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ナナの枠

 マイクスタンドの前で鳴った一歩のあと、私はしばらく動けなかった。


 床は沈んでいない。スタンドも揺れていない。なのに耳だけが、あの乾いた音の余韻を覚えていた。


 こつ。


 配信は切れていた。録画も止まっていた。コメント欄の流れは灰色のまま、最後の『逃げて』で固まっている。


 私はヘッドホンを机に置いた。イヤーパッドの内側が、まだ少し温かい。自分の体温だと思いたかった。


 その夜、私は録画を三回聞き返した。


 足音は、なかった。


 クローゼット前の衣擦れも、マイクスタンドの前の一歩も、動画の中ではきれいに抜け落ちていた。残っているのは、私の声だけだ。無理に笑おうとして失敗した囁き。息を止めすぎて震えた呼吸。終了ボタンを押す直前の、小さな椅子のきしみ。


 証拠にならない音だけが、私の耳に残っていた。


 朝になっても眠れなかった。カーテンの隙間が白くなって、近所のゴミ収集車の音が聞こえたとき、私はやっとスマホを握り直した。


 通知はひどい数だった。


 『昨日ガチ?』

 『録画だと何もないの怖い』

 『ヤモリさんのコメント消されてない?』

 『前の配信者って誰』

 『ねむちゃん生きてる?』


 生きてる、と投稿しようとして、指が止まった。


 生きている。たしかに。けれど、何かを部屋に残してしまった感じがした。配信を切ったあと、音は一歩だけ外に出た。あれは、こっち側に来た確認だったのではないか。


 管理会社に電話をした。


 「前の入居者の方については、個人情報なのでお答えできません」


 予想していた返事だった。私は、騒音の相談です、と言い換えた。深夜に足音がする。部屋の中で聞こえる。隣室や上階の確認をしたい。


 「佐倉様のお部屋は、上階が現在空室ですね。両隣の方からも、苦情は入っておりません」


 丁寧で、隙のない声だった。


 では、この部屋の前の入居者は、ともう一度聞く勇気はなかった。電話を切ったあと、私は机の下にしゃがみ、マイクスタンドの脚を触った。黒い金属は冷たい。昨夜、足音が鳴った場所。床には何もない。


 だけど、触れた指先のすぐ横で、木目の薄い板が、一枚だけ古く見えた。


 気のせいだ。


 そう言い聞かせて、私は昼過ぎに寝た。二時間で起きた。スマホのアラームではない。自分の名前を呼ばれた気がしたからだ。


 でも、部屋は明るく、何も聞こえなかった。


 夜の十一時五十五分。


 私はまた、椅子に座っていた。


 休むべきだった。分かっている。けれど、昨日の配信で登録者が増え、同時に「演出」だと疑うコメントも増えた。今日黙れば、怖いから逃げたと言われる。生活費のこともある。月末の家賃、カードの引き落とし、機材ローン。怖いからやめます、で済むほど、私の生活は軽くなかった。


 画面には開始前の待機コメントが流れている。


 〈今日はやめとけ〉

 『待ってた』

 〈音検証しようぜ〉

 『ねむちゃん無理しないで』

 〈ヤモリ来るかな〉


 視聴者数は待機だけで四百を超えていた。普段ならありがたくて泣く数字だ。今は、窓の外に人が集まっているみたいで落ち着かなかった。


 私はマイクのゲインを少し下げ、モニター音量もいつもより小さくした。左耳だけに偏らないよう、パンを確認する。録画もローカルで回す。スマホは机の右端、すぐ手が届く場所に置いた。


 午前零時。


 配信開始の赤い表示が点く。


 「こんばんは。佐倉ねむです。今日は、短めにします。昨日のこともあるので、無理はしません」


 コメントが一気に流れた。


 『声聞けてよかった』

 〈ほんと短めで〉

 『足音待機』

 〈そういうノリやめろ〉

 『録画してる』


 私は木製ブラシを手に取った。いつもの、細かい毛先をマイクの周りでゆっくり動かす音。さわ、さわ、と乾いた音が両耳に広がる。これなら大丈夫。自分が出している音は、自分で分かる。


 「右から、少しだけ。痛くない音です」


 さわ。


 右。


 「次、左」


 さわ。


 左。


 その直後、左の奥に、別の空気が混じった。


 すう。


 私はブラシを止めた。


 呼吸。


 戻ってきた、と思った。足音ではなく、最初の音。けれど距離が違う。第一話のときは、壁の向こうから覗くみたいに遠かった。今は、ヘッドホンの内側に口を寄せられているみたいだった。


 コメントは普通に流れている。


 『止まった?』

 〈聞こえない〉

 『ブラシもっと』

 〈ねむちゃん顔色〉


 「すみません、ちょっと、確認します」


 私はモニター音量を一つ下げた。


 呼吸は小さくならなかった。


 もう一つ下げる。


 すう。


 同じ大きさで、左耳の奥に残る。


 音量つまみの外にいる。


 その事実が、胃の中を冷たくした。


 『ヤモリ:聞こえていますか』


 コメント欄に、その名前が現れた。


 私はすぐに拾った。


 「ヤモリさん。昨日の、前の配信者って、誰ですか」


 コメントの温度が変わった。さっきまで茶化していた文字が、一瞬遅くなる。視聴者数は八百十二。増えているのに、部屋はどんどん狭くなる。


 『ヤモリ:ここで言っていいんですか』


 「いいです。言ってください。私だけ知らないの、もう嫌です」


 左耳で、呼吸が止まった。


 止まらないでほしいと思った自分に、ぞっとした。聞こえている間は、位置が分かる。止まると、どこにいるのか分からない。


 『ヤモリ:ナナさんです』


 ナナ。


 カタカナ二文字が、画面の上でやけにはっきり見えた。


 〈誰〉

 『配信者?』

 〈ナナってASMRの?〉

 『知ってる人いる?』

 〈検索しても多すぎる〉


 「ナナさんって、この部屋に住んでた人ですか」


 『ヤモリ:はい。名前は七瀬ナナ。配信名は、Nana sleep room』


 英字の文字列が流れた瞬間、いくつかのコメントが反応した。


 『え、聞いたことある』

 〈昔見てたかも〉

 『アーカイブ消えてない?』

 〈三年前くらい?〉

 『ヤモリさん古参すぎ』


 三年前。


 私はこの部屋に越してきて、まだ四か月だ。前の前かもしれない。けれど、ヤモリさんは「この部屋」と言った。


 「どうして、同じ部屋って分かったんですか」


 『ヤモリ:壁の吸音材の跡です』


 私は反射的に、左の壁を見た。


 今は私が貼った灰色の吸音材が並んでいる。その隙間。入居したときから、壁紙の色が少しだけ違う四角い跡があった。前の人も何か貼っていたのだろう、くらいにしか思っていなかった。


 『ヤモリ:窓の位置。クローゼットの折れ戸。配信中に映った傷。今のねむさんの部屋と同じでした』


 〈怖〉

 『特定みたいで嫌だな』

 〈でも説明つく〉

 『前の配信でも音?』


 私は声を落とした。


 「ナナさんも、聞いてたんですか。呼吸とか、衣擦れとか、足音とか」


 ヤモリさんの返事は、すぐには来なかった。


 その間に、左耳で音がした。


 さ……。


 衣擦れ。


 マイクの左ではない。私の背中側。椅子の後ろ、ベッドとの間の狭い通路。布が壁に触れるような、遠慮がちな音。


 私は画面から目を離せなかった。


 『ヤモリ:順番も同じです』


 順番。


 呼吸。衣擦れ。足音。


 私の中で、三つの音が線で結ばれる。


 『ヤモリ:最初は本人にしか聞こえない。次に、一部の視聴者が違和感を言う。でも録画には残らない』


 〈昨日と同じじゃん〉

 『やめよう』

 〈台本?台本だよね?〉

 『ねむちゃん、もう切って』


 視聴者数は九百三十六。コメントは速い。けれど、ヤモリさんの文だけが、私の目に刺さる。


 「ヤモリさんは、ナナさんの配信を見てたんですか」


 『ヤモリ:最後まで見ていました』


 最後まで。


 その言葉に、背中の衣擦れが少し近づいた。


 さり。


 椅子の真後ろ。


 私は唾を飲んだ音がマイクに乗らないよう、口を閉じたまま耐えた。配信者としての癖が、こんなときにも体を縛る。大きな音を立てない。リスナーを驚かせない。一定の声で、安心させる。


 安心なんて、どこにもないのに。


 「その最後って、どういう意味ですか」


 『ヤモリ:ナナさんは最後の配信で、今日のねむさんと同じことを言いました』


 「同じこと?」


 『ヤモリ:私だけ知らないのは嫌だ、と』


 口の中が乾いた。


 コメント欄がざわつく。


 〈今の台詞じゃん〉

 『偶然?』

 〈ログ残ってる?〉

 『ヤモリ怖い』

 〈ねむちゃん後ろ見て〉


 後ろ見て、というコメントがいくつも流れた。


 私は見なかった。


 見るより先に、左耳が位置を教えた。


 衣擦れは、背中のすぐ後ろから、右肩の方へ移動していた。布が椅子の背もたれに触れないぎりぎりの距離。人が音を立てないように横を通るときの、あの小さな気遣いに似ていた。


 怖いのは、乱暴ではないことだった。


 部屋にいる何かは、私を驚かせたいのではない。順番を守っている。


 『ヤモリ:ナナさんは、音の正体を知ろうとして、配信を続けました』


 「それで」


 声が震えた。自分でも分かった。


 『ヤモリ:コメント欄が止まりました』


 画面の右上で、視聴者数が千を超えた。


 千二。千七。千十四。


 見られている。その数が増えるほど、助かるのではなく、逃げ道を塞がれている気がした。


 「止まったって、回線が?」


 『ヤモリ:いいえ。配信は続いていました。画面も音も動いていました。でもコメントだけが、誰も打てなくなった』


 〈え、今打てる〉

 『打ててるよ』

 〈怖い話うますぎ〉

 『ねむちゃん切っていい』


 私はスマホに手を伸ばした。いつでも配信を止められるように。けれど、左耳で、短い足音が鳴った。


 こつ。


 椅子の右後ろ。


 昨日より近い。床を歩いているのに、音の芯だけがヘッドホンの内側にある。


 こつ。


 机の右。


 私は息を止めた。


 マイクスタンドの前へ来る。


 昨日の最後と同じ場所。そこで止まるはずだと思った。


 しかし、足音は止まらなかった。


 こつ。


 マイクスタンドの前を越えた。


 こつ。


 私の膝の前。


 マイクは何も拾っていない。レベルメーターは、私の止めた息に合わせて細く揺れているだけだ。コメント欄は足音を知らないまま流れ続ける。


 〈ねむちゃん黙った〉

 『聞こえてる?』

 〈左?右?〉

 『ヤモリ続き言って』


 私は、ほとんど声にならない声で言った。


 「ナナさんは、どうなったんですか」


 ヤモリさんのコメントが、画面の中央に来た。


 『ヤモリ:いなくなりました』


 足音が、私の足元で止まった。


 「引っ越した、ってことですか」


 返事を待つ数秒が、長すぎた。左耳の奥で、呼吸が戻る。すう。吐く音はない。吸うだけ。まるで、次に何かを言うために息をためているみたいだった。


 『ヤモリ:違います』


 コメント欄の速度が落ちた。


 『ヤモリ:最後の配信の途中で、画面からナナさんが消えました』


 私は、モニターの赤い表示を見た。


 配信中。


 その文字が、急に過去とつながった。


 『ヤモリ:部屋には誰も入っていません。ドアも窓も映っていました。ナナさんは椅子に座ったまま、返事をして、それから音だけになった』


 〈なにそれ〉

 『警察案件?』

 〈嘘でしょ〉

 『アーカイブあるの?』


 足元で、床が小さく鳴った。


 こつ。


 立っている。


 そう分かった瞬間、マイクのレベルメーターが、私の声ではないタイミングで一目盛りだけ跳ねた。


 私は終了ボタンにカーソルを合わせた。


 今度は迷わなかった。


 けれどクリックする直前、ヤモリさんの最後のコメントが流れた。


 『ヤモリ:ナナさんの最後の言葉は「次は私が聞こえる番」でした』


 その直後、配信画面のタイトル欄が勝手に書き換わった。


 【Nana sleep room 最終配信】


 私は、配信を切らずに録画ボタンを押した。


(第7話へ続く)

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