第15話 小さな光
最近あったかくない?
翌日の昼前、王宮の玄関ホールに柔らかな陽光が差し込んでいた。磨かれた大理石の床に、窓枠の形が白く落ちる。外では馬車の車輪が石畳を叩く乾いた音が近づいていた。
アルヴィンは柱の脇に立ち、到着を待つ。昨日の公開訓練で兄との距離が広がった感覚はまだ胸に残っていたが、今日はそれを引きずりすぎないと決めていた。
胸の奥にはまだ硬い痛みが残っている。それを一日で消すことはできない。せめて初対面の相手にまで持ち込まないよう、アルヴィンは指先を一度握って開き、呼吸を整えた。
黒檀の馬車が止まり、扉が開く。先に降りたのは栗色の髪を結い上げた貴婦人だった。エリザベスが一歩進み、笑みを浮かべる。
「アンナ、遠いところをよく来てくださいましたね」
「ご招待いただけて嬉しいですわ、エリザベス様」
二人は形式だけではない抱擁を交わした。母方の血縁であることが、仕草だけで伝わってくる。
アルヴィンは少し距離を置いて、二人の様子を見ていた。儀礼の場での母は常に言葉を選ぶが、今日の声は違う。最初の一文が短く、笑みが先に来る。互いに埋めなくてよい間がある。長く続いてきた関係にしか持てない温度だと、幼いながら感じた。王宮で過ごしていると、こういう場面はあまり見えない。
二人の話が続く間、視線が黒檀の馬車に向いた。扉が閉まったまま、車体がわずかに揺れている。誰かがまだ乗っている。外の様子を確かめているのかもしれないし、降りるのを迷っているだけかもしれない。エリザベスから「同い年の子が来る」という話は聞いていなかった。それでも、馬車の気配と大人二人の声の空気が、今日が「会う日」だということを先に教えていた。
アルヴィンが近づくと、エリザベスが柔らかく紹介した。
「アルヴィン、この方はアンナ・エルデンベルク。わたくしの従姉妹です」
「初めまして。アルヴィン・レオニード・ヴェルディアです」
アンナは目を細め、少年の礼を受けた。
「お噂は伺っております。礼儀までしっかりなさっているのね」
その後ろで、もう一人が馬車の踏み板にそっと足を乗せる。淡い金髪が光を受け、風でやわらかく揺れた。
「セレナ、いらっしゃい」
エリザベスの声に導かれ、少女はゆっくり前へ出る。緑の瞳がこちらを向いた瞬間、アルヴィンは言葉を選ぶのにわずかな間があった。
「初めまして。セレナ・エルデンベルクです」
澄んだ声だった。丁寧で、押しつけがましさがない。
「初めまして。アルヴィンです」
短いやり取りのはずなのに、胸の内に張っていた糸が少し緩む。視線を向けられても身構えずにいられたのは、久しぶりだった。
応接室へ移る前、エリザベスが娘を見るような目でセレナを振り返る。
「二人とも同い年ですし、庭園を歩いていらっしゃいな」
「よろしいでしょうか」
セレナはアンナを見上げた。母が頷くと、少女はひっそりと笑んでアルヴィンの隣へ並ぶ。
南庭園には春の匂いが満ちていた。土の温度、花の甘い香り、噴水の細い水音。石畳を並んで歩く間、最初は互いに少しだけ緊張していた。
「アルヴィン様は、魔法がお得意だと聞きました」
先に口を開いたのはセレナだった。声は控えめだが、瞳には好奇心があった。
「得意かは分からないけど、好きです」
「好き、なのですね」
「うん。セレナは?」
セレナは両手を胸の前で重ね、うなずく。
「わたしも、魔法が好きです。特に光の魔法に惹かれます」
アルヴィンは立ち止まった。初めて同年代から返ってきた、魔法そのものへの興味だった。
「光属性なんだ」
「はい。まだ小さな灯りくらいしか出せませんけれど」
少女は遠慮がちに掌を開き、息を整える。次の瞬間、薄い金の光がふわりと灯った。強い輝きではない。だが目に痛くない、やわらかな光だった。
噴水の飛沫がその光を受け、細かな粒が金の縁を持って揺れた。火術のような熱も、風術のような鋭さもない。触れれば壊れそうな繊細さなのに、不思議と消えずに留まっている。
アルヴィンはその灯りを見つめたまま、胸の力が少し抜けていくのを感じた。小さな光だった。それでも人の呼吸を緩める力がある。そう思い、彼は評価を飾らず言葉にした。
「……きれいだ」
「本当ですか?」
「うん。あたたかい感じがする」
セレナは嬉しそうに光を消し、少しだけ肩の力を抜いた。
「治癒魔法って、光属性が大切だと教わりました。いつか使えるようになって、困っている人を助けたいんです」
アルヴィンはその言葉を反芻した。前世で追っていたのは理論と再現性だった。目の前の少女は「誰を助けるか」を先に置いている。
彼女の魔法への動機は競争ではなく他者に向いている。アルヴィンはその方向性を尊いと感じ、自分の知っていることを隠さず返すことにした。
「治癒は難しいって聞くけど、セレナならできると思う」
「そう言っていただけると、勇気が出ます」
会話の間隔が少しずつ短くなる。ぎこちなさより、知りたいことが先に出る空気へ変わっていった。
噴水の縁で休みながら、二人は魔法学院の話になった。
「アルヴィン様は、将来学院へ?」
「行きたい。いろんな魔法を学びたいし、同じ目標の人たちと話してみたい」
答えながら、アルヴィンは自分の声が少し軽くなっていることに気づいた。昨日までは「いつか行く場所」だった学院が、今日は「一緒に行くかもしれない場所」に変わっていた。
「わたしも、入学したいです」
セレナは真っ直ぐ見て言った。
「もし学院で会えたら、魔法のことをたくさん教えてくださいませんか」
「もちろん。ぼくも、光属性のことを教えてほしい」
少女の口元にやわらかな笑みが浮かんだ。
「では、約束ですね」
「約束」
二人は子どもらしく小指を絡めた。王宮の庭で交わした幼い約束だったが、アルヴィンには不思議と重く感じられた。
小指を離してから、アルヴィンはその感触を確かめるように一度手を開いた。前世で結んだ約束はほとんど、締め切りか数字の話だった。相手の体温が残る、こういう形で交わすことは、おそらく一度もなかった。今日のこれは、それとは違う種類のものだ。
セレナはしばらく自分の小指を見てから、こちらに目を向けた。特別な言葉はなかった。ただ、確かめた後のような落ち着きがあった。学院へ行くのはまだ数年先のことだ。その間に何かが変わるかもしれないし、約束そのものを忘れてしまうかもしれない。それでも今日のこれは、今日この庭にあったことで確かだった。記憶が薄れても、何かが残るような気がした。
迎えの声がかかったのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
「セレナ、そろそろ戻りましょう」
アンナの呼びかけに、セレナは名残惜しそうに立ち上がる。
「今日は楽しかったです、アルヴィン様」
「ぼくも。来てくれてありがとう」
玄関ホールで別れの挨拶を済ませ、馬車の扉が閉まる。窓越しにセレナが手を振り、アルヴィンも振り返した。馬車が角を曲がって見えなくなるまで、少年はその場を動かなかった。
見えなくなった後もしばらく、玄関前には馬車輪の余韻だけが残っていた。さっきまで隣にあった声が消えると、王宮の広さが急に戻ってくる。けれど、空っぽにはならない。指先には、小指を絡めた感触がまだ薄く残っていた。
あの光のことを考えた。火でも風でもない。熱を出さず、温かさだけが静かに届く。人の呼吸を急かさずに、そこにあるだけでそっと緩める種類の光だった。前世では名前さえ持てなかった何かが、今日は手の届く距離に見えた。
今日、自分は同い年の相手と対等に魔法を語り、約束を交わせた。孤独が消えたわけではないが、向きを変える一歩にはなった。アルヴィンは胸の内で、短く誓いを結んだ。
また会えるまで、進む。
西の空に残る光は細くなっていたが、足取りは重くなかった。小さな光が、確かに手の中へ来た一日だった。
ほぎゃー




