ショッピングモールのエアロバイク
あちこちにエアロバイクが設置されている。店頭、通路のど真ん中、トイレの個室。彼はエアロバイクの使用経験はないが、跨り、通常のバイクには付属していない部位を特定の手順で操作し、漕げば、想定されたアクションを行えると信じられる外観をそれらはしている。ハンドルの掌にフィットする形状や、サドルの柔らかくも芯の備わった座り心地、ペダルの回転に伴って生じる微かな機械的な作動音までもを、彼は鮮明に想像できた。
想像が真実なのかは定かではない。彼自身はエアロバイクに乗る気はなく、乗っている者は一度も見かけていない。普通の速度で歩いていれば、一分に一台は見かけるほど大量に置かれているにもかかわらず、一人も利用者がいないのだ。販促用に飾られているだけで利用は不可、というわけではない。その旨を明記した看板などは一度も見かけていないし、仮に乗車が禁じられているのだとしても、それを無視して乗る者、注意書きに気づかずに乗ってしまう者が一人くらいいても不思議ではないのに。
彼がエアロバイクに乗りたいと思わないのは、健康器具全般に対する興味関心がないからだが、利用者が一人もいないという状況に置かれるとますます乗りたくなくなる。その思いの高まりに足並みを揃えて、今自分がいる空間は異常だという認識は強度を増していく。現実世界ではなく夢の中ではないか、という疑念が、いつのころからか彼の脳裏にちらついていた。
おもむろに自らの頬をつねってみると、当たり前の痛みを感じた。ここは現実世界だ。そう思おうとしたが、断定はできない。断定するのは危険だと思う。リアルな痛みを感じる夢だってあるかもしれないではないか。
夢だとしたら、と彼は考える。エアロバイクはなにを表しているのだろう。記憶の変形? なにかの象徴? たしかに私は慢性的に運動不足気味、腹回りの贅肉が気になる年齢に差しかかっているが、辛うじて標準体型を保っている。ダイエットの必要性は感じていないし、他人から体型が崩れているという指摘を受けたこともない。エアロバイクは実は自転車を表している? 私の人生における関与の濃度と頻度を考えれば、そちらの解釈が正しいようにも思えるが、自転車にまつわる特筆するべきエピソードは持ち合わせていない。小学生のころに自転車を走らせていたさいに、飛ばしすぎてカーブを曲がりきれずに転倒してしまい、泣いたこと。高校生のころに近所に大きなサイクルショップがオープンし、買い換える気もないのに店に行ったら、記念に自転車とは全く無関係の粗品をもらったこと。そんなことのなにが特別だというのだろう?
彼はエアロバイクが気になる以前から、自分がショッピングモールに来た目的を見失っていることに気がついていた。由々しき事態だ、という危機感を覚えたものの、解決に導くための行動はいっさいとらないまま今に至っている。いい加減、行動を起こすべきなのかもしれない。目的意識を持って行動していないからこそ、エアロバイクなどという、本来興味のかけらもないものが気になったのだろう。その意味でも、目的を見つけたい。
数々のテナントの前を通り過ぎてきた。ここに来たかったんだ、と思った店は、今のところ一軒もない。店が完全に一致しなくても、本が買いたいのなら本屋に、服を買いたいのなら服屋に、心がなんらかの反応を示したはずだが、今のところ無風。フードコートに差しかかったさいにも、腹の虫が鳴くことも、若い男性が美味そうに頬張っているハンバーガーに目が惹きつけられることもなかった。
買い物に来たわけでなければ、食事をしに来たわけでもない。では、私はなにが目的でこのショッピングモールに来たんだ? 現実だろうが夢だろうが、私がいるのがショッピングモールである意味があるはずだ。
進路にエスカレーターが見えたので、それに乗って階下に下りてみる。降下しながら見下ろした一階にはイベントステージが設けられていて、ステージ上には五色の全身タイツを着てマスクで顔を隠した演者と、同じく五人の黒づくめの演者がいる。
なるほど、イベントに参加するという目的もあるのか。歩くフロアを変えることにしたのは、気分を変えるのが第一の目的だった彼は、この発見に意外な思いがした。
しかし残念ながら、エスカレーターが尽きるよりも先に、ヒーローショーが彼の目的はでないことは確定した。ヒーローたちと悪の怪人がくり広げるアクションはなかなかの迫力があるが、彼はただ「どこの誰が演じているのか知らないけど、けっこう気合い入ってるな。子どもは喜ぶんじゃないか」と他人事のように思うだけで、まったく心が弾まないのだ。
フロアが変わっても私が求めている者は得られないに違いない、と彼は考える。それでいて、ステージ観覧席の最前列に腰を下ろしたのは、歩き通しだったせいで疲れを感じ始めていたが、休憩に利用できそうな店が近くにはないからに他ならない。最前列の席を選んだのは、ゆったりと座れそうな座席がそこしかなかったからであり、ヒーローショー自体に興味があるわけではなかった。
ステージ上の五人のヒーローは五人の怪人に苦戦を強いられている。怪人は造形的に明らかに雑魚キャラで、彼らを倒してもおそらくはボスと戦わねばならないというのに、ヒーローたちはまるで自分たちこそが蹂躙されるべき雑魚敵であるかのように、攻撃を食らうたびに呻いては大げさに吹っ飛んでいる。どうなるのだろうと思いながら見ていると、唐突に天の声が降ってきた。
『たぁいへん! ヒーローたちが大ピンチで、このままだと怪人たちにやられてしまいそう! アルティメット・ビームが撃てるだけのエネルギーが溜まるまで、誰か助っ人を呼んで時間を稼いでもらいましょう! ヒーローたち、観客席に頼りになる人はいないかなぁ?』
ステージ上の十人の動きが停止し、五人のヒーローがいっせいに彼に注目した。唖然とする彼に向かって、レッドがどこか芝居がかった挙動で手招きをする。観客席からまばらながらも好意的な拍手が発生した。他のヒーローたちも同じく手ぶりで彼を呼んだり、マスク越しに熱い眼差しを彼に注いだりしている。
彼にとってまったく予期していない展開だ。しかし同時に、ヒーローショーの存在に気がついた瞬間にこうなる運命だと悟っていたようにも感じる。
レッドがステージから下りて彼を迎える素振りを見せたので、彼は自ら起立する。短い階段を上る足は震えなかった。緊張感はないが高揚感らしきものが胸を満たしている。上がりきると、さっそくレッドが歩み寄ってきて、
「僕たち五人が君にエネルギーを注入する。入れ終わったら、天の声のかけ声に合わせて、拳を怪人たちの方に力強く突き出してほしい。そうすると怪人が吹っ飛ぶ。そこで君の出番はおしまい。天の声が『危ないから、安全な場所に避難して』と言うから、君は指示に従ってくれ。頼んだよ」
耳打ちをしたその声は、彼と同年代の男性のものに聞こえた。うなずくと、五人が彼を取り囲んでいっさいに彼へと掌をかざす。天の声がエネルギーを注入している旨を観覧客にアナウンスする。それからは全てが打ち合わせどおりだった。すなわち、彼が攻撃を放つ。それを食らった怪人たちが吹っ飛ぶ。天の声が助っ人としての役目を見事に果たした彼に感謝を伝え、退避を促す。彼は速やかにステージから下りる。
突発的な強制イベントだったとはいえ、重要な役回りでショーに参加した者として、ヒーローたちの戦いを最後まで見届けるべきだったのかもしれない。しかし彼は、呼ばれるまで座っていた座席を一顧だにせずに素通りし、左右にテナントが店を構える幅広で清潔な通路を進む。人生初の経験をしたことで得た高揚感を処理するには、熱気から遠ざかる方が望ましいと判断からだ。
歩き出してしばらくは、これこそが、私がこのショッピングモールを訪れた理由だと本気で信じた。しかし華やかなステージから一分も遠ざかったころには、彼の胸には影が差している。たしかに、ヒーローショーに貢献できたと思う。子ども時代に戻ったように楽しかったのも認める。でも、それがなにになるというんだ?
弱い衝撃が彼の足を止めさせた。俯きがちに歩いていたため、観葉植物の陰に半ば隠れるようにしておかれていたエアロバイクにぶつかってしまったのだ。その中途半端に近未来的なデザインの黒光りするボディを見た瞬間、彼は唐突に悟った。
エアロバイクに乗っても、現在地からは移動できない。




