晩夏の壁画
「あっちーな。日陰で休みてぇ」
隣を歩く啓吾は顔をしかめながら言った。
晩夏の昼下がり、僕は親友の啓吾といっしょに自然公園を散策している。
名目は一応ピクニックということになっている。ただ、参加者は僕と啓吾の二人。荷物は無駄に多く、大きくなっているが、昼食は各自で済ませたあとに現地集合しているから、あまりピクニック感はない。ピクニックはもっと大人数で、弁当持参で行くべきだ。我が親友に向かってそう主張したところ、
『ピクニックらしくない? なに言ってるんだ、ピクニックはピクニックじゃないか。一泊するならキャンプの方がふさわしい呼び名かもしれないけど』
と、僕が言わんとしていることを理解したうえでとぼけているとも、理解していないともつかない言葉を返してきた。そういうやつなのだ、引地啓吾という男は。
「もう疲れたのか? 駅舎を出てまだ半時間くらいしか経ってないのに」
「もう半時間、だろ。晩夏とはいえ真っ昼間の野外を休みなしで小一時間も歩いていたら、そりゃ疲れるって。荷物だって無駄に重いし」
「僕に言わせれば、啓吾が体力なさすぎるだけだ。電車に乗っているときですらちょっと疲れてたもんな、君は。ていうか、小一時間は半時間じゃないよ。一時間弱っていう意味だ」
「マジで? 半時間から一時間までの間って感覚で使ってたぜ、小一時間って言葉」
「ほんとアホだよな、啓吾は。どこがどうっていうか、全般的にアホ」
「うっせぇな。言うほど悪くないって」
啓吾がアホなやつだからこそ、なにをやるのも楽しいというのは確かにある。すぐに調子づいてウザいから、この場面では褒めないようにしておくが。
僕たちは雑木林の中をあみだくじのように張り巡らされた遊歩道を抜け、だだっ広い広場のような場所に出た。一面芝生で、行く手に小高い山が見える。空気がひんやりとした雑木林の中をずっと歩いていたからか、雲一つない空がやけに青く、日射しがきつく感じられる。案内看板によると、広場を通って山を迂回するルートと、木立を一直線に突っ切って山へ向かうルート、二通りあるが、
「山へ向かうルートだな。ベンチ一つ置かれていない広場を歩いても、退屈なだけじゃね? 絶対に山を目指すべきだ」
啓吾は思案時間を十秒もとらずに意思表示をした。
「奇遇だね、僕もそっちがいいと思う。日の当たる場所を歩くと啓吾はすぐにへばるから」
「いや、ちげーし。面白そうだから山を目指すんだよ。俺の体力とか疲労の度合いとかは関係ねぇ」
「そうだね。そういうことにしておこう」
地面に下ろしていたリュックサックを背負い直し、僕たちは歩き出した。
木立の道は未舗装で、あまり人が通っていないようだ。雑木林の中ほど鬱蒼としていないが、なぜだろう、どんどん人里から遠ざかっている気がする。なにか僕たちにとってよくない出来事が起こる予感がしてならない。人里から離れていることが、人の助けが期待できない場所であることが悪い方に働き、被害が拡大してしまう、そんな悲劇が。
「でさあ、土下座までして謝ったっていうのに、その子は絶対に赦さないの一点張りで――」
啓吾は今回のピクニックとはまったく無関係の、僕が顔を知っている程度の男女にまつわるいざこざについて話している。げらげらと笑いながら、いかにも能天気そうな馬鹿面で。啓吾らしい顔であると同時に、僕が今胸に抱えている不安や懸念を伝えるのを躊躇させる顔でもある。
未来に待ち受けている未知の事象に対するネガティブな感情は、自然消滅しそうにない。だからといって、受け取り手のリアクションがこちらに望むものではなかった場合、もどかしさやストレスなどの余計なものを背負い込むだけだ。啓吾のことはもちろん信頼しているが、こういう繊細な面では信用できない。
かなり迷ったが、僕はけっきょく相槌を打って親友を気持ちよくしゃべらせることに徹した。顔にはおそらく、会話の内容なのか、それとも饒舌に対してなのか、自分にも相手にも白黒つけられない、言いたいことはあるが言うつもりはないというような苦笑が浮かんでいるに違いない。
歩道を取り巻く木々の隙間からは、次第に山が近づいているのが見てとれる。その山の方向へと分岐した細道があった。
「こっち行ってみるか。面白そうだし」
「道とは言えない道をさ迷い歩き続けて、収穫らしい収穫はないまま引き返すパターンだな、これは。啓吾が大嫌いな、無駄に体力を消費するだけの」
「心配性だなぁ。大丈夫だって。俺の嗅覚はこの道が正しいと告げているぜ。友だちを信じろ」
「フラグを立てるようなセリフを言わないでくれよ」
道の体裁を保っていたのは最初の三分だけで、それ以降は雑草が生い茂った樹と樹の間を進む形となる。三分前の威勢のよさはどこへやら、啓吾は不安そうな眼差しをしきりに肩越しに投げかけてくる。迷って道が分からなくなる前に引き返そう、と言おうとしたところで、前方に岩壁が見えた。ぽっかりと穴が穿たれ、底知れぬ闇をたたえた内側を誇示している。
「洞窟だ。へえ、こんなものがあったのか。面白そうだから入ってみようぜ」
「案内看板には洞窟があるなんて書かれていなかった。啓吾、入るのはやめておいた方がよくないか。中にどんな危険があるか分かったものじゃない」
「やばそうだったら引き返せばいいだけの話だろ。びびってんのか? ほら、行こうぜ」
「いや、だから、死亡フラグを立てるような真似は――」
啓吾はスマホのライト機能を頼りに中に踏み込んでいく。人工の光に照らされた友の体が着実に遠ざかっていく。正直、かなり嫌な予感がしたが、啓吾を一人で行動させるのはより危険だ。
「おい、待て。足元気をつけろ」
というわけで、ついていく。
内部はあまりにも暗すぎて、啓吾が灯した明かりでは間に合わず、こちらもスマホを出さなければならなかった。足元は滑りやすいが起伏や凹凸が少なく、慎重に歩きさえすれば進むのに支障はないという感じだ。洞窟というとコウモリが棲息しているイメージだが、それらしき動物は一匹もいない。糞などの生活の痕跡も。
静かなのが却って不気味だ。巨大なアスレチック遊具に挑む子どものようにはしゃいでいた啓吾も、僕が追いついた直後に「ライトがあっても暗いな」と言ったきり、押し黙っている。靴底が地面を踏みしめる音と、明らかに洞窟に入ってから荒くなった呼吸音のみが僕には聞こえている。啓吾にとってもそうであることを願うばかりだ。
たぶん十分も歩いていないだろう、通路が急に尽きて立方体の空間に出た。地形の変化を察した啓吾がその場に足を止め、自身の前方に展開する空間的な広がりをライトで隈なく照らしたので、早々におおまかな形状を掴めたのだ。
「なんだ、ここは……?」
僕たちは顔を見合わせる。光に照らし出された啓吾の顔を見て、彼も自分と同じ違和感を覚えているのが分かった。定規で引かれたよう、という表現がふさわしいほど真っ直ぐなわけではないが、空間は立方体にかなり近い。人の手によって作られた匂いが芬々とするのだ。今いるような洞窟の類に見学に来たことはないが、こういう場所は普通、自然の形のまま手を加えないものなのでは? 加えたとしてもせいぜい、観光客の利便性を考えて、階段や手すりを後付けすることがあるくらいで。
「おい、座ろう。なんか疲れた」
口下手な啓吾は違和感を言語化するのをさっさと諦めたようで、その場に胡坐をかいた。同じく疲れを感じていたが、彼の体力のなさをからかった手前、自分からは言い出せなかった僕は、内心ありがたいと思いながらその場に座る。
啓吾は無自覚の不安に操られるかのようにスマホのライトをあちこちに動かす。その光の輪が不意に止まったかと思うと、驚嘆に値するものが照らし出されたので、僕は思わず小さく叫んでしまった。
「あれは、壁画か?」
壁に模様が描かれている。文字ではなく、絵だ。仏のように胡坐をかき、胸の前で合掌し、しかし顔は首から下と同じくらいに肥大していて、毛むくじゃらで、単眼。画風がそう見せているとか、顔が横を向いているから目が一つしかないように見えるとかではなく、明らかに化け物として描かれている。
「石器時代のように古い時代に描かれたのか、現代アートの作家か誰かが壁画風に描いたのか。どちらにせよ不気味――」
僕は不意にあることに気がついて口をつぐむ。
あんなに動き回っていたライトが、さっきから微動だにしない。壁の絵をじっくり見ているだけかもしれないが、しゃべっているのは啓吾じゃなくて僕ばかり。啓吾は芸術になんて猫の額ほども興味がないのに。
そういえば、壁画の怪物も、今この空間にいる啓吾も、胡坐をかいている。
突然、壁画を照らしていた光が消失した。
僕が持ったスマホのライトは、三メートルほど前方のなにもない地面を明々と照らしている。
心臓が破裂しそうなくらい激しく高鳴っている。恐ろしくて啓吾を振り向けない。
ぐるるるる、という、獲物を狩る肉食動物の唸り声がどこからか聞こえてきた。




