最後のアーカイブ
かわって。
その四文字が、耳の奥で湿ったまま残っていた。
私は椅子から立てなかった。肩にあった軽い圧は消えたのに、体の芯だけがまだ誰かに押さえられているみたいだった。配信画面には、映るはずのない私の顔が大きく映っている。カメラは手元しか向いていないのに。青白い頬。固まった口元。それは、じっとこちらを見ていた。視聴者数は一。
コメント欄の流れは、もう流れと呼べるものではなかった。
『ヤモリ:声に返事をしないで』
『ヤモリ:今から送るものを見てください』
『ヤモリ:音は小さくしないで』
「……見たら、どうなるんですか」
声が震えて、マイクのランプが赤く揺れた。私の声だけなら当然の反応だ。でもそのすぐあと、私が息を止めているのに、メーターの底が薄く震え続けた。
すう。
ヘッドホンは床に落ちたままだ。なのに、音は耳の中にある。右でも左でもなく、頭蓋骨の内側に薄い膜を張って、その向こうから誰かが息をしている。
『ヤモリ:ナナの最後の枠です』
コメント欄に、短縮URLではない長い文字列が貼られた。古い動画サイトのアーカイブ。タイトルは文字化けしていて読めない。ただサムネイルだけは、暗い部屋に置かれたマイクと、画面の端に映る白いカーテンが見えた。
私の部屋だった。
正確には、私の部屋と同じ間取り。同じ壁紙。同じ窓の位置。同じ、机を置くしかない狭い角。
「これ……」
『ヤモリ:見ないと終わり方が分かりません』
『ヤモリ:僕は途中で逃げました』
逃げました。
その言葉だけが、ひどく人間らしかった。画面の向こうにいる最後の一人も、昔、怖くなって目をそらしたのだと思った。責める気持ちは湧かなかった。今の私だって、できるなら何も見ずに布団へ潜りたい。
でも、配信は切れない。
マウスを握る指が汗で滑る。クリック音を拾わないよう、いつものASMRの癖でそっと押した。アーカイブが別ウィンドウで開く。再生バーは二時間十一分。視聴回数は少ない。説明欄は空白。
再生を押す前に、私は画面右上の自分のライブを見た。まだ配信中。視聴者数一。音声メーターは、無音の底で細く震えている。
「皆さん……じゃないか。ヤモリさん、聞こえてますか」
『ヤモリ:います』
その一言で、私は再生ボタンを押した。
ザー、という古いノイズが鳴った。続いて、若い女の人の囁き声。
「こんばんは、ナナです。今日は、耳かきの音と、少しだけタッピングをします」
声が柔らかかった。作った甘さではなく、眠れない人に毛布をかけるみたいな声。私は一瞬、怖さを忘れた。これがナナさん。私の前に、この部屋で、深夜にマイクへ向かっていた人。
コメント欄も古いまま再現されていた。
『ナナちゃん待ってた』
〈今日も声ちいさくて助かる〉
『寝落ち準備』
〈ヤモリ:こんばんは〉
そこに、ヤモリさんの名前があった。
胸の奥がきゅっと縮む。今と同じ名前。同じ深夜。同じ部屋。違うのは、画面の中の人が私ではないことだけ。
ナナさんは楽しそうに笑って、コルクを爪で叩いた。こつ、こつ、こつ。配信者の手つきだった。一定の間隔。近すぎない距離。音量も綺麗に整っている。
再生開始から二十三分。最初の異変が来た。
ナナさんが、ふと瞬きを止めた。
「……今、私、息うるさかった?」
古いコメントが流れる。
『聞こえないよ』
〈大丈夫〉
『環境音?』
〈何もない〉
私の喉が詰まった。
同じだ。
配信には乗っていない。でも彼女だけが聞いている。アーカイブの音声には、ナナさんの囁きと机の音しかない。それなのに、私の耳の奥では、彼女の問いに重なるように別の呼吸がした。
すう。
今の部屋の呼吸なのか、アーカイブの向こうの呼吸なのか、分からなかった。
「ヤモリさん、これ、何分からですか」
『ヤモリ:一時間過ぎから同じになります』
同じになります。
私は再生バーを掴んだ。指が震えて、少し行き過ぎる。動画の画面が暗転し、次の瞬間、ナナさんの顔が戻った。さっきより表情が硬い。
「ごめんね、変なこと言って。続けます」
こつ、こつ。
タッピングのリズムが戻る。
その裏で、かすかな布の音がした。
さり。
私は息を止めた。アーカイブの音声ではない。配信ソフトのモニターでもない。床に落ちたヘッドホンのほうから、今、確かに同じ衣擦れが鳴った。
画面の中のナナさんも、同じタイミングで肩を強張らせる。
「布、触りました?」
古いコメント。
『触ってないよね?』
〈何も聞こえん〉
『ナナちゃん大丈夫?』
〈ヤモリ:配信切った方がいい〉
私は現在のコメント欄を見た。
『ヤモリ:その時は、まだ僕も切れと言っていました』
「その時は?」
返事はすぐには来なかった。
アーカイブでは、ナナさんが笑おうとしていた。口角だけ上げて、声を柔らかく戻そうとする。その顔が痛かった。怖くても切れない配信者の顔だった。待っている人がいる。収入がいる。急に終われば心配される。そんな理由を、彼女もきっと一つずつ積み上げて、自分を椅子へ縛っていた。
私は再生バーをさらに進めた。一時間四十二分。
音の空気が変わった。
ナナさんの部屋で、足音がした。
とん。
アーカイブのスピーカーからは聞こえない。けれど私のモニターには、左後方、窓の近くから、畳ではない床を踏む音が届いた。
とん。
今度は少し右。
とん。
背後。
ナナさんがマイクの前で固まる。画面の中の彼女の瞳が、カメラではなくモニターの波形を見ているのが分かった。私と同じ場所を見ている。
古いコメントが熱を帯びる。
『今メーター動いた?』
〈音ないのに?〉
『ナナちゃん喋った?』
〈怖いからやめよ〉
〈ヤモリ:名前呼ばれても返事しないで〉
私は唇を噛んだ。
「あなた、知ってたんじゃないですか」
現在のコメント欄に打ち込まれるまでの一秒が、ひどく長かった。
『ヤモリ:全部は知らなかった』
『ヤモリ:でも最後まで見ていれば、たぶん止められた』
ナナさんのアーカイブで、彼女が急に顔を上げた。
「今、名前……」
声が細い。
「私の名前、呼びました?」
私の耳元で、同時に囁きが膨らんだ。
ねむ。
アーカイブの中では、たぶんナナ、と呼ばれていたはずだ。けれど私のモニターに届いたのは私の名前だった。古い動画を再生しているだけなのに、音だけが現在の私に合わせている。
腕に鳥肌が立つ。
視聴者数は一のまま。けれどコメント入力欄の横で、接続状態の表示だけが何度も点滅していた。外へ繋がっているのか、内側へ落ちているのか分からない。
ナナさんは、そこで配信を終わらせようとした。
「ごめん、今日はここまでにします。ちょっと、体調が」
画面の端のカーソルが終了ボタンへ動く。
その瞬間、映像が乱れた。
ざざ、とノイズが走る。ナナさんの手が止まる。肩が後ろへ引かれる。見えない力ではなく、パーカーの布だけがつままれて、ほんの少し沈む。
私の右肩でも、同じところの布が鳴った。
さり。
「ひっ」
声が漏れた。自分の配信のメーターが赤く跳ねる。古いアーカイブのナナさんも、まったく同じタイミングで短く息を吸った。
画面が二つあるのに、音が一つになっていく。
ナナさんが言う。
「やめて」
私の口からも、同じ言葉が出かけた。寸前で噛み殺す。名前を返さないで。返事をしないで。言葉を合わせたら、何かが繋がる。
『ヤモリ:ここから先を見てください』
『ヤモリ:止めないで』
アーカイブの再生時間は、二時間十分快。最後まで一分もない。
ナナさんの視聴者数が、動画の中で減っていく。九百台から、七百、四百、百。第九話の私と同じ落ち方だった。コメントが飛び、悲鳴みたいな文字列だけが残る。
『切って』
〈止まった〉
『ナナちゃん返事して』
〈ヤモリ:名前を返さないで〉
そして、最後の一人になる。
古い画面にも、今の画面にも、ヤモリの名前だけが残った。
ナナさんはマイクの前で、ゆっくり息を吸った。彼女の背後の壁には何も映っていない。けれどヘッドホンの内側では、誰かが彼女のすぐ横に立つ音がした。足音ではない。もう歩いていない。そこにいる。
ナナさんの唇が震える。
「かわって、って言ってる」
私の心臓が一拍抜けた。
アーカイブの音声には、その相手の声は入っていない。けれど私の耳には、はっきり聞こえた。
ナナ、かわって。
昔の名前。
続いて、今の声。
ねむ、かわって。
二つの囁きが左右から重なり、私の頭の真ん中で一つになった。
ナナさんは、カメラの少し下を見た。そこにはたぶん、自分の配信画面があった。彼女は震える指でキーボードに触れ、何かを打ち込んだ。
古いコメント欄に、一行だけ投稿される。
『ナナ:次の人に、最後まで見せて』
私は呼吸を忘れた。
「次の人って……」
その時、現在のコメント欄に新しい行が出た。
ヤモリさんではなかった。
表示名は、灰色のまま消えかけた古いアカウント。
『ナナ:ねむさん、声を出さないで。あなたのマイク、もうこっちに開いてる』
直後、私の配信ソフトの録画フォルダに、作った覚えのないファイルが一つ増えた。
ファイル名は、今夜の日付ではなかった。
「nana_last_to_nemu.wav」
(第11話へ続く)




