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泥の中に

「カミツキガメの捕獲を手伝ってくれ。捕獲作戦の決行日時は明日の朝八時。報酬は弾む。お前の力が必要なんだ、タキタニくん」

 スチール製の手すりが付属しているせいで、座面の両端からはみ出すようにして座ることが物理的に不可能なため、実質よりも狭く感じられるベンチに腰を下ろすや否や、ホンさんは言った。いかにも人のいいおじさんといった笑みを形作る唇の間から、隙間だらけの前歯が広く露出している。

「カミツキガメって、あのカミツキガメですよね。ペットとして飼育していたのが逃げたんですか」

 人を呼び出しておいて、待ち合わせ時間に十五分も遅刻したホンさんに、文句の言葉の一つや二つぶつけてやろうと思っていた僕は、面食らいながらもそう返した。

 僕たちがいる公園では現在、キリスト教系の団体による炊き出しが行われていて、食欲をそそる匂いがベンチまで漂ってくる。僕が待ち合わせ場所に来たときにはすでに提供が始まっていて、まだ昼食をとっていない僕には拷問だった。そのいら立ちも要因となり、ホンさんにきつい言葉をぶつけてしまうに違いないと予想していたのだが、素人の未来予測ほどあてにならないものはないようだ。

 その炊き出しの様子を眺めながら、ホンさんはホンさんらしい飄々とした口調で答える。

「経緯は分からんが、とある池に凶暴なカメがいるから捕まえてくれ、という依頼が入ったんだよ。捕まえたカメは煮るなり焼くなり好きにしていいと言っていたぞ。駆除を役職に依頼したが聞き入れられなくて、困り果てた挙げ句に、なんでも屋のようなことをやっている俺を頼ったという経緯らしい」

「事情は分かりましたが、弾むほどの報酬が出されるかは疑わしいですね。どのくらいの広さの池なのかも気になりますし」

「タキタニくんのその言葉、まるで断るための理由を探しているように聞こえるぞ。女と会う予定でもあるのか」

「ありませんけど、どうせタダ働きに近いことをさせられるのは目に見えていますから。いくらホンさんの頼みとはいえども、僕にも断る権利はありますよ」

「まあまあ、そう喧嘩腰になりなさんな。報酬を弾むと言ったからには報酬を弾む。俺が今まで嘘をついたことがあるか? ん?」

「まあ、失望するような嘘はないですね」

 ただし、小さな嘘は山ほどある。今回の場合だと、たとえば報酬を「弾む」と言っているのだから、ある程度の金額が支払われるのを期待してしまうけど、実際に僕の手に渡るのは千円札一枚、といった肩透かしは普通に起こりそうだ。

「だったら恩返しだと思って手伝ってくれ。大丈夫だ、池はそう広くない。男二人で泥だらけになりながら二・三時間も探せば、きっと見つかるさ。なあ、頼むよ」

 ホンさんはにやけ面を隠そうともせずに、炊き出しの模様を眺めながら言う。とても人に頼みごとをするのにふさわしい態度ではない。しかし、ホンさんが人に頼みごとをするときの態度としては、これ以上にホンさんらしい態度もない。断ればすんなりと諦めるだろうし、断ったことによって僕に不利益が生じることもない。そう理解しつつも、形式的なため息を挟んで僕はこう答えた。

「分かりました。日曜日に予定は入っていないので、手伝いましょう」

「おお、そうか。恩に着るよ」

 ここで初めて僕の方を向いて、隙間だらけの歯を見せつけるように微笑む。まったく、これだからホンさんは憎めない。


 当日、安物の作業着を着込んで現場を訪れると、原っぱのど真ん中にぽっかりと穿たれた池が濁った水をたたえていた。ホンさんは、案の定到着していない。カミツキガメ捕獲の依頼者であるミヤウチさんもまだだ。

「すみません、遅くなりまして」

 待ち合わせ二分前に軽トラが停まったかと思うと、僕が着ているのと似たような作業着を着た若い女性が運転席から下りてきた。昨日電話で会話しているので、声を聞いた瞬間にミヤウチさんだと分かった。彼女は荷台から道具を地面に下ろしながら、

「昨日電話いただいたタキタニさんですね? あとお一人来られるとのことでしたが」

「遅刻ですね。時間にルーズな人なんです。捕獲作業、一人でもできるならさっそく取りかかりたいのですが」

「できますよ。使うのはこの網で――」

 ミヤウチさんの説明によると、カミツキガメは泥に半ば身をうずめるようにして暮らしている。イメージに反して大人しく、攻撃的になるのは外敵に襲われたときだけ。呼吸のために水面に浮上したときを狙ってもいいが、この池の水は濁っているので非効率的だ。もっとも効率がいいのは、泥の中にいるカメを網で探り当て、すくい上げるやり方。泥が重たいし、他の生物や諸々の異物が網に入ることもあるが、ミヤウチさんとしては断然その方法をおすすめしたい。重労働をさせて申し訳ないが、高額の報酬は約束するので、相方が到着するまで一人でがんばってほしい。

 僕はさっそく網を手に池に入る。水はどろっとした感触、水底は藻が生えているらしくぬるぬるしていて、どちらも不快だ。水深は深いところでも成人男性の腰くらい、とミヤウチさんは話していたが、水の中に入って活動するのには慣れていないし、水質が悪く底が見えないため、恐怖は決して弱くない。試しに網で水底の泥をひとすくいしてみると、ミヤウチさんの言ったとおりかなり重い。泥にはたくさんの小石が混じっていて、なるほど重いわけだと一目で納得した。動物らしきものは、残念ながら見当たらなかった。その場に泥を捨て、少し立ち位置を移動してまたすくう。すくったものを目と手で確かめて、カミツキガメがいないのを確認したら泥を戻し、また少し移動して網を泥中に差し込む。それをひたすらくり返す。

 肉体的には着実に疲れるし、作業の単調さはむしろメンタルの方を先に駄目にしてしまいそうだ。僕は体力に自信があるというほどでもないけど、健康体だし、今日は体調がいい。捕まえれば金が手に入るのと、ホンさんから頼まれたという、二種類の奮発材料もある。作業開始から十五分ほどが経った時点でホンさんは到着していないが、彼さえ合流してくれればなんとか乗り切れるだろう。作業スピードは二倍になるし、ホンさんがいてくれるだけでメンタルが削れる速度も大幅に低下する。

 それよりも気になるのは、ミヤウチさんがその場にとどまり続けていること。道具だけ下ろしてこの場を去るのかと思いきや、軽トラの脇に佇んでこちらを窺っている。スマホをいじったり、ときどきその場に屈んで道具を触ったりしているが、視線を僕に注いでいる時間はかなり長い。僕と話したいことがあるが、なんらかの事情が作用したせいで言い出せない、そんな様子にも見える。

 こちらから話しかけるべきか、迷いながら彼女のほうをちらちらと窺っていると、

「あの……。カミツキガメ、いましたか?」

 あちらから声をかけてきた。ずっと手にしていたスマホをいつの間にか仕舞っていて、顔つきは真剣だ。

「いえ、まだです。池は思ったよりも広くないし、根気強く作業を続けていたらすぐに見つかるんじゃないですか。なんなら一人でも大丈夫そうですよ」

「もう一人の方ですけど……」

「ホンさんなら来ますよ。どんなに遅れたとしても必ず来ますから、安心してください。彼は律儀な男ですから」

 懸念を払拭したくてそう答えたのだが、ミヤウチさんは「いえ」と強めの口調で遮った。そして、少々発言をためらうようなそぶりを見せたのちに、

「あの、油断しないでくださいね。カミツキガメって、泥の中で大人しくしているけど、外敵に襲われたときは凶暴になりますから」

「分かっています。ただ、泥の中を手で確認するときに、ちょっと軽率になっていた気もするので、これかはより注意を払いたいと――」

「違うっ!」

 語気を荒らげたので、驚いて言葉を止める。ミヤウチさんはかなり言いにくそうに、しゃべれない自分が自分でももどかしいというように、十秒以上も唇を震わせていたが、とうとう思い切ったようにこう言った。

「勘違いをしているようなので、言わせてください。カミツキガメというのは比喩表現です。この池の底に堆積した泥は、なにかが隠れるのにとても都合がいいですねっ!」

 ミヤウチさんは一・五倍速したような機敏さで軽トラに乗り込み、唸るような音を立ててその場から走り去った。

 僕はしばし呆然と立ち尽くしたのち、真下を見下ろした。真っ暗な泥の大地の表面に、隙間だらけの前歯を見せて微笑むホンさんの顔が浮かび上がっていた。眩しい白さだった。

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