第112部分 客観テストに物申す④…~思いがけなく話がデカく~
第112部分 客観テストに物申す④…~思いがけなく話がデカく~
そうそう、偏差値の話だった。では実際のテストではどうか。
実際のテストでは、実にいろいろな度数分布のパターンを見ることができる。
できるヒトとできないヒトの分布が高低に別れてしまい、中央あたりが少なくなっているフタコブラクダ型。
高得点者が多く、中央値や低得点者がさほど多くない形、またはその逆パターン。
本当はこういった場合には、「正規分布」に似通っていないがために「偏差値そのものの意味は薄い」のだが、偏差値自体は計算式に当てはめるだけで算出できるので、あくまでも便宜的な目安として使っているのである。
ゆえに例えば同一学校内の限られた人数で算出したとしても、実のところあまり意味はない。選択科目ごとの少人数集団なんか、況をや、である。まあ順位だけで出されるより、「平均点に如何に関わらず自分の位置を知るアバウトに知る」ためのツールとしては有効である、と言っておこうか。
同様に得点力だけで学力を正確に測るなら、例えば1979(昭和54)年1月の「国公立大学共通第一次学力試験」(略称:共通一次試験)初年度のように「約34万人の国公立大学志望者全員が同一の教科数の同一の試験」を受けてこそ本来の正しい意味が見えるワケだ。ただし理科と地歴公民(社会)は2科目ずつを選択する形式だった。
しかし… それが「大学入試センター試験」に改称され、私立大学の一部が利用し始めたのが1990年(平成2年)度である。
ここからは負担は大きかった反面、公平感のあった「共通」テストの変質が加速していく。
つまり必要な教科科目だけを選びんで受けるという「アラカルト式」の導入が始まったのである。
繰り返すが、これは不平等である。
不平等だけど国策として無視するから全然OKよ… の制度ゆえ、受験自体がラクになるとか苦手科目を心配することなく切り捨てOKよ、という私立大学の人気が高まり、これに伴って見掛けの偏差値の上昇が著しくなった。だって数理は不要ゆえに英国社だけを集中的に勉強するから、これで得点力が上がらなきゃただのバカである。なんの不思議もない、当たり前の現象ではないか。
しかし真面目に5教科に取り組んでいる受験生はそこまで得点力を伸ばせないので、相対的に不利になるのは避けられない。
が、しかし…「蛍雪時代」とか「ランキング一覧」等の受験雑誌に掲載される見掛けの偏差値はどうなるか。
そう、2教科3教科の私大偏差値は見掛け上は爆上がり、偏差値の意味を理解しない、または半知半解の受験生や親の評価も上がるのである。これこそが偏差値自体の意味が理解されないままに独り歩きを始めたときの最も大きな弊害である。つまり数字だけが意味を持つかのように振る舞いはじめるのである。
偏差値の高い大学は優秀なのか? 所詮は数学理科から逃避した…ある意味の落伍者なんだぞ…
そもそも共通一次テストからして「脱偏差値」を掲げて「素点主義」を採用した制度だったのである。しかしこの場合の「偏差値」とは主として「理科とか地歴公民とか、同一教科間内の科目間格差をどうにかする」ための方式であり、それはそれで弊害がなかったワケではない。ちょっとだけ例を挙げてみよう。
例えば理科の中の生物と物理だ。化学は事実上理系ほぼ全員だし、地学選択は捜してもなかなか見つけにくいほど少数である。学校の授業体系で設置すらされていないのがむしろ普通であるからだ。そもそも専門教員自体が極めて珍しい存在なのである。
物理はほぼ全員が理系選択者で、テストには必ず計算問題があり、ゆえに得意不得意の差が激しい。結果として多くの場合の度数分布はフタコブ(ラクダ)型になりがちで、ちょっと難易度を下げればたちまち高得点が続出するし、上げれば下位者で溢れるハメに陥りやすい。またきちんと理解さえしていれば満点をとることもできなくはなく、理解不足なら0点付近に漂うことも珍しくない。
一方の生物はというと、残りの理系…およそ1/3くらいだろうか… とほぼ国公立文系選択者ほぼ全員が員が受験することになる。繰り返すが、文系といっても国立文系だから、単なる文系よりも全体のレベルは明らかに高い。
計算はせいぜい小門2題が精一杯で、他は簡単すぎる単語か、その割に必要もないのにわざわざ分かりにくくいやらしく長ったらしく記述された文章解答例等から正答を選ぶのだが… これは相当に「国語力が問われる」記述であって… まず出題からして実際できそうにもない実験問題をどこからか捜してくるのか想像で作るのか… 元プロだった私でさえ面喰らうような突飛なヤツにしばしば出くわすのである。
結論から言うと確率的に0点にはならないし、低得点にもなりにくいが、満点はほぼ不可能という問題構成になる。そして度数分布は物理に比べれば正規分布に近い型となる。総じて、まあ平均取るのは簡単でちょっと勉強すればプラス20点も可能だけど、満点は至難…という科目特性を持たされているワケだ。
ふふ、正直に打ち明けるとですねぇ… 満点取れるのは私でもせいぜい3年に1度程度だったってコトよ。
御察しのとおり、受験者の母数も質もまったく異なる集団なのである。さらに難易度も度数分布も違う。当然偏差値が正しい指標を示す条件とはかけ離れているワケだ。
じゃあどうやって不平等を無くしていこうか、ぬぬぬ…
そうだ、平均点を60点に合わせれば平等じゃないか。提案者は己の天才的閃きに手を打って喜んだであろう。
実際言うは易く、行うは難し… なんてことはなく、易しいのはとことん易しくして底上げを謀り、ムズイのは相当に難しくして満点を防ぐ… そうしてやれば疑似的な分布曲線に似せて難易度を設定することは可能である… どころか、ちょいちょい私もやっていた。あとは程度の加減ということだ。
このように問題の難易度を無理を承知で操作・加工して平均点を60点プラスマイナス5点に以内になるよう操作した結果、それぞれの科目特性が一層強調される結果になってしまったワケだ。
つまり、物理は満点は取り易いけど0点付近のリスクもあり得るフタコブ型、生物は平均点は誰でも取り易いけど、高得点も低得点も取りにくい正規分布型というパターンである。でも平均点は同じくらいだから悪くないでしょ、もし平均格差が10点以上になれば「補正」するからさぁ…
この悪しき伝統は今なお続いている。
しかし… 受験者は私立大を含めて全員同じ土俵で勝負させれば良い…とは正論ではあるが、しかし理科4科目と地歴公民5科目に「情報」なんかも入れれば、それはそれでどえらいことになってしまう。商業高校や工業高校へも配慮は必要だ… そこここに無理が生じるのは私でもわかる。
ではどうすべきなのか? 解決策は無いワケではない。これはあとで述べることにしておこう。
話を戻そう。
半可通の偏差値偏重の結果、5教科を墨守する国公立大学は相対的に偏差値が下がり、志願者数にも翳りが現れてきた大学もチラホラと見掛けるようになる。さらにこれを河合塾や進研等の受験産業が煽る構図ができるワケで…
それにまず敏感に反応したのが県立や市立の公立大学あたり。見掛けのボーダー偏差値欲しさと志願者数の減少を食い止めるという名目で「大学の使命と意義」を放棄しプライドを忘れてこの教科数削減の風潮に追随した… 結果「平等性も公平性」も一気に瓦解したのである。存続上止むを得ないとは言え、目先の利益に目が眩み、公立大学としての矜持を捨てたのである。加えて「大学生への指導」を念入りに施して保護者や志願者の信頼を勝ち得た秋田県立大学のような独自の工夫を併せたところもある… これはこれで素晴らしい施策だが、大学生たるべきもの、本来はそのくらい自分で考えて研鑽して行動に移せよ…とも思ってしまったりして… まあそういう時代ですかね。
そもそもそんな程度の動機と必要と使命感しかない大学など、さっさと潰れてしまえば良く、それが自然淘汰というものだ。だいたい、日本には、中身はテキトーすぎるのに、高尚な学問も実践していないのに「大学」を名乗る機関が多すぎる。ちかごろの学部や学科名だけでも一度眺めてみるとよいかもしれないが、目を疑うようなアヤシゲな名称がいっぱいあるからさ…
ちかごろできた「恐竜学部」は魚竜や翼竜、そして首長竜等は扱わないんだろうか? それらは分類的には恐竜の範疇ではないからさ… ま、しかし、福井県はそういう化石に恵まれた土地柄だけにこれは仕方ないか。マニアは別として、高校生にそこまでの知識を求めるワケにはいかないしな…
けれど… 中には大船ならぬ『「大クジラ」に乗ったつもりで我が大学の給費生試験を受けよ』とテレビCMを堂々と流す「駅伝とかで超有名な大学」もあったりして… そういうのを見てると「ものすごく微妙」を通り越して本気で「大学の中身」が不安になってしまう。クジラって、いまこのときは浮いていても、いつかもうすぐ沈むんだぜ? ときにはシャチに襲われたりもするんだぜ? そういえば♪いつか もうすぐ♪の楽曲作者はここを中退してたっけな… これって先見の明?
アレ見て共感して信頼して応募する受験生なんて存在するんだろうか… あ、正真正銘のビリギャルならわかんないけどけど… 大学関係者とかその家族とか卒業生とか… あと神奈川県民はアレ見て何も言わなかったんだろうか。あのCM、今年はやや変更になってるけど、最後にクジラのイラストが泳いで出て来るからまだ同じ発想のままなんだろうな…
個人的には『泥船を浮かべるアイデアを出してみた、作ってみた』とか、そういう雰囲気で攻めてみたいところ。そうだな… 成型して乾かした後、しっかり焼成してセラミック化を図り、ついでに釉とかも使えば立派な船になりそうな予感… ねぇ
この陶器船、万一沈めば被害甚大だけど、それよりさ、クジラってゼッタイ必ず百%間違いなく沈むからさ、生活のために… それよりはずっとずっとマシだと思うけどな。
さて… こうなると旧帝大クラスは別格としても、かつての誇り高かるべき国立大学、特に地方の旧2期校なんかも黙ってはいられなくなってくる。孤高を保って安閑としていれば、志願者減少、特に質の良い志願者減が現実問題として目前に迫るからである。
もともと入試日程が最も後ろで、特に後期日程なんか3月の中盤以降になるからこれがキツ過ぎるんだ… というより私立入試が早すぎるのが諸悪の根源なんだよな。さらに推薦、AO、給費制そして一般の記述式、センター利用方式、科目選択2教科式、併用式…なんだよ、コレ。2学期中盤から騒がしいし、専門学校なんぞ、実質夏休みからエントリーだなんだと…
私立大学はこうして実質1年の1/3は入試日程に追われることになり、本来行うべき「大学生」への講義、研究活動等を事実上休止してしまう。いわゆる3学期の期間は開店休業どころか閉店ガラガラのくせして、その分の『授業料』はあらかじめちゃっかりと徴収済み。学生もこれに抗議するどころか、願ったり叶ったりでバイトに明け暮れる生活になり、大学も学生共に本業をサボってウィンウィンでルンルン、バカを見るのは価値に見合わないバカ高い授業料を払わされる保護者である…が、それにさえ気付かぬ方々も大勢いらっしゃるようだ。
え、大学がルンルンの理由ですか? 教授陣の講義料金がどうなってるのかは知らないけど、「受験」は一大イベントであるがゆえに学生以外からも合法的に金銭を巻き上げる一大イベント、いわば銭ゲバチャンスだもん!
私立大学はざっと30000~35000、平均およそ33000円で、そりゃ志願者をいっぱい勧誘して入試誘導に精魂傾ける理由はちゃんとあるワケだ。国立が17000円(共通テストは18000円)だから、およそその差額は私大の懐にダイレクトインする… のかな?
こりゃ、やめられまへん!!
私立には入試日程で先手を打たれ、公立には科目数の多寡の「少ない方式」で勝負を避けられるため、何らかの特徴でもない限り良質な志願者を確保できなくなってしまうからである。数は確保できたとしても、それは悪い表現をすると『本気の本命』に加えて『他校に落ちた絞りカス』を含む志願者であって、必ずしも歓迎できない側面があるからだ。
志願者目線で見るなら、とりあえず最優先になるのが自分の目前の合格だけであって、ここでいうプライドだの理念などという御託はどうでもよい。一刻もはやく合格通知を手に入れて「明日からの引っ越し先確保競争にも勝利してなんやらかんやらを決めてしまいたい」のが保護者にも共通するホンネなのだ。
以前ならば「学費の面で絶対に国公立」を目指す優秀な学生も多かったが、いまはそこまでの差はなくなってしまった。これも当時の文部省が自らの使命を忘れ、(もともとそこまで必要ないのに儲け目当てで建学した)私大に迎合して補助金を増額する一方で国立大学の学費値上げを続けた弊害である。つまり国立大学の魅力のひとつを自ら摘んでしまったせいとも言えるのだ。
やばい、話はどんどん逸れていくが… もう止められない。
昭和50年。えっと25を足して1975年だな…
先輩から聞いた国立大学の授業料は1年間で3万6千円だった。これを半期1万8千円ずつ払い込むのである。私大の授業料は平均で約5.1倍だったというから約18万4千円だ。
自分の姉は年間9万6千円、数年遅い人々が18万円で、この時は私大平均が約2倍だったというからざっと36万円程度だろう。
以降国立大学も2年おきに数万ずつ上がって平成16年にはなんと約52万5千8百円… だから、ざっと30年で14.6倍もの値上げしていることになる。ちなみにその後の値上げは1回で、現在は53万5百円。ただし独立法人に移行させられた経緯もあり上限120%までの値上げは裁量で認められている。
一方私立は…というと、大学や学部の事情で一概には言い難いが、だいたい均して国立の1.6倍程度が今の目安であるようだ。細かく見ると教材や施設の関係で理系の方がどうしても高い傾向になる。特に医学歯学系は6年間の入学金+授業料+施設設備費の合計が平均で2千300万円を軽く越えるから親にそれなりの財力がないと進学は難しい現実がある。
でもさ、医学部歯学部あとは薬学部(いずれも6年)は脇に置いといて、私大をそこまで優遇する必要はあるのだろうか?
志望のために他の奴らが謳歌した高校時代の青春を擲ち、ひたすら5教科習得の努力と実績を重ねた志願者にこそ、後年の「学費割安という御褒美」があって然るべきではないだろうか… 個人的にはそう思えてしかたないのだが、世の中に出せばこの意見は封殺される。もういいよ、理由はわかり過ぎているから… 日本とい同う国は「平等」を目指そうとはしているけど、決して「公平」ではないからな、ぐすん…
ともかく、「5教科7科目」と「3教科3~4科目」と、どっち負担が大きくて大変か、言わずと知れたことである。これが不平等でないと強弁するには無理がある。
3教科の方が逃げ道があるし集中して学習できるし楽に決まってる。その科目が得意なヒトが集中受験するから必然的に難易度も得点も偏差値も高くなる。競争が激しいほど選抜される得点は高くなり、年度によって異なる平均点よりも、年度が違っても尺度が統一できる「偏差値」で難易度が語られるようになる… それだけの話じゃないか。
しかし世の多くの人々、特に母親連中は偏差値の学問的意味を知らず知ろうともせず、教科数や科目の性質も理解できないままにただただ数値だけの大小で入試レベルだけを判定しようとするのであって… それこそが偏差値の弊害なのだ。
偏差値だけでは人柄や人間的能力なんて少しも分かりはしないのにね。




