庭のキノコの存在意義
最後の曲がり角を曲がると、西助は自然と駆け足になる。百メートルを切ったのだから、自宅にはもう着いたのも同然。道中で怖いことや面倒なことが起きる心配もない。もう夏といってもいい蒸し暑さが支配するこの時季、みだりに激しく体を動かしても無駄な汗をかくだけなのだが、それでも彼は走ってしまう。
両親ともに仕事に行っていて無人の自宅には、流行のキャラクターのキーホルダーがついたキーでドアの施錠を解いて入る。二階の自室に駆け上がってランドセルを放り投げると、一階のキッチンに行って冷えたウーロン茶を飲む。その前に、学校に持参した水筒の中をかるくゆすいでから、シンクの洗い桶に入れておくことも忘れてはいけない。たまに一気飲みして空にしたグラスまで桶に浸けてしまうこともあるが、今日は間違えずにダイニングテーブルに置いておく。おやつを食べるときに使用するからだ。
キッチンの隅、保存食品などを置いている棚の真ん中の段、その年齢にしては身長がやや低い西彦でも苦もなく届く棚が、近藤家にけるお菓子置き場になっている。塩味のポテトチップスがあり、バタークッキーがあり、柿の種とピーナツがある。冷蔵庫の中には何種類かのチョコレート類があるのも、ウーロン茶のピッチャーを取り出したさいに確認済みだ。
西助は朝から昼過ぎまでの約十時間、年齢相応に元気に活動したために空腹だ。小腹どころか大腹が空いていると言ってもいい。一口サイズの個包装のものなら一つ、大袋ならひと掴み、食べてから行動に移りたいのが本音だったが、頭を振って未練を振り切り、外へ。楽しみは、やることをやったあとで。それが西助が十年間生きる中で取得した、人生を上手に泳ぐコツの一つだ。
サンダルをつっかけて外に出た西助は、スチール製の物置からじょうろを取り出し、水道でそれに水を入れる。少しふらつく足運びで庭まで行き、横一列に並べられたプランターに水を与えていく。植物の種類は分からない。全て西助の母親が育てていて、ハーブ類だと言っていた。特徴的な芳香がするが、そこはかとなく化粧品を思わせる香りなので、好きかと問われると首を捻ってしまう。ただ、小さくて、色彩鮮やかな花はかわいいと思う。母親手製のハーブ料理は西助も食べるが、彼の表現でいうところの「お店の味」に近い味わいになるため、おおむね好感を持っている。
だからといって、水やりを積極的にやりたいとは思わない。なかなか手間がかかる作業だし、学校から帰宅するとすぐにやらなければならないのがストレスだ。一人息子に試練を科して嫌がらせをしているのではなく、その時間帯でなければならない根拠があるらしいのだが、その根拠の説明を受けたことは一度もない。厳しいが西助を思いやってくれる母親を失望させたくないのと、作業を怠けて叱られるのが怖いのと、「その時間帯に水やりをできるのは西助しかいないから、お願い」という母親の言葉に自尊心をくすぐられたのと。ようするに母親という大切な家族のために、彼はその手伝いに日々殉じていた。
根本の土にかけるように指示されている。それは片時も失念していないが、今日のように空腹の度合いが高い日には、つい雑になりがちだ。全てのプランターには、じょうろに三回水を補充すればやり終えられる。水道まで行くたびに「水はていねいにやらなきゃ。雑にやるとお母さんに怒られる」と自らを戒め、作業を続行するのが彼の中で習慣化していた。
二回目の補充を終え、続きに取りかかろうとした西助は、四つ目のプランターの陰に生えているキノコを認めた。存在は十日目から認知していたが、今日は菓子を食べたい気持ちが強かったせいで、全く頭になかった。軸はエリンギに似てぷっくりと太く、笠はシメジに似た半球形で、しかし色合いは全身明るい茶色という一本。親指よりも少し大きく太いくらいのサイズで、昨日見たときよりもわずかに成長している気がする。最初に発見したときは小指の半分くらいだったから、実際に成長しているのは間違いない。
西助はキノコを発見した日、夕食の席でその存在を家族に報告した。もしかすると毒キノコかもしれない、という懸念があったからだが、
『雨が多いとひとりでに生えてくるのよ。毒があるのだとしても食べなければ無害だから、放っておきなさい』
と、母親。父親は酢豚を黙々と食べていてリアクションは示さなかったが、話は聞こえている状況でのノーリアクションだから、妻と同意見で、付け加えることは特にない、ということなのだろう。
安全だという大人のお墨つきを得たとたん、西助はキノコが全く怖くなくなった。今ではむしろ日々の成長を楽しみにしている。今日もキノコに軽く微笑みかけ、極力雑にならないように残りの植物にも水をやり終えた。
「ポテチ、ポテチ、うすしお~」
水やりの間に食べるものをすっかり決めた西助は、即興の歌を歌いながら家に上がり、素早く手を洗ってリビングのドアを開けた。ソファとテレビの隙間に、全裸にねじり鉢巻きをした男たちと複数台の和太鼓がスタンバイしていて、
「よぉおおおおおおっ、はぁああっ!」
代表者のかけ声を合図に、撥で目の前の太鼓を叩き始めた。一心不乱、一糸乱れぬ乱打。そう広くないリビングのキャパシティを凌駕し、窓ガラスも粉々に破砕させそうな大音量に、西助は回れ右をして廊下を駆け抜け、そのまま家からも飛び出した。
水やりのために庭に出るまではあんな人たちはいなかったのに、いつの間に家の中に? あんな大きな太鼓、どうやって家の中に運び込んだの? ていうか、なにが目的で演奏を? ここは音楽ホールでもなんでもない、ごく普通の一般家庭なのに。
なにがどうなっているんだ? 分からない、分からないよ。助けて、お母さん!
彼が一番頼りにする人を心の中で呼んだ次の瞬間、西助はつまずき、ヘッドスライディングでもするように前のめりに地面に倒れた。肩越しに振り向くと、右足の靴先で見慣れたキノコが根本から折れて地面に転がっている。
玄関方向から漂ってきた汗の臭いに、西助は我に返った。全開にされた玄関ドアを背に、裸の男が地面に屈み、西助の方を見ながらにやにやしている。手に二本の撥が握られているのを見て、和太鼓を叩いていた男の一人だ、と遅まきながら理解する。顔はよく見かけていなかったが、「よぉおおおおおおっ、はぁああっ!」とかけ声を発した男なのかもしれない。
全裸男はおもむろに腰を上げた。すると、西助も同じように立ち上がった。まるで超自然的な力に有無を言わさずに立たされたかのようだ。十歳児の理解を超えた現象を体験し、恐怖するのではなく呆然としてしまう。
全裸男は数歩前進し、足元の地面を掴むような真似をする。西助は自分がさっき追ってしまったばかりのキノコを手にする。全裸男は西助にウインクし、ドラムを叩くように撥を動かす。西助はキノコを持った手となにも持っていない手でエアドラムを叩く。撥を動かすのをやめた全裸男は、片手をメガフォンの横半分を形作るように口の横に添え、言葉の一つ一つに力を込めるようにしてこう言った。
「もう子どもじゃないんだから、どんな事態にも自分で考えて対処しないといけないよぉ」
右手を自らの口の横に宛がった西助は、なにも言えなかった。全裸男はやれやれとばかりに肩をすくめて頭を振り、
「だめだねぇ。やっぱりまだまだ子ども。大人が導いてやらないとねぇ」
全裸男はボトムスを脱ぐしぐさをする。西助の尻が剥き出しになる。和太鼓の音色が庭まで漏れ聞こえてくる中、全裸男はもったいぶるようにゆっくりと、鷲掴みにした撥の先端を自らの尻へと近づけていく。




