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片耳だけの視聴者

 翌日の昼まで、私はそのコメントを消せずにいた。


 『その音、前も聞いた』


 何度見ても、文字だけだった。声ではない。画面に残った一行でしかない。なのに、読むたびに左の耳の奥で、さり、と布が擦れる気がした。


 アカウント名は「kuro_ame」。登録日は古く、アイコンは初期設定のまま。プロフィールも投稿もない。返信しようとして、指が止まる。聞いてしまえば、答えが返ってくるかもしれない。返ってこなければ、それはそれで、また眠れなくなる。


 私は結局、スマホを伏せた。


 でも夜になると、伏せたはずの画面が頭の中で勝手に光る。


 家賃の引き落とし。カードの請求。今月はマイクスタンドを買い替えたばかり。怖いから休む、で済むほど、私の生活は太くできていない。


 配信開始予定の二十三時五十八分。私はいつもより早く椅子に座った。部屋の電気は落とし、デスクライトだけを低くする。スマホは配信用の縦画面。ノートPCには配信管理画面。オーディオインターフェースのつまみは、昨日と同じ位置。


 同じにするのが怖かった。


 変えるのも怖かった。


 ヘッドホンを耳に当てる前に、私はひとつだけ試した。左マイクの前で指を鳴らす。


 ぱち。


 メーターが上がる。右も同じ。


 ぱち。


 問題はない。機材としては、何も壊れていない。


 それがいちばん困る。


「こんばんは。佐倉ねむです。今日は、少し短めに、耳かきブラシと囁きだけでいきます」


 赤い配信中表示が灯った瞬間、胸の奥が固くなった。視聴者数は百二十七人から始まり、ゆっくり増える。いつもの深夜の顔ぶれが、コメント欄に並んでいく。


 『こんばんは』

 〈寝落ちしにきた〉

 『昨日大丈夫だった?』

 〈無理せんで〉

 『今日は音ちいさめ?』


 私は口元に笑みを作る。カメラは手元だけだから、顔は映っていない。それでも笑っていない声は、簡単にばれる。


「昨日は、すみません。ちょっと疲れてたみたいで。今日はゆっくり、いつも通りにしますね」


 いつも通り。


 自分で言って、喉が詰まった。


 左耳用のシリコンブラシを持つ。マイクの耳の部分に、毛先をそっと当てる。


 しゅ、しゅ。


 乾いた、細い音。


 ヘッドホンの中で、左右の定位がはっきり分かれる。私の作る音は、左の少し前。マイクの位置通り、机の上から聞こえる。


 その背後には、何もない。


 しゅ、しゅ。


「力を抜いてくださいね。今日も一日、お疲れさまでした」


 視聴者数は三百八人。コメントは穏やかだった。


 『この音好き』

 〈もう眠い〉

 『左ちょうどいい』

 『昨日より安心する』


 安心。


 その単語に、私はすがりかけた。


 左の奥で、誰かが息を吸った。


 すう。


 ブラシの音と重ならない、細い呼吸。私は指を止めなかった。止めたら、また視聴者に気づかれる。止めなくても、自分には分かる。


 昨日より、近い。


 距離で言えば、左肩の後ろではない。首筋の左側。ヘッドホンのパッドと髪の隙間に、冷たい空気が入り込む場所。


 私はブラシを右マイクへ移した。


 しゅ、しゅ。


 右の音は、右前からきれいに鳴る。


 左の呼吸は、右に移らない。


 私の動きについてこない。


 つまりそれは、マイクにいるのではない。


 私は唾を飲み込まないように、舌を上あごに押しつけた。飲み込む音は大きい。ASMR配信者の体は、配信中だけ、やたらと不便になる。怖いときほど、普通の人間みたいに呼吸できない。


 〈今ちょっと左だけ変じゃなかった?〉


 コメント欄の一行で、指が跳ねた。


 ブラシがマイクに当たり、こつ、と鳴る。メーターが黄色まで上がる。


「ごめんなさい、当たっちゃいました」


 『びっくりしたw』

 『左?普通に聞こえる』

 〈いやなんか息っぽいの〉

 『環境音じゃない?』

 〈ねむちゃん息近め?〉


 見えている。


 誰かが、見えている。


 いや、聞こえている。


 配信には乗らないはずのものを、少なくともひとりが。


 私は録音ボタンの赤い点を確認した。ローカル録音は回っている。昨日と同じなら、あとで聞き返しても何も残らない。けれど今、コメント欄には確かに、左だけ変だと言う人がいる。


「今日は、左右のチェックも兼ねてます。もし音量差あったら教えてください」


 嘘がすぐ出た。配信を守るための嘘。自分を守るための嘘。


 『左ちょい近いかも』

 〈右はクリア〉

 『左に布?』

 〈ノイズかな〉

 『こっちでは聞こえない』

 『イヤホンだと左ざらってする』


 コメントの温度が変わっていく。眠い、気持ちいい、という柔らかい流れの間に、小さな硬い石みたいな言葉が混ざる。左。布。息。変。


 視聴者数は三百九十六人。増えている。


 こういうとき、人は離れない。怖がる人も、茶化す人も、確認したい人も、画面の向こうに残る。私はそれを知っている。配信者だから。だから余計に、切れない。


 すう。


 さり。


 呼吸のあとに、布が鳴った。


 昨日と同じ古い衣擦れ。けれど今日は、私の左後ろではなく、ヘッドホンの左パッドのすぐ内側で鳴る。耳と機械の境目。ここから先に入られたら、もう部屋の音か、私の頭の中の音か、区別がつかない。


 〈今の聞こえた〉

 『なに?』

 〈左のサリってやつ〉

 『演出?』

 『録画してる人いる?』

 〈聞こえない人は聞こえないっぽい〉

 『片耳だけ?』


 私の指から力が抜けた。


 片耳だけ。


 それは配信の不具合として、ありえる言葉だった。イヤホンの差し込みが甘い。左右のバランスが崩れている。端末の相性。どれも説明になる。


 でも、コメント欄の「片耳」は、私の耳と同じ場所を指していた。


 左。


 「いったん、音を止めますね。無音チェックします」


 私はブラシを置いた。手を膝に置く。口を閉じる。息を浅くして、なるべく音を出さない。


 部屋は静かになる。


 PCのファン。遠くの車。冷蔵庫の低い唸り。


 そして、左耳のすぐそばで、布がゆっくり擦れた。


 さ……り……。


 コメント欄が止まった。


 流れが、ほんの一秒だけ途切れた。


 その一秒の後に、同時に何行も落ちてきた。


 〈聞こえた〉

 〈左〉

 『今なに』

 『息じゃない?』

 〈いや服の音〉

 『うち録画してる、確認する』

 〈ねむちゃん今動いた?〉

 『怖いからやめて』


 血の気が引く、という感覚を、私はそのとき初めて音で知った。自分の体の内側から、さっと何かが遠ざかる。耳の奥が薄くなる。


 私は動いていない。


 それを言うべきか迷った。言えば、配信はホラーになる。言わなくても、もうなっている。


「……私、今、動いてないです」


 口に出した瞬間、視聴者数が四百八十を超えた。


 『え』

 〈やば〉

 『ガチ?』

 〈やめよう〉

 『そういう回?』

 〈ねむちゃん顔映して〉

 『切った方がいい』

 〈続けて、確認したい〉


 続けて。


 また、その言葉だった。


 私は机の下で拳を握った。爪が手のひらに食い込む。痛みがあると、自分の輪郭が戻ってくる。


 「あと、三分だけ。三分だけ無音チェックして、変なら終わります」


 本当は今すぐ終わりたい。でも、終わったあとの部屋に一人で残るほうが怖かった。赤い配信中表示がある間だけ、私は誰かとつながっている。視聴者に聞こえるかもしれないという事実が、恐怖であると同時に、細い命綱になっていた。


 無音の三分。


 タイマーを画面端に出す。二分五十九秒。二分五十八秒。


 私は息をひそめる。


 左耳で、呼吸がする。


 すう。


 私の吸うタイミングとは違う。


 さり。


 布が動く。


 遠いのか近いのか、もう分からない。左という方向だけが異様にはっきりしている。音量は小さい。小さいのに、私の心臓より前にいる。ヘッドホンの中で鳴っているのではなく、ヘッドホンが誰かの体温を私の耳に押し当てているみたいだった。


 〈また〉

 〈左〉

 『今度は聞こえた』

 『音量上げたらいる』

 〈録画には乗ってる?〉

 『クリップ作れない、なんで』

 〈コメント打つと消える〉


 クリップ作れない。


 その文字に、背中が冷えた。配信サイトの機能不良かもしれない。回線が混んでいるだけかもしれない。でも、誰かが聞いたと書いた瞬間に、証拠だけが逃げていく感じがした。


 私はローカル録音の波形を横目で見る。無音のはずの時間、メーターはほとんど動かない。けれど左チャンネルの一番下、緑にも届かない細い線が、呼吸のたびに震えているように見えた。


 見間違いであってほしい。


 二分を切った。


 コメント欄に、見覚えのある名前が上がった。


 『ヤモリ:ねむさん、左のモニターを外してください』


 ヤモリさん。


 いつから来ていたのか分からない。配信初期からいる古参で、いつもは短い挨拶と、終わり際の「おつねむ」しか残さない人だ。投げ銭も、長文も、馴れ馴れしいコメントもしない。だからこそ、その一行は変に重かった。


 〈ヤモリさん?〉

 『なにそれ』

 〈古参きた〉

 『外したらハウる?』

 『ねむちゃん外さないで』


 私は左手を上げかけた。


 ヘッドホンの左パッドに、指先が触れる。


 その瞬間、左耳の中で、誰かが息を止めた。


 すべての音が、薄い膜の向こうへ下がる。


 冷蔵庫も、PCのファンも、コメント通知の小さな音も。


 聞こえるのは、私の心臓と、左耳のすぐ内側にある沈黙だけ。


 ヤモリさんの次のコメントが表示された。


 『ヤモリ:外すなら、右から。左を先に外すと、あの人が部屋に出ます』


 タイマーは、残り一分三十七秒で止まっていた。


(第5話へ続く)

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