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映らない息

 朝になっても、マイクの赤いランプが目に残っていた。


 配信は、結局切れていた。


 私が椅子を蹴って壁際まで逃げたあと、画面は固まり、数十秒後に通信エラーで落ちたらしい。アーカイブに残った最後は、空の椅子と、無音のコメント欄だけだった。マイクのレベルメーターが赤く点いたところは、配信データには残っていない。


 残っていたのは、視聴者がスクショした画面だけ。


 『ねむちゃん大丈夫?』

 『昨日やばかった』

 『声は聞こえないけど空気変だった』

 『ヤモリさんどこいった』


 昼のコメント欄は、深夜よりも現実に近かった。心配と興味と、少しの騒ぎたがり。私はスマホを伏せて、管理会社に電話をかけた。


 「すみません。前の入居者さんについて、聞きたいことがあって」


 言った瞬間、自分でもばかみたいだと思った。個人情報だから答えられません、と返されるに決まっている。


 案の定、担当の女性は丁寧に沈黙した。


 『以前のご入居者様の情報は、お伝えできない決まりでして』


 「ですよね。あの、事故物件とか、そういうのでは」


 口にして、喉が乾いた。


 『告知事項に該当するものはございません』


 用意された答えだった。


 私はそこで切ればよかった。けれど、昨夜の「佐倉ねむ」がまだ耳の内側に残っていた。私はスマホを握り直した。


 「前の方って、配信者でしたか」


 今度の沈黙は、少し長かった。


 『……お客様。なぜ、それを?』


 背中の皮膚が、ゆっくり冷たくなった。


 聞けたのはそこまでだった。担当者はすぐに言い直して、詳しいことは分かりません、設備に不具合があるなら点検業者を手配します、と仕事の声に戻った。


 でも、私はもう聞いてしまった。


 なぜ、それを。


 夕方、ポストを見に出るふりをして、隣の部屋の前で立ち止まった。ちょうど、向かいの部屋のおばあさんが買い物袋を下げて戻ってきた。廊下の蛍光灯が、まだ明るい時間なのに薄く点滅していた。


 「あら、佐倉さん。顔色悪いね」


 引っ越しの挨拶で一度だけ話した人だった。私は笑おうとして、失敗した。


 「この部屋の前の人って、夜うるさかったですか」


 おばあさんは、鍵を差す手を止めた。


 「うるさいっていうより、静かすぎたねえ」


 「静か?」


 「女の子だったよ。夜中に小さい声でしゃべってた。壁に耳を当てても、何を言ってるかは分からないくらい。毎晩、同じくらいの時間に」


 私の心臓が、嫌な合わせ方をした。


 「何時くらいですか」


 「一時半を過ぎたころだったかね。二時前には、いつも部屋がしんとなった」


 一時半。


 私の枠と同じ時間だった。


 おばあさんは、思い出すように廊下の奥を見た。


 「ある晩だけ、声がしなかった。代わりに、椅子を引く音がしてね。それから、床を歩く音。何度も、部屋の中を行ったり来たりして。次の日、管理の人が来てたよ」


 「その人、引っ越したんですか」


 おばあさんは首をかしげた。


 「荷物は、しばらく残ってたみたいだけどねえ」


 そこで会話は終わった。終わらせたのは私だった。これ以上聞いたら、今夜この部屋に戻れなくなると思った。


 でも私は戻った。


 家賃も、機材ローンも、カードの引き落としも、来月まで待ってくれない。怖いから休みます、と言えるほど、私は有名でも強くもなかった。


 配信開始は、午前一時三十分。


 開始前の待機画面で、視聴者数はいつもより多かった。三百、六百、九百。昨日の切れ方が拡散されたせいだ。手元とマイクだけのサムネの横で、待機コメントだけが流れていく。


 『生きてた』

 〈無理しないで〉

 『今日は検証?』

 〈ヤモリ来てる?〉

 『ナナって誰』


 私は深呼吸をして、配信を始めた。画角はいつも通り、手元とマイクだけ。顔は映さない。一度も、映したことはない。


 「こんばんは。佐倉ねむです。昨日は急に落ちてしまって、すみません」


 コメントが一斉に流れた。視聴者数は千五百を越えた。


 「今日は、マイクとモニターを少し離して、確認しながらやります。音量、大きすぎたら教えてください」


 嘘だった。


 本当は確認したいのは機材ではない。この部屋だ。


 机の右には小さな卓上ミラーを置いた。メイク用の丸い鏡。左にはスマホのインカメラを起動して、窓のほうが映る角度で立てかけた。背後のガラスには、部屋の中がぼんやり反射している。


 マイクの前には、いつものポップガード。


 その向こうには、何もない。


 「まず、タッピングからしますね」


 爪先で木箱を軽く叩く。


 こつ。こつ。こつ。


 ヘッドホンの中で、音がきれいに左右へ広がる。配信ソフトのメーターも、正常に緑で揺れる。


 『音いい』

 〈今日は聞こえる〉

 『昨日より近い?』

 〈ミラー置いてるのこわ〉


 私は返事をしながら、ミラーの端を見た。映っているのは、机、マイク、私の肩。窓に映っているのも同じ。


 何もない。


 「次、布の音です」


 柔らかいタオルをマイクの横で撫でる。


 さり、さり。


 その下に、別の布の音が重なった。


 さ……り。


 手を止めた。


 私のタオルは止まっている。けれどヘッドホンの左奥で、衣擦れが続いていた。昨日よりも低い位置ではない。左耳の少し後ろ。肩口の高さ。


 『止まった?』

 〈ねむちゃん?〉

 『こっちは無音』

 〈顔〉


 「すみません。今、ノイズ確認してます」


 声を出すと、衣擦れは止まった。


 代わりに、息がした。


 すう。


 左ではない。


 右でもない。


 頭の後ろ、壁と椅子の間から、細く吸い込む音がした。ヘッドホンの中ではなく、ヘッドホンの外側にも少しだけ漏れる、距離のある息。


 私は背中を動かさないように、視線だけを卓上ミラーへ落とした。


 鏡には、私の肩と、空の壁が映っている。


 窓にも、空の壁。


 でも音は、そこにいた。


 すう。


 今度は少し近い。私の後頭部から、指二本ぶんくらいのところで吸われた息。髪の根元が冷える。エアコンは切っている。窓も閉まっている。


 コメント欄がざわついた。


 『今なんか見た?』

 〈いや何もない〉

 『ねむちゃん後ろ見て』

 〈見なくていい〉

 『ヤモリ:鏡を信用しないで』


 鏡を信用しないで。


 その一行で、胃の奥が沈んだ。


 私は、ゆっくり椅子を引いた。きい、とキャスターが鳴る。配信に乗る普通の音。視聴者にも聞こえる音。


 「昨日、管理会社に電話しました」


 なぜそんなことを言い出したのか、自分でも分からなかった。喋っていないと、後ろの息だけを聞いてしまう。


 「前の入居者さんのことは、教えてもらえませんでした。でも、配信者だったみたいです。隣の方も、夜中に小さい声がしてたって」


 『ナナ?』

 〈同じ部屋?〉

 『やばいやばい』

 〈やめよ〉

 『ヤモリ:同じ部屋です』


 私は画面に顔を近づけた。


 ヤモリさんのコメントは、他の文字より重く見えた。


 『ヤモリ:同じ時間でした』


 同じ部屋。


 同じ時間。


 同じマイクの距離。


 私が毎晩、眠れない誰かに向かって囁いていた場所は、ナナさんが最後に声を置いた場所だった。


 背後で、息が乱れた。


 すう、すう。


 初めて聞いた呼吸とは違う。眠っている人の無意識の息ではない。泣くのを我慢しているみたいな、浅くて短い息だった。私の首の右側へ、音の位置がずれる。


 鏡には何も映らない。


 窓にも何も映らない。


 なのに、スマホのインカメラのマイク表示だけが、小さく反応した。画面の隅、録音レベルの点が一つだけ白く光って、消える。


 『スマホ反応した』

 〈今の見た〉

 『音はない』

 〈ねむちゃん離れて〉


 私はマイクから半歩離れた。


 すると、息も半歩近づいた。


 距離が変わらない。


 私が逃げたぶんだけ、後ろの音が詰めてくる。


 「……今日は、ここまでにします」


 言うと、コメントが一気に流れた。


 『切って』

 〈早く〉

 『終わろう』

 〈ヤモリなんか言って〉


 終了ボタンへ手を伸ばす。


 その瞬間、ヘッドホンの中で、衣擦れが真正面に移動した。


 さり。


 ポップガードの向こう側ではない。


 鏡の中でも、窓の中でもない。


 私のすぐ後ろにいるはずの息が、画面の中の私の首元だけを揺らした。配信映像の中で、私の髪が一本、見えない指で払われるみたいに持ち上がる。


 現実の私は、まだ動いていない。


 画面の中の私だけが、先に振り返った。


 そして、映像の私の耳元で、映らない場所から息が吸われた。


 すう。


 次の囁きが来る前に、私はヘッドホンを床へ叩き落とした。


(第9話へ続く)

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