惨劇と幸福、ならびにドラゴン
数学の授業が執り行われている。数学教師のモロヅミは黒板に書かれた数式をチョークで叩きながらそれについて解説し、生徒たちは私語を慎んで真面目に話を聞き、数学が死ぬほど苦手な僕はノートの隅に落書きをしている。浮かない顔で頬杖をつき、稚拙な筆致でドラゴンの絵を描いている。ドラゴンはデフォルメがきいていて、胴体の短い蛇に翼と四肢をくっつけたような姿だ。
壁の掛け時計を見上げる。アナログ時計。分針はあと数秒で十四分を指す。もうすぐだ、と思う。
教室の前側の戸がいきなり全開にされる。モロヅミ先生の声がぴたりと止まり、僕を除く教室にいる全員が音源を振り向く。
入ってきたのは、ヒガシムラくん。鬼の形相をした彼は、モロヅミ先生に向かって大量の唾を飛ばしながら、
「お前らのせいで俺の人生は台無しだ! 俺がだめになってしまったのは前らのせいだ! 殺してやる! うあああああああ!」
先生に向かって突進、激しく衝突した瞬間、ヒガシムラくんの肉体は一時停止したように空間上に固着する。彼がいきなり闖入してきたこと自体に気をとられていて誰も気がついていないが、彼は背中に隠すようにして刃渡り十五センチほどの包丁を持っていて、それは衝突時に先生の腹部に深々と突き刺さっている。
そのモロヅミ先生は白目を剥き、腹部に異物を受け入れてからおよそ六秒後、膝からその場に崩れ落ちる。体内から抜け、視界を遮っていた先生の体が床に横倒しになったことで、ヒガシムラくんが両手に把持している包丁の血濡れの刃が生徒たちの目に入る。学級委員長で、惨劇の現場からもっとも近い場所に席があるイイダさんの口から、バンシーのような悲鳴が迸る。それが引き金となり、僕を除く生徒たちはいっせいに悲鳴を上げ、教室の中を逃げまどいはじめた。ヒガシムラくんは目だけを動かしてイイダさんを睨み、四秒遅れで体ごと彼女に向き直り、モロヅミ先生のときに負けず劣らず激しく突進して彼女の首に刃を突き立てる。噴水のように赤い血が迸って天井を汚し、逃げ惑う生徒たちの悲鳴はいっそうヒステリックになる。
加害者も含めて騒々しい中、僕一人だけが冷静だ。いや、冷めていると言うべきか。
「そりゃ無理もないよな。だって、もう何百回もこれをくり返しているんだから」
声に出して呟いたのは、この喧噪の中でひとり言を呟いたところで、未来が僕にとって悪い方には変わらないと分かり切っているから。
ヒガシムラくんが八人を刺し殺し、九人目に斬りかかったところで、ループは殺人鬼が教室に乗り込んでくる五分前に戻る。教室の窓側の最後列、すなわちヒガシムラくんが入ってくるのとはもっとも遠い席の僕に被害は及ばないまま、凶行はリセットされる。回ごとに殺し方や殺す順番は変化するが、殺される人間は必ず八人。最初がモロヅミ先生なのは不動で、次がイイダさんなのも不動。そのあとランダムで――といってもヒガシムラくんが殺すのは手当たり次第だから、席が教室の廊下側前方の生徒に被害は集中、オノダくんやサノさんはほぼ百パーセント犠牲になっているし、逆に僕の席と隣り合うワトウさんやリフくんは未だに一度も殺されていない――六人殺し、九人目を襲おうとした時点でリセット。今まで全てそのパターンだったし、今後もそのパターンから外れることはないだろう。
僕も最初は恐慌に見舞われた。普通に生きてきて、刃物を持った男が教室に闖入してくる事態なんて、そうそうない。ガチで命の危険を感じるような場面、と言い換えてもいいかもしれない。裏返った変な声が出たし、逃げようと椅子を立とうとしたが脚に力が入らなくて床に尻もちをつき、心臓は今にも破裂してしまいそうに激しく拍動した。その場に座り込み、震えながらただ凶行を見守ることしかできなかった。腰が抜けて立てなかったのもあるが、ヒガシムラくんがこの教室に入ってくる前にあらかじめ細工したらしく、教室の後ろ側の戸は開けられなくなっている。開くはずの戸が開かず、今まさに襲われている誰かよりも甲高くて絶望的な悲鳴を上げているクラスメイトを目撃した瞬間、僕の中でその選択肢は消去された。
ループが二十回続いたあたりで、ベランダから逃げるというルートの存在に気がついたが、実質的にはないのも同然だと、気がついた直後に気がついた。ここは四階で、下はコンクリートで固められた地面。普通に落ちれば百パーセントに近い確率で死ぬ。クッションになるものを教室中からかき集めて先に落下予測地点に落としておく、という手もあるにはあるが、そんな悠長なことをしていたら、準備が完了する前に犯人に見つかり、最優先で殺されてしまう。隣の教室のベランダに移動する仕切りは、たしか簡単には外せない仕様になっていたはずだ。防災上の観点からそれはまずいでしょ、と思うのだけど、現実はそうなっているのだから仕方ない。備品や設備の管理が杜撰な高校は日本各地に山ほどあって、その中の一校が僕の通う私立S学園高校だった。それだけの話なのだろう。
逃げるのは実質的に不可能。そしてもちろん、殺人犯を制圧するのは現実的ではない。身体能力も体格も平凡な僕が、刃物を容赦なく生身の人間に突き刺す男を、腕力でねじ伏せられるはずがない。何人かの犠牲を覚悟で数人がかりで立ち向かえば話は別かもしれないが、恐怖に逃げ惑うクラスメイトたちを短時間で結束させるなんて無理ゲーだ。
八人殺すと戻る理由は不明だが、僕は八人殺すまでに彼を止められればループも止まるのではないか、と踏んでいる。ループはヒガシムラくんの闖入から始まっているから、彼とループが密接にリンクしているのは明らかではないか。
ただ、彼を止める方法が思いつかない。
『僕がヒガシムラくんに殺されて、死ぬ。観測者が死ぬことで、ループを観測できなくなり、ループから逃れたことになる』
そんな理屈を考えてみたが、僕は死にたくない。僕が死ぬ、殺される以外の方法でループから脱しなければ、無意味だ。
逃げるのは実質無理、倒すのもだめ。だとしたら思いつくのは、説得しかない。犯行をやめてください、と頼み込むしかない。
ヒガシムラくんは僕のクラスメイトだ。下の名前は知らない。その程度の関係性だった。他のクラスメイトもだいたい僕と同じじゃないかと思う。ヒガシムラくんは孤独だった。孤立していたわけではない。誰かから話しかけられるとかはあったけど、自分から誰かに話しかけることはまずなくて、だいたいいつも一人でいた。たぶん、人付き合いがあまり得意ではないのだろう。クラスメイトと会話するさいの表情がなんだかぎこちなく、話し相手に目を合わせずに俯いていて、使用する言葉数は最小限。なんというか、言葉のキャッチボールを早く切り上げたいオーラが出ていた。
でも、別に気持ち悪いとかじゃなかった。クラスに毎年何人かはいる、大人しめの生徒の一人という感じ。学校という社会では、人付き合いが苦手な人間は損をこうむることが多いが、からかわれるとか、いじめられるとか、そういうシーンは見たことがない。いくら感心がなかったとしても、三か月もクラスメイトとして学校生活を送っていたのだから、なにかしらの異変に気がつけたはずだけど、それがいっさいなかった。自分に近い場所にいた人間から順番に無差別に殺しているし、特定の誰かに酷いことをされた、とかではないんだと思う。
ヒガシムラくんは、なぜこんな血なまぐさい凶行を?
分からない。たぶん、本人に訊いてみるしか真実を知る術はない。
ただ、気乗りはしない。だって、相手は狂った無差別殺人鬼。こちらの言葉に耳を貸してくれるとは思えない。それどころか、話しかけたことで、殺意の矛先が僕へと移行し、殺されてしまう可能性が極めて高い。それなのに、事情を話してくれと願い出る、だって? そんなアホな真似、百万円やると言われてもやりたくない。
『いや、試しにやってみればいいじゃん。どうせ死んでも、あの陰キャくんが八人殺した時点でリセットがかかるんだから』
もう一人の自分がそうアドバイスを送ってきたが、僕は僕が死んだ場合は戻らないんじゃないかと考えている。根拠は、僕がループを把握している唯一の人間、いわば特別な存在だから。実は、生き返るのだとしても死ぬのが怖いから、もっともらしい理由をつけているだけなのかもしれないけど、理由や根拠はともかく、僕はやりたくないと思っている。だから、やらない。
その代わりに、ノートの隅にドラゴンを描く。阿鼻叫喚の巷と化した教室の中で一人冷静沈着に、デフォルメをきかせたドラゴンを描き続ける。
僕はたぶん、ヒガシムラくんよりも幸せな人間なのだろう。




