表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/12

最後のアーカイブ

 かわって。


 その四文字が、耳の奥で湿ったまま残っていた。


 私は椅子から立てなかった。肩にあった軽い圧は消えたのに、体の芯だけがまだ誰かに押さえられているみたいだった。配信画面には、映るはずのない私の顔が大きく映っている。カメラは手元しか向いていないのに。青白い頬。固まった口元。それは、じっとこちらを見ていた。視聴者数は一。


 コメント欄の流れは、もう流れと呼べるものではなかった。


 『ヤモリ:声に返事をしないで』

 『ヤモリ:今から送るものを見てください』

 『ヤモリ:音は小さくしないで』


 「……見たら、どうなるんですか」


 声が震えて、マイクのランプが赤く揺れた。私の声だけなら当然の反応だ。でもそのすぐあと、私が息を止めているのに、メーターの底が薄く震え続けた。


 すう。


 ヘッドホンは床に落ちたままだ。なのに、音は耳の中にある。右でも左でもなく、頭蓋骨の内側に薄い膜を張って、その向こうから誰かが息をしている。


 『ヤモリ:ナナの最後の枠です』


 コメント欄に、短縮URLではない長い文字列が貼られた。古い動画サイトのアーカイブ。タイトルは文字化けしていて読めない。ただサムネイルだけは、暗い部屋に置かれたマイクと、画面の端に映る白いカーテンが見えた。


 私の部屋だった。


 正確には、私の部屋と同じ間取り。同じ壁紙。同じ窓の位置。同じ、机を置くしかない狭い角。


 「これ……」


 『ヤモリ:見ないと終わり方が分かりません』

 『ヤモリ:僕は途中で逃げました』


 逃げました。


 その言葉だけが、ひどく人間らしかった。画面の向こうにいる最後の一人も、昔、怖くなって目をそらしたのだと思った。責める気持ちは湧かなかった。今の私だって、できるなら何も見ずに布団へ潜りたい。


 でも、配信は切れない。


 マウスを握る指が汗で滑る。クリック音を拾わないよう、いつものASMRの癖でそっと押した。アーカイブが別ウィンドウで開く。再生バーは二時間十一分。視聴回数は少ない。説明欄は空白。


 再生を押す前に、私は画面右上の自分のライブを見た。まだ配信中。視聴者数一。音声メーターは、無音の底で細く震えている。


 「皆さん……じゃないか。ヤモリさん、聞こえてますか」


 『ヤモリ:います』


 その一言で、私は再生ボタンを押した。


 ザー、という古いノイズが鳴った。続いて、若い女の人の囁き声。


 「こんばんは、ナナです。今日は、耳かきの音と、少しだけタッピングをします」


 声が柔らかかった。作った甘さではなく、眠れない人に毛布をかけるみたいな声。私は一瞬、怖さを忘れた。これがナナさん。私の前に、この部屋で、深夜にマイクへ向かっていた人。


 コメント欄も古いまま再現されていた。


 『ナナちゃん待ってた』

 〈今日も声ちいさくて助かる〉

 『寝落ち準備』

 〈ヤモリ:こんばんは〉


 そこに、ヤモリさんの名前があった。


 胸の奥がきゅっと縮む。今と同じ名前。同じ深夜。同じ部屋。違うのは、画面の中の人が私ではないことだけ。


 ナナさんは楽しそうに笑って、コルクを爪で叩いた。こつ、こつ、こつ。配信者の手つきだった。一定の間隔。近すぎない距離。音量も綺麗に整っている。


 再生開始から二十三分。最初の異変が来た。


 ナナさんが、ふと瞬きを止めた。


 「……今、私、息うるさかった?」


 古いコメントが流れる。


 『聞こえないよ』

 〈大丈夫〉

 『環境音?』

 〈何もない〉


 私の喉が詰まった。


 同じだ。


 配信には乗っていない。でも彼女だけが聞いている。アーカイブの音声には、ナナさんの囁きと机の音しかない。それなのに、私の耳の奥では、彼女の問いに重なるように別の呼吸がした。


 すう。


 今の部屋の呼吸なのか、アーカイブの向こうの呼吸なのか、分からなかった。


 「ヤモリさん、これ、何分からですか」


 『ヤモリ:一時間過ぎから同じになります』


 同じになります。


 私は再生バーを掴んだ。指が震えて、少し行き過ぎる。動画の画面が暗転し、次の瞬間、ナナさんの顔が戻った。さっきより表情が硬い。


 「ごめんね、変なこと言って。続けます」


 こつ、こつ。


 タッピングのリズムが戻る。


 その裏で、かすかな布の音がした。


 さり。


 私は息を止めた。アーカイブの音声ではない。配信ソフトのモニターでもない。床に落ちたヘッドホンのほうから、今、確かに同じ衣擦れが鳴った。


 画面の中のナナさんも、同じタイミングで肩を強張らせる。


 「布、触りました?」


 古いコメント。


 『触ってないよね?』

 〈何も聞こえん〉

 『ナナちゃん大丈夫?』

 〈ヤモリ:配信切った方がいい〉


 私は現在のコメント欄を見た。


 『ヤモリ:その時は、まだ僕も切れと言っていました』


 「その時は?」


 返事はすぐには来なかった。


 アーカイブでは、ナナさんが笑おうとしていた。口角だけ上げて、声を柔らかく戻そうとする。その顔が痛かった。怖くても切れない配信者の顔だった。待っている人がいる。収入がいる。急に終われば心配される。そんな理由を、彼女もきっと一つずつ積み上げて、自分を椅子へ縛っていた。


 私は再生バーをさらに進めた。一時間四十二分。


 音の空気が変わった。


 ナナさんの部屋で、足音がした。


 とん。


 アーカイブのスピーカーからは聞こえない。けれど私のモニターには、左後方、窓の近くから、畳ではない床を踏む音が届いた。


 とん。


 今度は少し右。


 とん。


 背後。


 ナナさんがマイクの前で固まる。画面の中の彼女の瞳が、カメラではなくモニターの波形を見ているのが分かった。私と同じ場所を見ている。


 古いコメントが熱を帯びる。


 『今メーター動いた?』

 〈音ないのに?〉

 『ナナちゃん喋った?』

 〈怖いからやめよ〉

 〈ヤモリ:名前呼ばれても返事しないで〉


 私は唇を噛んだ。


 「あなた、知ってたんじゃないですか」


 現在のコメント欄に打ち込まれるまでの一秒が、ひどく長かった。


 『ヤモリ:全部は知らなかった』

 『ヤモリ:でも最後まで見ていれば、たぶん止められた』


 ナナさんのアーカイブで、彼女が急に顔を上げた。


 「今、名前……」


 声が細い。


 「私の名前、呼びました?」


 私の耳元で、同時に囁きが膨らんだ。


 ねむ。


 アーカイブの中では、たぶんナナ、と呼ばれていたはずだ。けれど私のモニターに届いたのは私の名前だった。古い動画を再生しているだけなのに、音だけが現在の私に合わせている。


 腕に鳥肌が立つ。


 視聴者数は一のまま。けれどコメント入力欄の横で、接続状態の表示だけが何度も点滅していた。外へ繋がっているのか、内側へ落ちているのか分からない。


 ナナさんは、そこで配信を終わらせようとした。


 「ごめん、今日はここまでにします。ちょっと、体調が」


 画面の端のカーソルが終了ボタンへ動く。


 その瞬間、映像が乱れた。


 ざざ、とノイズが走る。ナナさんの手が止まる。肩が後ろへ引かれる。見えない力ではなく、パーカーの布だけがつままれて、ほんの少し沈む。


 私の右肩でも、同じところの布が鳴った。


 さり。


 「ひっ」


 声が漏れた。自分の配信のメーターが赤く跳ねる。古いアーカイブのナナさんも、まったく同じタイミングで短く息を吸った。


 画面が二つあるのに、音が一つになっていく。


 ナナさんが言う。


 「やめて」


 私の口からも、同じ言葉が出かけた。寸前で噛み殺す。名前を返さないで。返事をしないで。言葉を合わせたら、何かが繋がる。


 『ヤモリ:ここから先を見てください』

 『ヤモリ:止めないで』


 アーカイブの再生時間は、二時間十分快。最後まで一分もない。


 ナナさんの視聴者数が、動画の中で減っていく。九百台から、七百、四百、百。第九話の私と同じ落ち方だった。コメントが飛び、悲鳴みたいな文字列だけが残る。


 『切って』

 〈止まった〉

 『ナナちゃん返事して』

 〈ヤモリ:名前を返さないで〉


 そして、最後の一人になる。


 古い画面にも、今の画面にも、ヤモリの名前だけが残った。


 ナナさんはマイクの前で、ゆっくり息を吸った。彼女の背後の壁には何も映っていない。けれどヘッドホンの内側では、誰かが彼女のすぐ横に立つ音がした。足音ではない。もう歩いていない。そこにいる。


 ナナさんの唇が震える。


 「かわって、って言ってる」


 私の心臓が一拍抜けた。


 アーカイブの音声には、その相手の声は入っていない。けれど私の耳には、はっきり聞こえた。


 ナナ、かわって。


 昔の名前。


 続いて、今の声。


 ねむ、かわって。


 二つの囁きが左右から重なり、私の頭の真ん中で一つになった。


 ナナさんは、カメラの少し下を見た。そこにはたぶん、自分の配信画面があった。彼女は震える指でキーボードに触れ、何かを打ち込んだ。


 古いコメント欄に、一行だけ投稿される。


 『ナナ:次の人に、最後まで見せて』


 私は呼吸を忘れた。


 「次の人って……」


 その時、現在のコメント欄に新しい行が出た。


 ヤモリさんではなかった。


 表示名は、灰色のまま消えかけた古いアカウント。


 『ナナ:ねむさん、声を出さないで。あなたのマイク、もうこっちに開いてる』


 直後、私の配信ソフトの録画フォルダに、作った覚えのないファイルが一つ増えた。


 ファイル名は、今夜の日付ではなかった。


 「nana_last_to_nemu.wav」


(第11話へ続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ