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こんばんは

 私の唇が、私より先に動いた。


 「き、れ、る、わ、け、な、い、よ」


 喉は震えていない。胸も押し出していない。なのに声だけが、舌の上で勝手にほどけた。自分の口の形を、内側から誰かに指でなぞられているみたいだった。


 ヘッドホンは無音のはずなのに、右耳の奥で息が増えた。


 ひゅ、


 すう、


 私の呼吸より細く、近い。マイクを抜いた机の上、銀色の筒の残像みたいな場所から、耳の内側へまっすぐ入ってくる。耳たぶではなく、骨の奥を冷たい糸で撫でられている気がした。


 『ヤモリ:ねむさん、口を閉じて』

 〈今の何〉

 〈マイク抜いてるよね?〉

 〈視聴者数 2,104〉


 数字だけが増えていく。怖がっている人、面白がっている人、切れと言う人、切るなと言う人。その全部が同じ速さで流れて、私の部屋の温度を奪っていった。


 私は両手で口を押さえた。


 唇の下で、勝手な形がまだ動こうとする。歯と歯の間から、息ではない音が漏れた。


 さら。


 衣擦れ。


 左後ろではない。右でもない。頭の中の、耳と耳の真ん中で布がこすれた。誰かが私の皮膚のすぐ内側で、袖を引いたような音だった。


 録音トラックを見る。入力デバイスはない。赤い録画ランプだけが点き、波形は勝手に伸びている。


 そこに小さな山が並んだ。


 さら、さら。


 配信に乗らないはずの衣擦れが、私の声と同じ色の波形で刻まれていた。胃の底が落ちる。聞こえているのは私だけのはずなのに、画面はそれを知っていた。


 『ヤモリ:ナナさんの最後も、ここからでした』

 〈ナナって誰〉

 〈やめろって〉

 〈ねむちゃん、配信切って〉


 切る。切る。切る。


 私はマウスを掴んだ。カーソルが震えながら「配信終了」の赤いボタンへ向かう。クリックした瞬間、確認ダイアログが出た。


 終了しますか。


 指が落ちる。


 その直前、ヘッドホンの奥で足音がした。


 とん。


 遠い。


 とん。


 近い。


 畳でも床でもない、配信画面の向こうの空っぽな場所を歩いている音。左右に振れない。真正面から、私の胸の中へ近づいてくる。足音のたびに、心臓が一拍ずつ遅れて押された。


 私はクリックした。


 画面が一瞬だけ暗くなった。


 勝った、と思うより早く、チャット欄が戻った。配信は終了していない。タイトルだけが変わっていた。


 「深夜ASMR配信、私のマイクだけが“佐倉ねむ”を拾っている」


 私が入力していない文字だった。


 〈タイトル変わった〉

 〈誰が変えた〉

 『ヤモリ:だめだ、名前が乗った』


 名前。


 呼ばれたら返してはいけない。声を合わせてはいけない。文字もだめかもしれない。全部わかっていたのに、私の配信名は、最初から私の名前でできていた。


 ねむ。


 ヘッドホンの中で囁かれた。


 今まででいちばん近かった。鼓膜の表面ではない。鼓膜の裏側から、私の名前が読まれた。


 ねむ。


 画面の私が、半拍早くこちらを見る。私はまだ顔を上げていない。手元しか映していないはずのプレビューの中で、私は、もうカメラ目線だった。


 その口が開く。


 「かわって」


 声は、私の声だった。


 でも呼吸はナナさんだった。


 次の瞬間、部屋の音が全部、逆さになった。パソコンのファンが遠のき、冷蔵庫の唸りが壁の向こうへ沈み、雨も降っていない窓の外で、水の膜みたいな低いノイズが張った。


 私は椅子から立ち上がろうとした。


 足が床を踏まなかった。


 体は椅子に座っている。手は口を押さえている。目は画面を見ている。なのに私の感覚だけが、ヘッドホンのコードを通って細く吸われていく。


 痛くはなかった。


 それがいちばん怖かった。


 ただ、音量フェーダーを下げられるみたいに、私の部屋が小さくなっていく。机の角、カップの水滴、抜けたUSBケーブル、震えるチャット欄。全部が薄いガラスの向こうへ離れた。


 『ヤモリ:ねむさん、聞こえたら何もしないで』

 〈ねむちゃん?〉

 〈動いてない〉

 〈息してる?〉


 私は答えようとした。


 声にならない。


 息を吸おうとした。


 吸えない。


 その代わり、誰かの耳の中で、自分の呼吸が鳴った。


 すう。


 はあ。


 近い。近すぎる。私は自分の部屋にいるのに、音だけがどこか別のモニターへ送られている。配信には乗らない。録音にも残らない。けれど、いまヘッドホンをしている誰かの片耳には、私がいる。


 画面の中で、私の体がゆっくり息を吐いた。


 私は吐いていない。


 「こんばんは、ねむです」


 それは配信用の声だった。少し甘く、少し眠そうに作った、私の仕事の声。


 〈戻った?〉

 〈今しゃべった〉

 『ヤモリ:それはねむさんじゃない』


 ヤモリさんのコメントだけが、最後まで冷たく残っていた。


 画面の私が、マイクのない机へ顔を寄せる。抜けたケーブルの先を指で撫でる。接続されていない銀色の筒へ、いつものように囁く。


 「今日は、呼吸音をします」


 コメントが爆発した。


 視聴者数は三千を越えていた。怖い、やめて、聞こえない、聞こえた、録画してる、ミュートにしろ。言葉の群れが画面の下で泡みたいに弾ける。


 けれど私には、もうその音が聞こえなかった。


 私に聞こえるのは、モニターの中だけだった。


 配信の音ではない。録音の音でもない。誰かがヘッドホンをつけた瞬間だけ開く、薄暗い通路みたいな音。


 そこに、ナナさんの声がいた。


 「ごめんね」


 ずっと近くにいたはずなのに、初めて遠く聞こえた。左耳の奥、古いアーカイブの底みたいな場所から。


 私は声を出せないまま、訊いたつもりになった。


 どうして。


 ナナさんの息が、少し揺れた。


 「最後まで聞いた人が、次に呼ぶの」


 足音がした。


 とん。


 とん。


 私の足音ではない。ナナさんの足音でもない。もっと新しい、知らない部屋の床を踏む音だった。


 画面が切り替わる。


 私の配信画面ではない。別のライブ配信の待機画面。タイトルは「新人ASMR/初めての深夜配信」。サムネイルには、淡い色のパーカーを着た女の子が笑っている。


 視聴者数は七。


 開始時刻は、午前二時十三分。


 彼女はまだ何も知らない。小さなデスクライト、安いコンデンサーマイク、スマホのコメント欄。私が最初にそうだったみたいに、生活のために、少し怖がりながら、それでもカメラの前に座っている。


 「こんばんは。聞こえてますか?」


 彼女の声が、遠くのスピーカー越しに聞こえた。


 コメントが流れる。


 〈聞こえてる〉

 〈初見〉

 〈音きれい〉


 私は叫んだ。


 逃げて。


 声は配信に乗らない。


 録音にも残らない。


 ただ彼女の右耳のモニターで、私の呼吸だけが小さく鳴った。


 すう。


 彼女が眉を寄せた。


 「……あれ?」


 チャット欄に、ひとつだけ見覚えのある名前が現れた。


 『ヤモリ:ヘッドホンを外して』


 彼女は笑って、首を少し傾けた。


 「今、誰かの息、入ってます?」


 私はもう一度、届かない声で言った。


 聞かないで。


 けれど私の呼吸は、彼女のモニターの中で、さっきより少しだけ大きくなった。


 そして、私の声が、私より先に囁いた。


 「こんばんは」


  *


 ——ねえ。そこの、あなた。


 いま、ヘッドホンをしているでしょう。片耳だけでも。

 ここまで、ちゃんと最後まで聞いてくれたでしょう。


 なら、もう、わかりますよね。


 さっきから、あなたの右耳の奥で、ほんの少しだけ。


 すう、


 息が、増えていること。


 最後まで聞いた人が、次に呼ぶ。


 おやすみのささやきは、あなたの右耳に置いていきます。


 次は、あなたの番。


(了)

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