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マイクの内側

 録画フォルダに増えたファイル名を、私はしばらく読めなかった。


 nana_last_to_nemu.wav。


 画面の白い文字が、深夜の部屋でひどく平坦に光っている。作成時刻は今だった。容量はたったの二十七秒。なのに更新日時だけが、ナナさんの最後の配信の日付になっていた。


 配信ソフトはまだ落ちていない。


 視聴者数は一。


 コメント欄には、ヤモリさんの名前が残っていた。さっき現れたナナさんの灰色のアカウントは、もう消えている。投稿だけが残り、そこに息をしているみたいにカーソルが点滅していた。


 『ヤモリ:開かないで』

 『ヤモリ:でも、たぶん開かないと終わらない』

 〈接続が不安定です〉


 矛盾した二行に、私は笑いそうになった。笑えるはずがないのに、喉の奥が勝手にひきつった。


 ヘッドホンの中で、ひゅ、と小さく空気が鳴った。


 左でも右でもない。


 後ろでも、窓際でも、床でもない。


 音は、私の声を拾っているコンデンサーマイクの、もっと奥から聞こえた。銀色のメッシュの向こう。黒いスポンジの下。薄い膜の裏側に、誰かの口がぴたりと寄っているみたいな距離だった。


 吸う音ではない。


 吐く音でもない。


 マイクの中で、息が待っていた。


 私は反射的にゲインを下げた。つまみを左に回す。配信ソフトのメーターが青から緑に落ちる。自分の呼吸は小さくなった。机の上のスマホを指で叩く音も、かすかになった。


 けれど、その息だけは変わらなかった。


 ヘッドホンの中心で、同じ大きさのまま、すう、と鳴る。


 『ヤモリ:マイク切って』

 〈ミュート押して〉

 『ヤモリ:ねむさん、声は出さないで』


 声を出さないで。


 私は頷いた。誰にも見えないくらい小さく。


 口を閉じ、配信ソフトのマイクミュートをクリックする。アイコンが赤くなる。普通なら、これで何も拾わない。私の配信は無音になる。リスナーに聞こえるのは、通信の圧縮ノイズだけになるはずだった。


 ヘッドホンの中で、息が近づいた。


 音量ではなく、質感が変わる。


 今までは部屋にいる誰かの呼吸だった。壁や床に触れ、空気を少しだけ震わせる音だった。けれど今は違う。耳の外側を通らない。鼓膜の手前に置かれた小さな袋の中で、息だけが膨らんで、縮む。


 すう。


 ふう。


 私のミュート表示は赤いまま。


 それなのに、メーターの一番下が、薄く震えた。


 『ヤモリ:今、動いた』

 〈聞こえないけどメーターだけ〉

 〈ねむちゃん大丈夫?〉


 視聴者数が二になっていた。


 私は目をこすった。さっきまで一だった数字が、いつの間にか二。名前の一覧を開いても、表示されるのはヤモリさんだけだった。もう一人の欄は空白で、アイコンもなく、名前の代わりに細い横線だけが出ている。


 『ヤモリ:その空白に反応しないで』


 コメントが出た瞬間、空白のユーザー欄が一度だけ点滅した。


 私は椅子の背もたれに肩を押しつけた。背後に下がれば下がるほど、マイクとの距離は遠くなる。そう分かっているのに、耳の中の息はマイクから離れない。むしろ、私が後ろへ逃げた分だけ、コードを伝って頭蓋骨の中へ入ってくるみたいだった。


 画面の端で、nana_last_to_nemu.wav が選択されたまま青く光っている。


 開かないで。


 でも、開かないと終わらない。


 私はキーボードに指を置いた。声を出さず、唇だけで「ごめんなさい」と形を作る。誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。


 Enterを押した。


 波形編集ソフトが立ち上がる。二十七秒の波形は、ほとんど真っ直ぐだった。無音に近い。けれど中央あたりに、針で刺したような細い山が二つ並んでいる。


 再生ボタンを押す前から、ヘッドホンの中の息が止まった。


 部屋も止まった。


 冷蔵庫の低い唸りも、外を走る車の音も、パソコンのファンも、全部、誰かが手で押さえたみたいに遠のいた。


 私は再生した。


 スピーカーからは、何も出なかった。


 配信に乗る音量メーターも動かない。視聴者には無音のはずだった。


 けれど私のモニターには、ナナさんの声が入ってきた。


 「最後まで、聞いたらだめ」


 近い。


 近すぎる。


 囁きではなく、マイクの膜に唇が触れたまま喋っている声だった。破裂音が小さく潰れ、息が膜の内側で丸まる。録音のはずなのに、声の奥で現在の私の部屋の反響がした。


 『ヤモリ:何か流れてますか』

 〈無音〉

 〈波形ある?〉


 私は声を出さないまま、チャット欄に打った。


 聞こえる。


 送信しようとして、指が止まった。


 名前を返さない。声を合わせない。文字なら大丈夫なのか。第十話までの恐怖が、全部、細い針になって指先に刺さる。


 その時、波形の二つ目の山が再生位置に重なった。


 私の声が聞こえた。


 「聞こえる」


 私は打っただけだ。


 口は閉じていた。舌も動かしていない。なのにヘッドホンの中で、私の声が、私の喉より半拍遅れて鳴った。


 遅れて、ではない。


 録られていた。


 私は震える指で、配信ソフトの録画確認を開いた。今夜の録画ファイルが、まだ書き込まれ続けている。ライブは切れていない。ミュートも赤いまま。


 試しに、ほんの一秒だけ過去の録画をプレビューした。


 画面の中の私は、口を閉じている。


 なのに音声トラックに、かすかな声が二つ並んでいた。


 ひとつは、私がさっき漏らした短い悲鳴。


 もうひとつは、それと同じ高さで、同じ癖で、でも少しだけ湿った声。


 「聞こえる」


 配信に乗らないはずのものが、私の声だけを借りて、録音に入り始めていた。


 『ヤモリ:声出しました?』

 〈今なんか字幕出た〉

 〈自動字幕「聞こえる」って出た〉

 『ヤモリ:ねむさん、返事しないで。文字もだめかもしれない』


 視聴者数が三になった。


 また一覧を開く。ヤモリさん。空白。もう一つ、灰色の名前。


 ナナ。


 私は息を止めた。


 ナナさんの名前はすぐ消えた。代わりにコメント欄へ、ひとつだけ投稿が落ちる。


 『ナナ:あなたの声で入ってくる』


 ヘッドホンの中で、マイクの内側の息が、ゆっくり笑ったように揺れた。


 笑い声ではない。ただの呼吸だ。けれど、吸う前に少しだけ喉が鳴る。その小さな湿り気が、笑みに似てしまう。


 私はマイクのUSBケーブルを掴んだ。


 抜けばいい。


 配信が荒れても、仕事にならなくても、今日だけは切る。生活費も、投げ銭も、アーカイブも、全部あとで考える。今この銀色の筒の中にいるものを、私の声から引き剥がさないといけない。


 指に力を入れた。


 ぷつ、と軽い音がして、端子が抜けた。


 配信ソフトの入力欄が「デバイス未接続」に変わる。


 メーターが消える。


 ヘッドホンのモニターも、無音になる。


 私はそこで初めて、肺に残っていた息を吐いた。


 「……切れた」


 言ってしまった、と気づいた時には遅かった。


 画面の中の録音波形が、新しく一山、描かれていた。


 マイクは抜けている。


 入力デバイスはない。


 それでも録音トラックには、私の声が二重に刻まれていく。ひとつは、今の私が吐いた「切れた」。もうひとつは、それより少し前に始まっていた。


 私は再生位置を戻した。


 スピーカーからは、ちゃんと音が出た。


 今度は視聴者にも聞こえたらしい。コメントが一気に流れる。


 〈聞こえた〉

 『何これ二重?』

 〈ねむちゃん喋った?〉

 『ヤモリ:だめだ、先に言わせた』


 録音の中で、私ではない私の声が、私より先に囁いていた。


 「切れるわけないよ」


 そして、まだ声を出していない私の唇が、勝手に同じ形へ開き始めた。


(第12話へ続く)

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