部屋を歩く音
残り一分三十七秒。
タイマーの数字は、画面の隅で固まったまま、白く光っていた。配信ソフトは落ちていない。コメントは流れている。視聴者数は五百二十七。なのに、無音チェックの時間だけが、そこに釘で打たれたみたいに止まっている。
左耳の中の沈黙が、重かった。
呼吸が止まったままの沈黙。誰かが、息を殺して、私の反応を待っている。
『ヤモリ:右から外してください』
〈なんで右〉
『ねむちゃん、終わろ』
〈左やばい〉
『これ演出?』
〈タイマー止まってない?〉
私は右手を上げた。
配信中、ヘッドホンを外すのは嫌いだ。耳をふさいでいるものがなくなると、部屋の広さが急に戻ってくる。壁までの距離、窓までの距離、玄関までの細い廊下。自分が一人でそこに座っていることが、音で分かってしまう。
でも左には触れない。
ヤモリさんの言葉を信じたわけじゃない。信じないための材料が、もう少なすぎた。
右のイヤーパッドを、そっと浮かせる。
右耳に、部屋の空気が入ってきた。PCファンの低い音。冷蔵庫。遠くを走るバイク。いつもの深夜の音。
左耳はまだ、ヘッドホンの中に閉じ込められている。
そして、その左だけで、床が鳴った。
こ。
とても小さい音だった。足音、と呼ぶには弱い。フローリングが、指の腹で一回だけ押されたような音。
私は喉を動かせなかった。
こつ。
二度目は、少しはっきりした。
左後ろ。カーテンのある方。ベッドと壁の狭い隙間あたり。
私は配信画面を見る。マイクのレベルメーターは動いていない。左チャンネルの細い線も、今は静かだった。録音されていない。配信にも乗っていない。少なくとも、画面上では。
『ねむちゃん?』
〈今黙った〉
『何か聞こえる?』
〈うちは無音〉
『左外さないで』
〈顔こわい〉
右耳に入る現実の部屋は、静かだった。
左耳の中だけで、誰かが歩き始めていた。
こつ。
音はベッド脇から、ゆっくり前へ出てきた。定位が、左後方から真左へ移る。距離は三歩分。いや、二歩かもしれない。音量は小さいのに、近づく方向だけは異様に正確だった。
こつ。
机の左端。
私は膝の上の両手を見下ろした。爪が白くなるほど握っている。もちろん足は動かしていない。椅子も軋んでいない。
「……今、左で、足音みたいなのがしています」
言ってから、後悔した。
コメント欄が跳ねた。
〈やめて〉
『足音?』
『聞こえない』
〈配信には乗ってない〉
『ねむちゃんの部屋に誰かいる?』
〈警察〉
『まず通話しよ』
〈住所バレるから言うな〉
視聴者数が六百を越えた。通知が遅れて、画面の右上で小さく光る。普段なら喜ぶ数字だ。月末の家賃、電気代、マイクのローン。全部、その数字の向こう側にぶら下がっている。
でも今は、見られている人数が増えるほど、部屋の中の誰かにも見つかっていく気がした。
こつ。
足音は、机の前を横切った。
左から中央へ。私の正面。マイクスタンドの根元。ケーブルを避けるみたいに、一拍だけ止まる。
私は反射的にマイクを見た。
黒いバイノーラルマイクの耳が、いつも通り私の方を向いている。シリコンの耳に異常はない。机の上に置いたブラシも、綿棒も、タッピング用の木箱も動いていない。
なのに、左耳の奥で、床板が沈む。
こつ。
今度は右寄り。
右耳は外に出ている。だから、もし本当に部屋で鳴っているなら、右耳にも聞こえるはずだった。
聞こえない。
ヘッドホンの左側だけが、部屋の中を歩く足音を、私にだけ渡してくる。
『ヤモリ:数えないで』
そのコメントが流れた瞬間、私は自分が心の中で数えていたことに気づいた。
一、二、三、四。
やめようと思ったのに、耳が勝手に次を待つ。
こつ。
五。
キッチンの方。ワンルームの小さな流し。金属のシンクがある場所。
こつ。
六。
玄関へ続く短い廊下の手前。
私は唇を噛んだ。足音は、私から離れている。離れているはずなのに、怖さは薄れない。むしろ、部屋の形を確かめるみたいに歩かれることが、たまらなく嫌だった。
ここは私の部屋なのに。
私が置いた家具。私が貼った吸音材。私が生活のために整えた、眠れない夜の仕事場。
それを、知らない誰かが、音だけで測っている。
〈ヤモリさん何知ってるの〉
『数えないでって何』
〈ねむちゃん、返事して〉
『通報した方がいい?』
〈足音こっち聞こえない〉
『録画にも無音』
録画にも無音。
その一文を見た瞬間、逃げ場がまた一つ消えた。聞き間違いではないと分かっているのに、証拠がない。私の耳だけが、部屋の異常を抱え込まされている。
こつ。
足音が止まった。
玄関ではない。
もっと近い。
部屋の右側。クローゼットの前。
右耳を外しているのに、そこは無音だった。外の耳は何も拾わない。左のヘッドホンだけが、クローゼット前の床の軋みを、妙に湿った近さで鳴らしている。
私はコメントを追えなくなった。
画面の文字が流れていく。『逃げて』『切って』『ヤモリ説明して』『やばい』『演技ならうまい』『ねむちゃん泣いてる?』。
泣いていないと思った。けれど頬の横が冷たかった。
『ヤモリ:そこに行かないでください』
「……どこに」
声がかすれた。
『ヤモリ:クローゼット』
私は息を止めた。
そのコメントを読まれるのを待っていたみたいに、左耳で、衣擦れがした。
さ……り……。
足音の主が、しゃがんだ。
そう思った。
床に近い場所で、布が擦れる。クローゼットの折れ戸の下、指一本分の隙間。その前に、誰かの膝がある。見えないのに、姿勢だけが音で分かってしまう。
私は右のイヤーパッドを持ったまま固まった。左を外したら部屋に出る。ヤモリさんはそう言った。では、左を外さなければ、これはずっと左耳の中にいるのか。
生活のために切れないと思っていた赤い表示が、今は呪いみたいだった。
でも、配信を続けている限り、コメント欄がある。
「ヤモリさん」
私は、名前を呼んだ。
「何を、知ってるんですか」
送信の間が、長かった。
その間に、左耳で息が戻った。
すう。
足音の主が、クローゼット前で息を吸う。
視聴者数は七百三十一。コメントは早すぎて読めない。けれどヤモリさんの名前だけを、私は探した。
『ヤモリ:この部屋の前の配信者も、同じ音を聞いていました』
前の配信者。
胸の中で、知らない言葉が重く沈む。
『ヤモリ:今日は終わってください。足音が一周する前に』
一周。
私は、数えてはいけないと言われた音を思い出す。ベッド脇、机の左、正面、右、キッチン、廊下、クローゼット。
あと、どこが残っている。
こつ。
左耳で、足音が動いた。
クローゼットから、こちらへ。
私は迷わなかった。配信ソフトの終了ボタンにカーソルを合わせる。指が震えて、二回空振りした。三回目で赤いボタンを押す。
終了しますか。
はい。
配信中の赤い表示が消えた。コメント欄が止まる。視聴者数の数字が、ただの灰色になる。
部屋は、急に狭くなった。
右耳には、いつもの深夜。左耳には、まだヘッドホンの中の足音。
こつ。
机の右。
こつ。
正面。
私は右のイヤーパッドを完全に外したまま、左側に手をかけた。外すなら右から。もう右は外れている。配信も切った。次にするべきことは一つしかない。
左を、ゆっくり外す。
密閉されていた耳に、部屋の空気が触れた。
足音は消えた。
私は大きく息を吸って、吐く。膝が震えて、椅子の脚がかすかに鳴った。自分の音だ。自分の部屋の、自分の体の音。
そう確認した、その直後だった。
ヘッドホンを外した私の左側ではなく、部屋の床そのものから、こつ、と一歩だけ鳴った。
マイクスタンドの、すぐ前で。
右から外した。ヤモリさんの言う通りにした。順番を、間違えなかった。それでも——それでも、一歩、こちらへ出た。守れば防げるものだと、どうして思ってしまったんだろう。
(第6話へ続く)




