波形の底から
録画ボタンの赤い点が、配信画面の隅で点滅を始めた。
【Nana sleep room 最終配信】
タイトル欄の文字は、何度見ても私の入力したものではなかった。今夜の枠名は「眠れない人のための雨音タッピング」だったはずだ。雨音素材も、コルクを叩く小さな音も、全部いつもの場所に置いてある。
なのに画面は、私の部屋を、私ではない誰かの最後に変えていた。
『え、タイトル変わった?』
〈Nanaって誰〉
『怖いから切って』
〈ねむちゃん、今すぐ終わって〉
『ヤモリ:録ってください』
「録ってます」
自分の声が、妙に遠く聞こえた。
視聴者数は千四百を超えていた。普段なら、こんな数字は喜ぶべきなのに、胸の奥が冷えていくだけだった。増えるたびに、部屋の空気が重くなる。たくさんの人に見られているのに、ここには私しかいない。私しかいないはずなのに、左耳の中では、誰かが息を吸っている。
すう。
足元。
膝の少し前。
モニターヘッドホンの定位は、もう部屋の距離感とずれていた。音は床から来ているのに、鼓膜の裏側に直接触れている。私は太ももの上で指を握り、声だけを配信用の距離に戻した。
「すみません、機材チェックします。音、大きくしないので、耳だけ気をつけてください」
『無理しないで』
〈チェックって何を〉
『こっちは何も聞こえない』
〈タイトルだけバグってる〉
『ヤモリ:モニターの音を見てください』
モニターの音を、見る。
ヤモリさんの言い方に、私はぞっとした。聞こえるはずのないものを、目で追えと言っているみたいだった。
私は配信用ソフトの横に、小さく開いていた録音ソフトを前面に出した。普段はノイズ処理の確認にしか使わない。マイクの入力、モニター返し、デスクトップ音。三つの波形が細い線で並んでいる。
マイク入力は、ほぼ平らだった。
私が黙っているから当然だ。配信に乗る音はない。視聴者にも聞こえていない。
けれど、モニター返しの線だけが、一瞬、針のように跳ねた。
すう。
また跳ねた。
『今なんか画面動いた?』
〈波形?〉
『マイクじゃない方だけ動いてる』
〈え、見えるの怖い〉
見えている。
聞こえない人にも、形だけは見えている。
その事実が、私を少しだけ支えた。同時に、もっと怖くした。幻聴ならよかった。疲れているだけなら、寝ればよかった。でも、画面の中の細い線は、私の耳の奥にいるものを、冷静に記録していた。
私は録音ソフトの解析表示を開いた。スペクトラム。黒い背景に、低い音から高い音までが薄い青で並ぶ。いつもなら、私の声の山と、部屋の空調の低い帯だけが見える。
今は違った。
私の声がないのに、上の方で、細い白い線が震えていた。
人の耳にはぎりぎり届くか届かないかの高さ。けれど、私はそれをヘッドホンの内側で、呼吸として聞いている。
「……今、モニターだけに出てます。配信には、たぶん乗ってません」
『たぶんって何』
〈怖い怖い怖い〉
『切っていいよ』
〈ヤモリさん何か知ってるなら言って〉
『ヤモリ:ナナさんの時も、最初はそこでした』
そこ。
場所の話ではない。帯域の話だ。
私はマウスを握る手に力を入れた。録画はまだ回っている。配信も切れていない。画面右上の赤い「LIVE」は、心臓みたいに小さく点いていた。
「ナナさんも、解析したんですか」
『ヤモリ:していました。聞こえない音を、見える形にしようとして』
すう。
呼吸が、足元から上がった。
椅子の座面の高さ。
私の膝と机の間。そこに、誰かがしゃがんでいるみたいだった。息が、布越しではなく、机の裏に当たって返ってくる。私は反射的に足を引きそうになり、椅子のキャスターが鳴るのを恐れて止めた。
「今、近いです」
コメント欄が一気に流れた。
『どこ』
〈足元?〉
『映して』
〈映さなくていい〉
『ねむちゃん逃げて』
〈録画残して、逃げて〉
逃げる。
その言葉だけが、画面の中で白く浮いた。
でも、逃げるには立たなきゃいけない。立つには、足元にいるものの上を通らなきゃいけない気がした。ここに見えない誰かがいると認めた瞬間、私の体は、机と椅子の隙間に縫い止められた。
私は、代わりに音量を下げた。
モニター返しのフェーダーを、少しずつ。
十。八。六。
呼吸は小さくなるはずだった。
すう。
小さくならなかった。
むしろ、定位だけが変わった。フェーダーを下げたぶん、音は外側の空間から、耳の奥へ入り込んだ。ヘッドホンの右と左の真ん中。頭の中心。そこで、吸う音が止まる。
次の瞬間、波形が変わった。
ただの針ではなかった。細い山が、いくつも連なった。息ではない。声の形だった。
「今、何か出ました」
自分でも分かるくらい、声が硬かった。
『聞こえない』
〈画面では見える〉
『何か喋ってる形?』
〈解析詳しい人いる?〉
『声紋みたい』
私は録画中のまま、直前の数秒を選択した。再生ボタンにカーソルを置く。
押したくなかった。
でも押さなければ、今夜も何も分からないまま終わる。終われるなら、まだいい。ナナさんは終われなかった。
私は再生した。
スピーカーには出さず、ヘッドホンだけ。
録音された音は、無音だった。
画面の波形だけが、静かに進む。マイク入力は平ら。配信に乗るトラックも平ら。モニター返しの上の方だけ、白い線が震える。
画面はこんなに冷静なのに、私の左耳の奥だけが、まだ濡れているみたいだった。数字は何も起きていないと言う。でも、耳は知っている。
そして、私の左耳で、女の人の息がした。
すう。
その奥で、ほんの短く、衣擦れ。
さり。
さらに奥で、口の中に息を含む音。
誰かが、声にする直前の音。
私は停止ボタンを押した。押したはずだった。
再生は止まらなかった。
「……止まらない」
『何が』
〈再生バー動いてる〉
『バグ?』
〈ねむちゃんの顔やばい〉
『ヤモリ:声が来ます』
来ます。
過去形でも、可能性でもなく、そう書かれた。
再生バーは、録った覚えのない先へ進んでいた。現在の配信時間を追い越して、まだ存在しないはずの数秒を、勝手に作りながら進む。
波形の白い線が、太くなった。
高い帯域から、少しずつ下へ降りてくる。人の耳で聞けるところへ。配信に乗らない場所から、私の聞こえる場所へ。
ヘッドホンの中央で、囁きが割れた。
――な……。
私は息を止めた。
コメント欄も、なぜか少し遅くなった。流れているのに、文字と文字の間が広い。視聴者数は千七百二十六で止まっている。増えも減りもしない。
――な、な……。
『今、口動いた?』
〈ねむちゃん喋った?〉
『いや声出してない』
〈聞こえないけど波形がでかい〉
私ではない。
私は声を出していない。口も開けていない。けれど画面の中のモニター波形は、誰かの言葉の形に膨らんでいく。
――ね……。
近い。
もう足元ではなかった。机の下から、胸の高さまで上がっている。私とマイクの間。ポップガードの向こう側。いつも私がリスナーに囁く距離に、誰かの口がある。
私は、マイクを見た。
黒い丸いポップガードの手前に、何もない。
何もないのに、そこだけ空気が押されている。薄い膜を、内側から指で撫でるみたいに、ガードの布がほんの少し震えた。
マイクのレベルメーターが、一目盛り跳ねた。
配信側ではない。
モニター側でもない。
マイクそのものが、反応した。
『今メーター動いた』
〈乗った?〉
『こっちは無音』
〈でも動いたの見た〉
『ヤモリ:返事しないで』
返事しないで。
そのコメントを読んだ瞬間、囁きがはっきりした。
――ねむ。
耳元ではなかった。
マイクの正面だった。
私が毎晩、誰かを眠らせるために声を置いている場所から、私に向かって、私の配信名が呼ばれた。
全身が固まった。手のひらの汗でマウスが滑る。終了ボタンは画面の右下にある。すぐそこ。押せる。今なら押せる。
でも、囁きはもう一度、息を吸った。
すう。
今度は、配信名ではない気がした。
口の形が、もっと長い。音の前に、名字の硬い子音がある。私は配信で自分の名字をほとんど言わない。プロフィールにも書いていない。事務所に所属しているわけでもない。古い荷物の伝票くらいにしか残っていない、生活の名前。
波形が、低いところまで落ちてきた。
コメント欄が止まった。
本当に、止まった。
最後に流れたのは、ヤモリさんの一行だった。
『ヤモリ:本名を呼ばれたら、マイクから離れて』
その直後、ヘッドホンの内側ではなく、部屋の中で、私の真正面から囁かれた。
「佐倉ねむ」
私は椅子を蹴って、マイクから離れた。
配信画面には、私のいなくなった椅子だけが映っていた。
そしてマイクのレベルメーターだけが、誰かの返事を待つみたいに、赤く点いたまま消えなかった。
(第8話へ続く)




