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布の鳴る左耳

 配信を終わらせるボタンは、画面の右下にある。


 赤い「配信中」の表示のすぐ隣。マウスを動かせば、たった一回のクリックで全部が暗くなる。コメント欄も、視聴者数も、私の声を待っている小さな波形も、まとめて止まる。


 でも私はクリックできなかった。


 三百九十二人。


 その数字が、深夜一時四十二分の部屋で、家賃と光熱費と、来月のカードの引き落としの形をしていた。昼のバイトを辞めてから、配信の収益は生活そのものになった。怖いから切る、で済むなら、最初から深夜に耳元で囁く仕事なんて選んでいない。


「……大丈夫です。ちょっと、静かな時間にしますね」


 私の声は、自分の喉から出たものなのに、少し遠く聞こえた。


 『無理しないで』

 〈水飲んで〉

 『今の間、めっちゃよかった』

 『左だけ何かあった?』


 左だけ。


 その言葉を見た瞬間、ヘッドホンの内側で、また誰かが吸う準備をした気がした。音の前に、空気の置き場ができる。耳のそばに、冷たい隙間が開く。


 すう。


 小さい。けれど確かに、左。


 私は笑うつもりで唇を持ち上げた。画面の中の自分は見ない。配信ソフトのレベルメーターだけを見る。左チャンネルの緑は、今度は動かなかった。さっき震えたのが嘘だったみたいに、タッピングを待つ平らな棒になっている。


「耳かき、戻します。左から、ゆっくり」


 言いながら、私は膝の上の手をほどいた。


 指先が冷たい。マイクスタンドに触れると、金属の温度がやけにはっきり分かった。左のバイノーラルマイクに、綿棒を近づける。


 こしゅ。


 いつもの音。


 こしゅ、こしゅ。


 柔らかい綿が、耳の模型の縁をなぞる。視聴者はこの音が好きだ。コメント欄に、眠い、助かる、落ち着く、の言葉が戻ってくる。私はそれに合わせて、台本どおりの息を混ぜる。


「力を抜いてくださいね。左耳の奥まで、ゆっくり……」


 すう。


 今度は私の囁きの下に、呼吸が重なった。


 私は綿棒を止めなかった。止めたら、また確かめてしまう。確かめたら、そこから先に進まないといけなくなる。


 こしゅ。


 すう。


 こしゅ。


 すう。


 呼吸は、私のテンポを覚えていた。綿棒を動かすたびに、間を縫う。音としての大きさはまだ小さい。けれど距離は昨日より近い。昨日は左耳の外側に誰かがいた。今日は、ヘッドホンのクッションと耳の間に、薄く唇を差し込まれているみたいだった。


 『ねむちゃん息ぴったり』

 〈今日ちょっと怖いくらい近い〉

 『左の空気感すごい』

 『さっきから服こすれてる?』


 服。


 私の手が、そこで止まった。


 こしゅ、の残響が消える。その奥で、呼吸とは別の音がした。


 さり。


 布が、ほんの少し動く音。


 薄い袖口が机の角に触れたような。誰かが膝の上で、服の裾を握り直したような。乾いた布と布がすれ合う、あまりに生活じみた音。


 左耳の少し下。


 マイクではなく、私の左肩のあたり。


 私はすぐに自分の服を見た。黒いパーカー。袖は手首まで下ろしている。右手は綿棒、左手はマイクスタンド。どちらも動いていない。膝も、肩も、布を鳴らすほど動かしていない。


 『止まった?』

 〈寝落ちしそうだったのに目さめた〉

 『衣擦れいいね』

 『今のわざと?』


 衣擦れ。


 コメントにその字が出た途端、部屋の温度が一段下がった気がした。


 私は配信の音量を下げていない。ヘッドホンのつまみも触っていない。なのに、その布の音だけが、やけに手触りを持っていた。耳で聞くというより、首筋に布の端が触れてくる。


「パーカーの音、入っちゃったかも。すみません」


 嘘をつくのが早くなっている。


 自分でも分かった。


 私はわざと袖を動かした。マイクに近づけ、パーカーの布を指でこすった。


 さり、さり。


 配信ソフトのメーターが、左右一緒に小さく揺れる。視聴者に届いている音。録音に残る音。説明できる音。


「これですね。少し離します」


 『あーそれそれ』

 『布音すき』

 〈いやさっきのもっと左奥だった〉

 『今のは普通に袖』


 左奥。


 また針が混じる。


 コメント欄の速さが変わる。癒しの流れの中に、聞き分けようとする人が増えている。視聴者数は四百二十七人。深夜の数字としては、私には十分すぎた。怖がるほど見られる。見られるほど、切れなくなる。


 私はマイクから体を離した。


「一回、無音チェックします。環境音だけ、十秒」


 この言い方なら不自然じゃない。ASMR配信ではよくある。ノイズ確認。定位確認。言い訳はいくつもある。


 私は両手を机の上に置き、指を開いた。袖口も机から浮かせた。足を床につけたまま、息を浅く止める。


 一秒。


 冷蔵庫の低い唸りが、壁の向こうからかすかにある。


 二秒。


 外の道路を、遠い車が一本通る。


 三秒。


 ヘッドホンの左だけが、空気を吸う。


 すう。


 四秒。


 さり。


 布が鳴った。


 左下。さっきより近い。私の肩ではなく、椅子の左側。誰かがそこにしゃがんで、膝にかかった服を整えたみたいに。


 私は声を出しそうになって、舌を上あごに押しつけた。


 メーターは動かない。


 録音に乗っていない。


 なのに、モニターの中では確かに鳴っている。


 五秒。


 さり。


 少し上がった。


 椅子の座面の高さ。


 六秒。


 すう。


 耳の左後ろ。


 私は息を吸ってしまった。音が大きく入る。メーターが左右に跳ねる。コメント欄も同時に跳ねた。


 『今びくってした?』

 〈無音じゃないじゃんw〉

 『袖の音リアル』

 『左、誰か動いたみたい』

 〈こわいこと言うな〉


 誰か動いたみたい。


 その一文で、喉の奥が固まった。


 私は配信を切る口実を探した。体調不良。機材不良。回線不安定。どれでもいい。だけど、画面右上の投げ銭通知が一つ光った。


 五百円。


 『無理せず続けて。今日の左すごく好き』


 続けて。


 好き。


 その二つの言葉が、私の逃げ道を柔らかく塞いだ。


 もちろん、視聴者は何も知らない。怖がらせようとしているわけじゃない。私の生活も、机の下で震えている足も、ヘッドホンの左にいる何かも知らない。ただ音を聴いて、眠る前の居場所に来てくれている。


 私はその居場所を、今日で壊したくなかった。


「ありがとうございます。じゃあ、あと十分だけ。左耳、布の音も少し入れながら」


 自分で言ってから、馬鹿だと思った。


 でもコメント欄は喜んだ。


 『やった』

 〈助かる〉

 『無理ない範囲で』

 『布音回きた』


 私はブランケットを取り出した。配信用の小さな膝掛け。洗濯して、柔軟剤の匂いがまだ残っている。これなら、鳴っても説明がつく。左マイクの横で、ブランケットの端をゆっくり撫でる。


 さり、さり。


 私の作る衣擦れ。


 それに重なるように、別の衣擦れがした。


 さり。


 私の音より、低い。


 布が古い。湿っている。そんな質感を、耳が勝手に拾ってしまう。定位は左ではあるけれど、マイクの左じゃない。ヘッドホンの左でもない。私の背中の左側、肩甲骨のすぐ外。


 私はブランケットを動かす速度を変えた。


 さりさり、さり。


 向こうも、少し遅れて鳴る。


 さり。


 追いかけてくる。


 私は急に、部屋の中で一人ではないことを、音で理解した。見えていないから怖いのではない。見なくても、場所が分かってしまうから怖い。左後ろに、布を着た誰かがいる。息を吸って、膝か腕を少しだけ動かして、私の配信の間に入り込んでいる。


 「……ゆっくり、眠ってくださいね」


 声が震えた。


 『今日ガチで近い』

 〈ぞわぞわするけど眠い〉

 『演出うまくなった?』

 『ねむちゃん、後ろ気にしてる?』


 私は見ない。


 後ろを見たら、配信者の顔ではいられなくなる。


 視聴者数は四百九十一人。数字が増えるたび、部屋が狭くなる。画面の向こうにいる人たちの視線ではなく、左後ろの音が、私とマイクの間に体を滑り込ませてくる。


 さり。


 すう。


 さり。


 布の音が、私の左肩のすぐ上で鳴った。


 思わず、ブランケットを落とした。


 柔らかい塊が膝から床へ落ちる。ぼす、と小さく鳴る。メーターが反応する。これは録れる。これは配信に乗る。これは私のせいにできる。


 だけど、その直後。


 さり。


 落としたブランケットとは別の場所で、布が鳴った。


 耳の真後ろ。


 ヘッドホンの外側ではない。内側でもない。私の耳に、直接、布の端が触れたような距離だった。


 私はそこで限界だった。


「ごめんなさい。今日は、ここまでにします」


 言った瞬間、コメント欄が一気に流れた。


 『おつねむ』

 〈大丈夫?〉

 『短め助かる、寝る』

 『怖かったw』

 〈無理しないでね〉


 私はエンディングの挨拶を半分だけ言って、配信終了ボタンを押した。赤い表示が消える。画面が静かになる。視聴者数がゼロになる。


 部屋は、信じられないくらい静かだった。


 私はヘッドホンを外せなかった。外したら、あの音が部屋の空気として聞こえるかもしれない。逆に、外せば消えるかもしれない。そのどちらも怖かった。


 ローカル録音を開く。


 最後の無音チェックのところまで波形を飛ばす。再生する。


 冷蔵庫。遠い車。私の吸ってしまった息。落としたブランケット。


 そこに、呼吸はない。


 衣擦れもない。


 左後ろで鳴ったはずの、あの古い布の音だけが、きれいに抜け落ちている。


 私は椅子の上でしばらく固まっていた。タイムラインを戻す。もう一度聞く。ない。別の場所を聞く。ない。配信中に私が嘘で作ったパーカーの音とブランケットの音だけが残っていて、それ以外は何もない。


 証拠がないことが、いちばん怖い。


 通知欄が光った。


 配信終了後のコメントが、ひとつ付いている。


 名前は、見覚えのないアカウントだった。


 『その音、前も聞いた』


(第4話へ続く)

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