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切れない枠

 ヘッドホンが床で跳ねた音だけが、やけに大きく部屋へ転がった。


 がん、と一度。ケーブルに引かれて、もう一度、小さく机の脚へ当たる。


 私は両手で耳を押さえた。耳から外したのに、まだ聞こえていたからだ。


 すう。


 ヘッドホンの中ではない。


 床でも、机でも、マイクの前でもない。


 私の首の後ろ、髪の生え際に、誰かが口を寄せて息を吸っている。


 画面の右下で、配信時間が進んでいた。二十三分四十四秒。四十五秒。四十六秒。


 視聴者数は、さっきまで八百人を超えていた。今は九百十二人。コメントは速すぎて読めない。


 『ヘッドホン外した?』

 〈音した〉

 『大丈夫?』

 〈切って切って切って〉

 『ねむちゃん後ろ絶対見るな』

 〈ヤモリ:終了ボタンを押して〉


 「終わります。今、終わります」


 声が震えた。ASMR用の小さな声ではなかった。寝る前の誰かに届ける声ではなく、自分を保つための声だった。


 マウスに手を伸ばす。


 すう。


 息が、私の動きに合わせて近づいた。椅子の背もたれと背中の間、指一本のすき間に、冷たい呼吸が差し込まれる。背筋が勝手に丸まった。


 終了ボタンにカーソルを合わせる。赤いボタン。いつもならクリックして、確認窓を押して、それで終わり。


 カチ。


 押した。


 何も起きない。


 配信時間は二十三分五十八秒。五十九秒。


 『切れてない』

 〈まだ映ってる〉

 『押したよね?』

 〈音声きてる〉

 『ねむちゃんの声は聞こえる』


 「……なんで」


 もう一度押す。カチ。カチ。


 確認窓は出ない。ボタンだけが一瞬暗くなって、すぐ元に戻る。まるで私が押した事実だけをなかったことにするみたいに。


 すう。


 息が、私の右耳のすぐ後ろへ移動した。


 今までの音には距離があった。壁のあたり、マイクの前、床の隅。定位で追えた。怖くても、音の場所を考えられた。


 今は違う。


 場所を考える前に、皮膚が反応している。耳の裏の産毛が、呼吸の形に倒れる。吸う息なのに、吐かれたみたいに冷たい。


 私は息を止めた。


 すう。


 私ではない息が、止まらない。


 『息音ないよ』

 〈ねむちゃん息して〉

 『顔白い』

 〈無音なのが怖い〉

 『ヤモリ:聞こえているのは、ねむさんだけです』


 そのコメントを読んだ瞬間、喉の奥が狭くなった。


 聞こえているのは、私だけ。


 でも、画面の向こうの人たちは、私が聞いている顔を見ている。私が何もない背後に怯えて、何もない場所から逃げようとしているところだけを、九百人以上が見ている。


 「配信、切れません。ボタンが、反応しないです」


 言いながら、スマホを掴んだ。配信管理のアプリからなら落とせるかもしれない。手が汗で滑って、ケースの縁が鳴った。


 スマホ画面に通知が並んでいる。配信中。コメント通知。投げ銭の通知。心配するDM。


 アプリを開く。


 管理画面の終了ボタンを押す。


 画面が、一瞬だけ黒くなった。


 息が止まった。


 部屋が完全な無音になる。


 冷蔵庫の低い唸りも、外の車も、パソコンのファンも、全部遠くに引いた。耳鳴りすらない。音が消えたのではなく、部屋ごと綿で包まれたみたいだった。


 スマホに文字が出た。


 通信エラー。


 同時に、PCの画面でコメントが弾けた。


 『戻った』

 〈一瞬止まった〉

 『今映像だけ固まった』

 〈切れてない!〉

 『ねむちゃん聞こえる?』


 すう。


 今度の息は、左耳の中で鳴った。


 耳の外ではない。鼓膜の手前に、誰かの呼吸が直接置かれたみたいな音だった。


 私は反射的に左耳を塞いだ。意味はなかった。手のひらの内側で、息だけがはっきり膨らむ。


 すう。


 ……すう。


 二回目は、少し長い。


 私の名前を呼ぶ前に、息を整えている。


 そう思ってしまった瞬間、膝が震えた。


 「ヤモリさん」


 コメント欄に向かって、私は初めて助けを求める声を出した。


 「ナナさんの時も、こうでしたか。配信、切れなかったんですか」


 コメントの流れが、少しだけ変わった。面白がる文が消えていく。かわりに短い言葉ばかりになる。


 『ナナの時?』

 〈やっぱり同じ〉

 『ヤモリ答えて』

 〈ねむちゃんもうPC落として〉

 『電源長押し』

 〈ブレーカーは?〉


 私はPC本体へ手を伸ばした。


 机の下。青い電源ランプ。長押しすれば、少なくとも配信は止まる。強制終了は機材に悪い。データが飛ぶ。明日の配信準備が面倒になる。


 そんな現実的な心配が一瞬だけ頭をよぎって、自分でぞっとした。


 この期に及んで、私はまだ配信のことを考えている。


 生活のため。家賃のため。待ってくれている人のため。


 でも、もう違う。


 これは、続けていい枠じゃない。


 私は身をかがめ、電源ボタンへ指を伸ばした。


 その時、床に落ちていたヘッドホンから音がした。


 ざ……。


 衣擦れ。


 小さく、乾いた布が床を擦る音。


 私は固まった。


 ヘッドホンは床にある。イヤーパッドは上を向いている。そこから聞こえるなら、音は床から鳴っているはずだった。


 でも違う。


 その衣擦れは、私の背中の高さで鳴っていた。ヘッドホンのスピーカーから出ているのに、音の位置だけが、私の真後ろに貼りついている。


 さり。


 近い。


 さり。


 もっと近い。


 布が私の服に触れないぎりぎりのところを、ゆっくり通り過ぎる。


 コメント欄がまた荒れた。


 『今なんか音した』

 〈聞こえた?〉

 『いやヘッドホンの音?』

 〈床のやつ鳴ってる〉

 『ねむちゃん動かないで』

 〈ヤモリ:長押ししないで〉


 長押ししないで。


 私は指を止めた。


 「なんで」


 声が、喉に引っかかった。


 『ヤモリ:ナナはそこで落としました』


 画面の文字がにじむ。


 『ヤモリ:落としたあと、戻ってきませんでした』


 部屋の温度が一段下がった気がした。


 PCを落とせば終わる。そう思っていた逃げ道が、急に床の穴みたいに見えた。押したら止まるのではなく、押した瞬間に何かが切り替わる。そんな確信だけが、理由もなく胸に落ちる。


 「じゃあ、どうすればいいんですか」


 自分でも驚くくらい、弱い声だった。


 すう。


 返事の代わりに、呼吸がした。


 今度は後ろではない。


 私の口元のすぐ横。


 同じマイクに向かって、隣で誰かが息を吸っている。


 配信ソフトの音声メーターが、私が喋っていないのに黄色まで跳ねた。


 コメントが止まった。


 一秒。


 二秒。


 それから、遅れて流れ始める。


 『今メーター動いた?』

 〈音はない〉

 『ねむちゃん喋った?』

 〈無音なのに反応してる〉

 『こわいこわいこわい』


 私はマイクから顔を離そうとした。


 椅子が動かない。


 違う。椅子ではない。私の肩が、後ろから軽く押さえられている。


 重さはない。手の形もない。ただ、服の布だけが、肩のところで誰かの指に摘ままれたように引かれている。


 さり。


 私のパーカーの肩が鳴った。


 その音だけは、配信に乗った。


 『今の聞こえた』

 〈服の音〉

 『触られた?』

 〈ねむちゃん逃げて〉

 『ヤモリ:名前を返さないで』


 名前を返さないで。


 意味を考える前に、耳元で息が深くなった。


 すうう。


 長い。


 さっきより長い。


 私の声を真似するために、肺いっぱいに空気を入れているみたいだった。


 「……やめて」


 マイクに入らないくらい小さく言ったつもりだった。


 けれどメーターは赤に触れた。


 その瞬間、視聴者数が落ちた。


 九百三十六。


 八百四十。


 六百二。


 数字が、故障したカウンターみたいに減っていく。コメントも途切れ途切れになった。


 『あれ』

 〈落ちた?〉

 『画面変』

 〈コメント送れない〉

 『ねむちゃん』


 四百。


 百七十。


 三十二。


 部屋の無音が濃くなる。人が減るたびに、画面の向こうの熱が剥がれていく。いつも私を一人にしなかったコメント欄が、空白を増やしていく。


 「待って、いなくならないで」


 言ってから、泣きそうになった。


 誰に向かって言ったのか分からなかった。視聴者にか、ヤモリさんにか、それとも後ろの誰かにか。


 視聴者数が、三になった。


 二。


 一。


 コメント欄には、最後の一人の名前だけが残った。


 『ヤモリ:ねむさん、今からナナの最後の枠と同じ画面になります』


 配信画面が勝手に拡大された。手元しか映していないはずなのに——画面の中央で、私の顔が、こちらを見て固定されていた。顔出しなんて、一度もしたことがないのに。


 そして私の背後、何も映っていないはずの暗い壁から、配信には乗らない声が、初めてはっきりと耳の中へ入ってきた。


 「ねむ、かわって」


(第10話へ続く)

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