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あの子は少し太った

 あなたとはたまにしかこうして話をしないから、気がつくのに二十年以上もかかってしまったが、あなたは久しぶりに会った人間に「太った?」と尋ねる癖があるようだね。太ったか痩せたかと問われれば、まあ前者だろうな。年齢が年齢だし、運動は定期的にしているけど充分ではないから、どうしても腹回りが出てきてしまう。認めるのが悔しいからこう言うわけじゃないが、あなたがその癖を若いお嬢さん相手に見せていないことを願うよ。

 そうそう。若いお嬢さんと言えば、この前久しぶりにあの子に会ったよ。帰省中だと言っていたね。大学の夏期休暇は基本的にどこも長期間だと思うが、それを考慮に入れても、休暇はすでに終わっている時期だった。なにか事情があって実家に呼び出されたのか、サボって地元に遊びに帰ってきているのか。詳しい事情は訊いていないよ。問わず語りもしなかった。あの子のほうから私に声をかけてきたから、「帰ってきていたの?」と問いを投げかけると、ただ一言「ええ、そうです」と。もともとプライベートの領域を根掘り葉掘り尋ねるような仲じゃないしね。あの子は気さくな性格で、互いの自宅が近いから、年齢に差があるにしては言葉を交わす機会が多いだけであって。

 あの子と話をするのは、というよりも会うこと自体、三年ぶりだった。その間もあの子のご両親とは言葉を交わし、盆と正月には欠かさず帰省しているという情報は得ていたのだが、あの子の姿を見たことはなかったね。地元の友だちと遊ぶなどしていたのだろうね、きっと。しかし、先日はなんの予定も入っていなかったのか、友だちと遊び終わって一人帰宅しているところだったのか。そこのところの事情はとうとう語られなかったが――私は少々先走りすぎたようだから、あの子と三年ぶりに再会したところから仕切り直すとしよう。

 私は健康維持目的で毎日朝夕ウォーキングをするのが日課で、そのときは自宅を出たばかりだった。後方から声をかけられて振り向いたのだが、それは声の主が誰かを確かめるため。掠れているせいで発音がやや不明瞭だったが、若い女性のものなのは耳にした瞬間に分かった。人付き合いが悪い中年男性にとって、若い女性はもっとも縁遠い性別と年齢の組み合わせで、とっさには心当たりが思い浮かばなかったんだよ。

 腰から上を百八十度回した私の視界の中央に映し出されたのは、若い女性。赤の成分の強い茶髪をポニーテルにして、上は純白のブラウスに、下は丈の短い漆黒のスカート。スカートにはベルトがついていて、装飾なのだろう、ピンク色と水色の帯のようなもの膝のすぐ上まで垂れていた。カラーコンタクトを入れているのだろう、藍色の双眸が真っ直ぐに私に注がれていて、目が合うとその子は破顔した。その瞬間だよ、少女があの子だと気がついたのは。最初、こんな片田舎には珍しい、おしゃれな若い子だと思っていたが、あの子が微笑んだ瞬間、「ああ、あの子だ」と正体を悟ったんだ。

 あの子は私のもとに駆け寄ってきて、「お久しぶりです」と上目遣いに微笑みかけた。おや、と私は思った。若者にありがちな、年上で、ただのご近所同士程度の関係性の相手には、敬語ではなくため口をきく子だという認識だったのだが。

 続いて違和感を覚えたのは、体型。彼女は痩身にもかかわらず、今どきの若い女の子らしく体型と体重を気にしていて、私相手にちょっとした立ち話をするときにもダイエットについてよく話した。私の感覚では痩せすぎているくらいだったのに、三年見ないうちにふっくらしている。シルエットが全体的に太くなり、特に顎周りには贅肉がついたようで、そのせいか丸顔に見える。幸せ太りだとか、親元を離れて暮らすうちに食生活が乱れたとか、とっさにいくつか候補は思い浮かんだが、次の瞬間には自らすべて否定した。彼女は顔色が悪く、なにかもっと別の、聞かされる側はしんどく、語る側も笑えない、そんな理由があっての体重増加のような気がしたのだ。

 私が違和感を抱いたことに気がついているのか否か、あの子はそう親しくない顔見知りと久しぶりに会ったときにいかにも話しそうなことを話しはじめた。内容は覚えていない。スカートのベルトから垂れ下がった帯の色まで記憶しているのに、実際に参加した会話の内容をろくに覚えていないのだ。この話の始まりに言及した「帰ってきていたの?」「ええ、そうです」というやりとりを辛うじて覚えているのは、あの日のあの子との会話の中で、私が能動的に発した唯一の言葉だったからだろう。

 記憶に残るものが少なかった要因の一つとして、すでに言及したように、あの子の声が枯れていることが挙げられる。三年前までの彼女は澄んだ声の持ち主だった。積極的に聞きたいと思うほどではないにせよ、聞いているあいだはささやかな幸福感に浸っていられるような、そんな清澄さがあった。それが三年の歳月を経て、明らかに劣化している。アルコールや煙草に毒されたのではない。歌いすぎ、しゃべりすぎが原因でもない。一番しっくり言葉を挙げるとすれば、疲れている。無自覚の慢性的な疲労感が声に影響を及ぼしているように私には感じられた。

 声枯れが疲労のせいなら、少し太った原因もそれだと思われる。疲れたから太る、というロジックにすんなりと呑み込めないものを感じるが、多分その解釈で間違っていない。

 そう結論してしまうと、根本の原因が無性に気になってきた。

 彼女はなぜこうなってしまったんだ? 大学生活のなにが彼女に悪影響を与えたんだ?

 気がつくと、会話そっちのけでその問題について考えていた。しょせんはご近所同士の他愛もない立ち話。適度に、というよりも適当に相槌を打ってさえいれば、あの子が勝手に無内容の言葉を垂れ流してくれる。会話に注ぐ意識はニ十パーセントに抑え、残りの八十パーセントで謎について考察を巡らせば事足りた。

 あの子本人。あの子の家族。近隣住人。彼らから聞いた情報を判断材料にしたかぎり、あの子は明るく、社交的で、アクティブだ。どんな環境、どんな相手でも適応できるタイプ。むしろ大学のような、多種多様な人間が集う場こそ、彼女にとって呼吸のしやすい環境なのではないか。大きな変化だから、適応力と対応力の高そうなあの子でも安泰、というわけではないのだろう。しかし、今私の目の前で見せているような姿になってしまうほど噛み合わないというのは、いささか非現実的ではないか。

 彼女が自ら事情をぺらぺらと話し出すとは思えない。

 知りたいなら、尋ねるしかない。

 しかし果たして、彼女にとって近所に住む男でしかない私が、彼女のプライベートを詮索していいものだろうか。

「じゃあ、わたしはもう行きますね」

 我に返ったとき、あの子は会釈をしているところだった。持ち上げられた顔が私の顔へと向けられ、真顔が微笑をたたえた顔へと変わる。踵を回して立ち去るかと思われたが、彼女は私との距離を詰めて右手になにかを握らせ、私の脇を掠めるようにしてその場を後にした。

 握らされたのは真っ白なメモ用紙だった。四つ折りにされたそれを開いてみる。

『わたしは強いられている。それを拒むと、わたしはわたしではなくなってしまう』


 あの日から、メモにつづられていた言葉の意味を考える人生がはじまった。

 その重荷を背負い続けるのが耐えがたくなって、あなたに声をかけたんだ。

『わたしは強いられている。それを拒むと、わたしはわたしではなくなってしまう』と書いたメモ用紙を右手に握りしめて。

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