第13話 変わる世界
王宮の朝は、いつも静かに始まった。だが、その静けさの中に向けられる視線だけが、ここ数日で明らかに変わっていた。
廊下を歩けば、侍女たちは一歩引いて頭を下げる。以前のような同情ではなく、戸惑いと敬意が混ざった目だった。アルヴィンはその視線を受けるたび、自分の背丈が昨日までと同じなのに、周囲だけが急に遠くなったように感じていた。
その日の朝、エリザベスが私室に来た。窓辺の薄布が春風に揺れ、薔薇の甘い香りが差し込む光に混ざっていた。
「アルヴィン、起きているかしら」
「はい。おはようございます、お母様」
エリザベスはベッド脇に腰を下ろし、息子の髪を整えるように指を滑らせた。その仕草は柔らかいのに、声には少しだけ改まった響きがあった。
「今日から、訓練の体制が変わるの。実技はミハイル様、理論確認はアーロン様。あなた専用の進行表で進めるそうよ」
「専用の、進行表」
「ええ。無理をさせないための配慮でもあるって、アーロン様が」
特別扱い。頭では必要だと理解していても、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな重さが沈んだ。
大人たちは彼の才能を守ろうとしている。その判断は正しい。だからこそ、アルヴィンは表情を崩さずに頷いた。
「分かりました。ちゃんとやります」
「ありがとう。あなたの歩幅でいいのよ」
額に落ちた口づけは温かかった。けれどその温度が、かえって自分が「守られる対象」になった現実を強く意識させた。
訓練棟の地下室は、石壁に刻まれた抑制陣の淡い光で満たされていた。低い唸りのような魔力音が床から伝わり、靴裏に微かな振動を残す。
先に口を開いたのはミハイルだった。灰色の短髪、無駄のない立ち姿。挨拶も動きも短い。
「おはようございます、殿下。今日は再現率を見ます。威力は不要、安定だけを取ります」
「はい!お願いします」
記録卓の横でアーロンが書板を整え、穏やかに補足した。
「本日の目的は『出せる』ではなく『崩さず繰り返せる』ですな。前回できたことを、同じ条件で三回。そこまで確認できれば十分でしょう」
訓練は淡々と進んだ。火、水、風。順番、出力、停止位置。ミハイルは毎回同じ言葉で指示し、ズレが出ると即座に区切った。
「停止。呼吸を戻してください」
「次へ進みます。今の半分で」
「そのまま角度で、維持してください」
アルヴィンは言われた通りに魔力を流し、切り、整えた。できてしまうこと自体は嬉しいはずなのに、心のどこかは空いたままだった。成功のたびに褒められても、胸の中心にある空白が埋まる気配はなかった。
三巡目を終えると、アーロンが書板から目を上げる。
「安定しています。年齢を考えると十分以上ですな。ただし、周囲の期待が上がるほど負荷も増えます。日ごとの記録は続けましょう」
合理的で正しい言葉だった。ミハイルも短く頷く。
「本日はここまで。よく維持できました」
訓練室を出ると、廊下の衛士が背筋を正し、以前より深く礼をした。四歳の王子に向ける礼としては過剰なくらいに。
アルヴィンは軽く会釈して通り過ぎた。背後で扉が閉まる音が、思ったより硬く響いた。
次の角を曲がると、侍従が小さな板札を抱えて待っていた。今日の予定表だった。午前は実技、午後は休息を挟んで理論確認、夕方は家族同席の短い報告。四歳児の一日としては、あまりにも整いすぎている。
その整然さに守られているのは分かる。だが同時に、予定表は「一人で自由に遊ぶ余白」がどこにもないことも示していた。アルヴィンは板札に視線を落としたまま、次の移動時刻を頭の中で数えた。
午後の理論確認は、書庫脇の小部屋で行われた。机上には年齢相応の絵本ではなく、属性干渉の簡略図と制御記録の写しが並ぶ。アーロンは語気を上げず、必要な箇所だけ指先で示した。
「本日の火属性は立ち上がりが速すぎますな。悪いことではありませんが、実戦では味方の防護準備より先に出る恐れがあります」
「先に出す量を、少し削る?」
「ええ。初動を一段抑え、二秒目で上げる。殿下なら可能でしょう」
助言は的確だったし、難しすぎもしなかった。褒められるというより、仕事の相談のように言葉が返ってくる。その空気に応えられる自分は嫌いではない。けれど、胸のどこかは空いたままだった。
昼下がり、気分を変えようと庭園へ出た。噴水の水音は軽く、陽光を受けた飛沫が白く散っている。風に運ばれる土の匂いは温かく、春の匂いそのものだった。
低木の向こうから子どもの笑い声が聞こえた。侍女の家族だろう、同じくらいの年頃の子どもが四人、芝生の上で追いかけ合っていた。転びかけては笑い、すぐ立ち上がってまた走る。その無駄のない楽しさに、アルヴィンの足が止まった。
少し迷ってから、彼はゆっくり近づいた。ひとりの男の子が最初に気づき、次の瞬間、全員の動きが止まる。
「あっ……アルヴィン王子」
笑顔が消え、代わりに緊張が並んだ。年齢に不釣り合いな硬さだった。
「遊んでたんだね」
「は、はい」
沈黙が伸びる。アルヴィンは勇気を出して続けた。
「ぼくも、少し入っていいかな」
誰もすぐには答えなかった。視線が互いに泳ぎ、やがて女の子が小さく首を振る。
「その……わたしたち、失礼があるといけないので」
責める気にはなれなかった。アルヴィンが一歩下がると、子どもたちの肩から同時に力が抜ける。それで十分だった。
「うん。声をかけてくれてありがとう」
そう言って下がると、背中越しにほっとした呼気が重なって聞こえた。胸の奥が静かに痛んだ。
庭園の回廊へ戻る途中、通りかかった侍女二人の会話が耳に入った。声は抑えていたが、完全には届かない距離ではなかった。
「殿下、やっぱり特別なお方ね」
「ええ。でも、まだ小さいのに……」
そこで二人はアルヴィンに気づき、慌てて頭を下げた。彼は何も言わず通り過ぎた。悪意のない言葉でも、子どもに向けるには重いと分かってしまう年齢の自分が、少し嫌になった。
年の近い子どもはいる。けれど、自分と同じ地面の上に立ってはくれない。今の王宮で「ただの友達」を作るのは難しい。アルヴィンは噴水の縁に手を置き、水の冷たさで呼吸を整えた。
数日後、カールが外出を告げた。朝の謁見を終えた後の短い時間、父は王としてではなく父の顔で言った。
「今日は魔法学院へ行く。見るだけだ」
「王立魔法学院に?」
「ああ。お前が目指す場所を、自分の目で見てこい」
馬車は王都の石畳を進み、やがて高い塀に囲まれた学院門へ着いた。門柱の紋章は陽を受けて白く光り、敷地の奥には訓練場と塔が重なって見える。遠くから詠唱の声と着弾音が規則的に届き、空気には焦げた匂いが薄く漂っていた。
案内役の学院長が一礼する。
「陛下、アルヴィン殿下。お迎えいたしました」
まず見せられたのは屋外訓練場だった。年上の生徒たちが二人一組で術式を確認している。片方が放ち、片方が防ぐ。失敗すればすぐに位置を変え、何が崩れたかを短く言葉にして次へ進む。怒鳴り声ではなく、実務的な声が飛び交っていた。
「角度を三度下げて」
「了解、もう一回」
「今のは良かった」
その連携が、アルヴィンには眩しかった。上手い下手より、同じ目標を共有している空気そのものが欲しかった。
図書棟へ移る途中、カールが横目で息子を見た。
「どうだ」
「すごいです。みんな、ちゃんと一緒に学んでる」
「そうだ。ここでは一人で強くなるだけでは足りん」
短く言い切る父の声に、学院の石壁が低く反響した。
研究棟では、複数の机に術式図が広げられていた。年上の生徒が議論し、教員が要点だけを返す。講義室でも、教師は正解を急がず、生徒に順番に根拠を述べさせている。
図書棟の閲覧室では、二人の生徒が同じ本を覗き込み、失敗した注記ごと机の上に広げていた。アルヴィンはそのやり取りを目で追う。上手さだけでなく、途中の迷いまで共有して進んでいく空気があった。
ここなら、一人で強くなる以外の術も学べるのかもしれない。
見学の終盤、学院長が慎重に切り出す。
「殿下ほどの資質であれば、将来的な早期履修制度も検討可能かと」
カールは即答した。
「急がせない。入学は規定通りでいい」
「承知しました」
「まだ四歳だ。削っていい時間ではない」
王としての断定であり、父としての線引きでもあった。アルヴィンはその言葉に救われる思いがした。期待は消えないが、少なくとも急かされはしない。
帰りの馬車で、カールはしばらく窓外を見たまま黙っていた。やがて、前を向いたまま問う。
「アルヴィン。お前は、友達が欲しいか」
唐突だったが、逃げる気にはなれなかった。
「欲しいです」
「どんな友達だ」
「いっしょに練習して、失敗しても笑える友達です」
カールは一度だけ頷いた。
「なら、そこへ辿り着け。焦るな。場所は用意する」
短い言葉だったが、約束として十分に重かった。
馬車が王宮門をくぐる直前、アルヴィンは振り返って学院の塔をもう一度見た。距離はまだ遠い。だが遠いこと自体が、目標としては都合がよかった。届くまでに準備できる時間がある。
夜。私室の灯りを落とした頃、エリザベスが温かいミルクを持って入ってきた。窓の外では虫の声が細く続き、部屋には蜂蜜の甘い匂いが広がった。
「今日は学院を見てきたのよね。どうだった?」
「すごかった。ぼくも、あそこに行きたい」
「そう。きっと行けるわ」
少し間を置いてから、エリザベスは息子の顔を覗き込む。声がさらに柔らかくなった。
「アルヴィン。寂しくない?」
一瞬、言葉が詰まった。胸の内をそのまま出せば泣いてしまいそうで、アルヴィンは先に笑顔を作った。
「大丈夫」
すぐに返したのに、エリザベスの瞳は誤魔化しを見逃さなかった。母はカップを机に置き、両手で息子の手を包む。
「無理しないでね。あなたはまだ4歳なのよ」
その言葉は、王子でも神童でもなく、ただの子どもとして呼び戻してくれる声だった。
「寂しい時は、寂しいって言っていいの。頑張ることと、我慢することは同じじゃないわ」
アルヴィンは俯いた。膝の上で握った手が熱い。喉の奥が硬くなる。
「……うん」
「あなたがどれだけ賢くても、わたしにとっては大切な息子よ」
抱き寄せられると、胸に押しつけていたものが少しだけ崩れた。涙が落ちても、母は何も言わず背を撫で続けた。
「明日も訓練はあるけれど、終わったら庭を歩きましょう。成果の話じゃなくて、花の話をしましょうね」
「うん」
「約束よ」
子どもらしい約束を交わしただけで、呼吸が少し深くなった。エリザベスは最後に頬へ触れ、灯りを一段落として部屋を出ていった。
その夜遅く、ひとりでベッドに入った後も、アルヴィンはしばらく眠れなかった。天井に薄く差す月光を見ていると、前世の研究棟の廊下と、自販機の苦い缶コーヒーの味がふっと蘇る。
あれも孤独だった。だが自分で選んだ静けさに近い。
今の孤独は違う。王子で、転生者で、神童と呼ばれるせいで、笑い方まで相手に迷わせてしまう。
それでも完全な無人ではない。今日、父は学院を見せ、母は寂しいと言っていいと教えてくれた。
アルヴィンは枕元の記録帳を開き、一行だけ書く。
学院へ進む。その時、誰かと並んで話せるだけの土台を持つ。
ページを閉じると、胸の痛みは少しだけ軽くなった。向かう先が見えているなら、今の苦しさも進むための重さに変えられる。
アルヴィンは目を閉じ、静かに息を整えた。




