で高鳴っていた。カールは普段、公務で忙しい。子供たちとゆっくり話す時間はほとんどなかった。
何かあったのだろうか。
「失礼します」
ノックをして扉を開けると、蝋燭の温かな光が石壁を照らす執務室が広がっていた。書棚に並ぶ革表紙の匂いに混じって、窓辺から夜風の涼しさが流れ込んでくる。カールは一人、窓の外を眺めていた。月明かりに照らされたその背中は、どこか寂しげに見える。
「父上」
「来たか。座れ」
振り返らずに椅子を指す声は、いつもより低い。アルヴィンは示された革張りの椅子に腰を下ろした。古い椅子が軋む音が、静かな部屋に小さく響く。
しばらく沈黙が続いた。壁の時計がチクタクと時を刻み、蝋燭の炎が揺れるたびに影が壁を這う。カールは遠い記憶を辿るように、何かを考えているようだった。アルヴィンは待った。父が言葉を探しているのだと、直感的に分かった。
「アルヴィン」
「はい」
カールがゆっくりと振り返る。その瞳には、深い何かが宿っていた。見たことのない表情だ。
「今日は、私の昔話をしよう」
心臓がドクンと跳ねた。父が自分の過去を語る。それは初めてのことだった。兄たちにさえ話したことがないはずだ。
「お前は、『雷帝』という呼び名を聞いたことがあるか」
「はい」
頷いた。図書館の歴史書で読んだことがある。第二次ヴェルディア・ガルヴァード戦争を終わらせた最強の戦士。天を裂く雷で千の兵を薙ぎ倒した伝説の英雄。この国で知らない者はいない。
「それが、私だ」
息が止まった。
もちろん、父が強いことは知っていた。だが、歴史書に名を刻まれた伝説の英雄が、目の前にいるこの人だとは。
「雷帝って……伝説の」
声が震えた。カールは苦笑を浮かべる。喜びとも苦味ともつかない複雑な感情が、その笑顔に滲んでいた。
「確かに、昔の話だ。もう二十年以上も前のことだ」
カールが語り始めた。声は低く、一言ずつ紡がれる。
「私が二十代の頃、この国は隣国と戦争をしていた」
第二次ヴェルディア・ガルヴァード戦争。アルヴィンは歴史で学んでいた。帝国の大規模侵攻で王都まで戦火が迫った、近年最大の戦争だ。固唾を飲んで耳を傾ける。
「戦争末期、王都防衛会戦があった。敵国は総力を挙げて攻めてきた」
カールの目が窓の外の月を見つめる。その瞳は今ここではなく、遠い戦場を見ているようだった。
「十万の軍勢。対するこちらは五万。数で圧倒されていた」
拳がわずかに握られるのが見えた。蝋燭の炎が揺れ、カールの顔に深い影を落とす。
「私は当時、まだ王子だった。前線で魔導騎士団の一員として戦っていた」
語る声の奥に、押し殺した痛みが滲む。アルヴィンは息をするのも忘れて聞き入っていた。
「そして、決戦の日が来た。敵の主力が王都に迫り、このままでは陥落する。国が滅びる」
「私は決断した」
カールの拳が強く握られた。わずかに震えている。
「単騎で、敵陣に突撃した」
「単騎で?」
声が裏返った。一人で十万の軍勢に向かったのか。
「ああ。雷属性の全魔力を解放した」
深い呼気。その時の記憶を辿るように、わずかな間を置いた。
「『雷帝の裁き』」
歴史書に記された伝説の魔法だ。天を裂く雷撃、世界を震わせる轟音。本の中でしか見たことのないその名を、父の口からこの距離で聞いている。
「一撃で千の兵を薙ぎ倒した」
カールの声は重かった。誇りではない。痛みを含んだ重さだった。
「敵の指揮系統を破壊し、軍を崩壊させた。敵は恐怖した。『雷帝が来た』と」
一呼吸の間。
「そして、戦争は終わった」
その言葉が部屋に重く響き、沈黙が降りた。
アルヴィンは言葉を失っていた。一人で千人を。それは人間の域を超えている。
「すごい、です」
「すごいか」
カールが自嘲的に笑った。笑みの下に、見たこともない苦渋が透けている。
「そうか。お前にはそう見えるか」
窓辺に視線を戻し、月明かりに横顔を晒した。夜風が一筋流れ込んで、蝋燭の炎を揺らす。
「だが、アルヴィン。力は人を救う。だが同時に、多くを奪う」
その言葉の重さに息を飲んだ。胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「私は千の兵を殺した。戦争を終わらせるために。国を守るために」
アルヴィンは何も言えなかった。
「だが、その千人にも家族がいた」
カールの声が痛みを帯びた。
「帰りを待つ者がいた。子供が父を待っていた。妻が夫を待っていた。私は千の家族を悲しませた」
一言ずつが鉛のように重い。石壁に反響して、消えていく。
重い沈黙が落ちた。時計の音だけが無情に刻まれ続ける。
「それだけではない」
カールが続けた。さらに深い痛みが声に加わっている。
「味方も多く失った。戦友たちが次々と倒れていった。私の目の前で」
拳がさらに強く握られ、拳頭が白くなる。アルヴィンは父の横顔を見つめた。蝋燭の光に照らされたその瞳に、涙が滲んでいるのが見えた。
「強大な力を持っていたのに、守れなかった。仲間たちを守れなかった。全員を守ることはできなかった」
二十年経っても癒えない傷。その声を聞いて、アルヴィンは初めて理解した。父は英雄である前に、一人の人間なのだと。
いつも強く堂々としている父。国を支える揺るぎない柱のような人が、今は一人の人間として苦しんでいる。涙を浮かべ、拳を震わせ、痛みに満ちた声で。
「力には代償がある」
カールがゆっくりとアルヴィンを見つめた。深い悲しみに満ちた瞳だった。
「強ければ強いほど、失うものも大きい。それを忘れるな」
その言葉が胸に刺さった。
「はい」
必死に頷いた。涙を堪えながら。
カールは立ち上がった。重い動作でゆっくりと、そして息子の前に膝をついた。床に膝をつき、目線を合わせる。王が、子供と同じ高さに降りた。
「アルヴィン」
「はい」
温かな手が小さな肩に置かれた。掌の体温が衣越しに伝わってくる。
「お前には、私と同じ道を歩んでほしくない。千の命を奪う、そんな道を」
切実な声だった。心の底からの願いが滲んでいる。
「だが、強くなければ守れないのも事実だ」
カールが苦笑した。自嘲的な笑みだった。
「矛盾している。強くなってほしくない。だが強くあってほしい。親として、王として、その両方を思ってしまう」
大きな手が小さな手を握った。剣を握り続けてきた手のひらは硬く、しかし温かい。
アルヴィンは考えた。五歳の頭で懸命に。父の言葉の重さ、千の命を奪った苦しみ、守れなかった悔恨。そして、それでも王として生き続ける覚悟。
「父上」
「何だ」
カールが目を見開いた。アルヴィンが真っ直ぐに父を見ている。小さな瞳に、強い意志が宿っていた。
「ぼくは、父上のように民を守れる王になりたいです」
カールの唇が震えた。
「強くても、力を振り回さない王に」
カールの目が潤んだ。涙が頬を伝う。
「力を目的にはしません。何を守るために使うのか、忘れません」
言葉が部屋に響いた。小さな体から発せられた、しかし揺るぎない声だった。
カールはしばらく黙っていた。涙を流しながら息子を見つめ、そして強く抱きしめた。
大きな腕が小さな体を包み込む。鎧を脱いだ父の胸は温かく、衣に染みついた微かな革と鉄の匂いがした。心音が伝わってくる。速く、強く打っている。
「立派になったな」
震える声だった。嗚咽を堪えている。
「お前はまだ五歳なのに、もう、こんなにも強く」
大きな手が優しく息子の背中を撫でた。温かく、震えている。
「誇りに思う。本当に、誇りに思う」
アルヴィンも父の背中に腕を回した。小さな腕では背中の半分にも届かない。だが父の体温が確かに伝わってくる。
その夜、二人は長く話した。カールの戦争の記憶、失った仲間たちのこと、王位を継承した時の決意、平和を守るという誓い。すべてを、アルヴィンに語った。
そして最後に、カールが息子の目を見つめて言った。
「いつかお前が本当に強くなった時、その力を何のために使うか。それを常に問い続けろ」
「はい」
「力は手段だ。目的ではない。守るための力。それを忘れるな」
「忘れません」
短い沈黙の後、アルヴィンは椅子を降りて扉に向かった。取っ手に手をかけた時、背後からカールの声がした。
「アルヴィン」
「はい?」
振り返ると、父が微笑んでいた。涙の跡が残る顔で。
「ありがとう」
驚いた。父が、自分に礼を言っている。
「お前が生まれてきてくれて、私は幸せだ。お前のような息子を持てて、本当に幸せだ」
温かいものが胸の奥に広がった。言葉にならない何かが喉の奥でつかえる。
「ぼくも、です」
小さく呟いて、部屋を出た。
廊下を歩きながら考えていた。石畳の冷たさが裸足に伝わり、夜風が頬を撫でる。月明かりが長い廊下を照らし、自分の影が足元に短く落ちていた。
父は重いものを背負っている。千の命を奪った罪、守れなかった仲間たちへの後悔、二十年経っても癒えない傷。それでも王として生き、民を守るために立ち続けている。
——ぼくも、強くなろう。
その強さを、そのままなぞるのではなく。何を守るために使うのかを見失わない力にしよう。
拳を握り、決意を胸に刻んだ。
その夜、夢を見た。
暗い戦場だった。灰色の空の下、血に染まった大地が広がっている。雷が天を裂き、轟音が腹の底まで響く。千の兵が倒れていく。叫び声、金属の打ち合う音、焦げた空気の匂い。
その中心に、若き日のカールが立っていた。青い雷を纏い、剣を握っている。金色の瞳は悲しみに満ちていた。涙を流しながら、それでも戦い続けている。一人で。
「父上」
呼びかけたが、届かない。声が風に消えていく。
目が覚めた時、枕が濡れていた。頬を伝った涙が染み込んでいる。胸が痛い。苦しい。だが、父の痛みが少し分かった気がした。千の命を奪う苦しみ、仲間を守れなかった悔恨、それを背負って生きる重さ。
「強くなろう」
呟いた。窓の外では東の空がわずかに白み始めている。夜が明ける。
手を伸ばした。薄明に向かって。まだ小さな手だが、いつかきっと、守るべきものを守れる手になる。
その決意を胸に、アルヴィンは静かにベッドを降りた。




